第2話 ヴィッキーとクリス


 ――突然ですが、問題です。


 記憶がまったく戻っていない呑気な元魔王と、記憶が戻っているんだか戻っていないんだか、よく分からない元勇者。生まれ変わった二人が、顔を合わせることになりました。さて、その場に絶対欠かせないアイテムは、なんでしょうか?


 では、答えを。――それはもちろん、ビールとフライです!




***




 港に近い大衆酒場。このありふれた安酒場にて、今宵、歴史上重要な邂逅が果たされようとしていた。


 登場人物の一人は、公爵令嬢のヴィクトリア・コンスタム。――貴族令嬢と、安酒場? それは常識で考えれば、ありえない組み合わせだった。貴族令嬢はこんなところにやって来ないし、たとえ来たとしても、ひどく浮くはずである。


 ところがヴィクトリアは普通の令嬢ではない。振り切れた変わり者なのである。


 今夜の彼女はどこからどう見ても、『労働者階級に属する、貧相な少年』でしかない。――煤けて毛羽立ったハンチング帽をかぶり、上はボロ雑巾のように薄汚れたシャツ、下はつぎ当てだらけのダブダブのズボン。それをずり落ちないよう、サスペンダーで吊っている。


 変装は細部まで完璧だった。――頬には泥を塗り、眉墨でソバカスを書き足して、眉毛を太く野暮ったく塗りつぶすという、念の入れよう。


 彼女の艶やかなブルネットの髪だって、その大部分をハンチング帽の下に押し込んで隠してしまえば、女性らしさも消えてなくなる。魅惑的な胸の膨らみは、サラシで押し潰されているので、すっかり平らに見えた。


 ヴィクトリアは大変な撥ねっかえり娘であったので、この手の『お忍び』と称した夜遊びを、昔からしょっちゅう行っていた。そのため変装も手慣れたものである。


 彼女がいつものようにビールとフライを頼み、壁際の席でゴシップ誌に目を通していると、声をかけてきた者がいる。


「――相席してもいいかな」


 耳に心地よい、落ち着いた声だ。


 ヴィッキーが顔を上げると、テーブルの前に二人連れの若い男が立っていた。――安酒場の客にしては、身なりが良い。貴族ほどではないにしても、身に纏っているものはかなり上等だから、商家の跡取り息子か何かかもしれない。


 二人ともかなり綺麗な顔立ちをしていた。中でも特に、二十歳前後とおぼしき黒髪の青年のほうは、深い海の底を思わせる瞳がとても綺麗だった。佇まいも優雅で、身のこなしは黒豹のようにしなやか。


 どえらい綺麗な兄さんだわ。ヴィッキーは頭の片隅でそんなことを考えながら、彼女らしい頓着のなさで答える。


「別にいいけど」


 相席後、簡単に自己紹介を済ませた。ヴィッキーのほうは当然、本名を名乗らない。偽名を一から考えるのも面倒なので、知り合いの貴族子息のファーストネームを拝借することにした。


 碧目の青年は、『クリス』と名乗った。


 そして彼につき従っている茶髪茶目の男は、『ノーマン』。ノーマンのほうは肩ほどの長さの髪を、後ろで一括りにしている。彼はなんとも精悍な面差しをしているが、それでいてどことなく人が良さそうに見えた。なんというか、対人スキルの高そうなタイプだ。


「――何を食べているんだ?」


 クリスがそう尋ねてきたので、フライの乗った皿をテーブルの中央に押し出しながら、教えてやる。


「小魚のフライ。衣にハーブが混ぜてあって、なかなか美味いよ。――食べる?」


 ヴィッキーとしては彼らに気前よくおごってやる義理もないのだが、彼女は頭の中で姑息な計算をしていた。――ヴィッキーはこのあと、『ジューシーなソーセージのグリル』と『香辛料のきいた鳥のフライ』を追加注文したいと考えていた。ここで小魚のフライをシェアすることにより、この男たちに、ソーセージと鳥のフライをおごってもらえるかもしれない。つまり少ない投資で、多くのものを回収できるわけだ。ヴィッキーは公爵令嬢のくせに、セコい人間だった。


 男二人もビールをジョッキで頼み、彼女のおすすめに従い、ソーセージのグリルと鳥のフライを注文してくれた。


 ――イェイ、やったね! テーブルが一気に賑わったので、ヴィッキーはご満悦でビールのおかわりを頼む。そしてふたたび読みかけていたゴシップ誌に視線を落とした。


『デズモンドの教会に安置されていた、イフリートの卵が奪われる! 正体不明の武器商人が関与か』


 記事に目を通しながら、ヴィッキーは難しい顔つきになった。


「そもそも『イフリートの卵』ってなんなの? イフリートって鳥科?」


 卵を産む生きものはほかにいくらでもいるのに、お馬鹿なヴィッキーは、鳥料理を頼んだせいで、頭から鳥が離れなくなっていた。


「さぁね。上位精霊が卵から孵るなんて話は、いまだかつて聞いたこともないが」


 クリスという男は特段、協調性があるタイプにも見えなかったが、日常会話につき合うのは億劫でもないらしく、ヴィッキーの下らない話にも返事をしている。


 彼が興味深げにゴシップ誌を見おろしながら続けた。


「卵を実際に見た者はいない。大昔のデッサン画しか残っていないようだし、騎士団が箱から卵を出して本格的に調べる前に、武器商人に奪われてしまったらしい」


 クリスはそう言って、白黒印刷の紙面を指さしてみせた。――これが大昔に描かれたデッサン画なのだろう。鉛筆で描かれたらしいそれは、最低限の書き込みしかされてなく、これだと楕円形ということしか分からない。隣に煙草でも描いておいてくれたなら、大きさがなんとなくつかめたのに、とヴィッキーは思った。


「大きいのかな」


「そうでもないんじゃないか? よく知らないけど」


 分かっていることはとても少ない。――教会に安置されていたイフリートの卵が、封印された箱ごと持ち去られてしまった。中を見た者は誰もいない。


 ヴィッキーは考えを巡らせる。――クリスはさっき『上位精霊が卵から孵るなんて話は、いまだかつて聞いたこともない』と言っていたけれど、イフリートの卵が教会に安置されてから、すでに三百年がたっているわけだ。十八年しか生きていないヴィッキーからすれば、それはとてつもなく長い年月に感じられた。三百年間、卵の状態を保っていたのなら、もうそれがスタンダードと言っていいんじゃないか?


「――魔法がこの世界から絶えて久しいよね」


 行儀悪く机に頬杖を突きながら、そんな呟きを漏らす。


 ――三百年前、魔王と勇者が激突し、魔王が消えたという伝承が残っている。それを境に、人は魔法を使う能力を失い、ほかの魔族たちも一斉にどこかへ姿を消したが、なぜかイフリートだけが卵化して残った。


 人が魔法を使えなくなったのは、『魔王』という明確な人類の敵がいなくなったことで、その対抗手段も消滅したということだろうか。その辺の仕組みは、頭が良くないヴィッキーにはよく分からない。


 そして『イフリートの卵強奪事件』と関連して取り上げられているのが、美しい聖女の持ち上げ記事である。――三百年前の魔王消失をきっかけにして、『聖女』という存在も消えた。それが最近また現れたのだという。――新時代の聖女。希望の光。


 聖女は美しい容姿ばかりでなく、中身も素晴らしいとのことである。正義感が強くチャーミングな彼女は、民衆から絶大な支持を得ていた。


 ――ヴィッキーは聖女の写真を眺めながら、『だけど私のほうが美人ね』と考えていた。聖女は美人といえば美人なのだが、どちらかというと可愛い寄りである。柔和で、爽やかで、あどけなく、キラキラしている。簡単に言うと、男受けしそうなタイプ。


 ヴィッキーはふうとため息を吐く。小魚のフライに手を伸ばし、尻尾部分を行儀悪く指でつまんで口に放り込んだ。白身の小魚は元々臭みが少ないのだが、衣に混ぜてあるハーブの香りがふわりと鼻に抜け、アテとしては最高。なんともビールが進む。


 ふとヴィッキーは、この小魚のフライさえあれば、ビール→小魚のフライ→ビール→小魚のフライ……と永久的にものを食べ続けることが可能なのではないかと思った。


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