第5話 触れる
イーノクは『これでやっとこの変人が出て行ってくれる』と安堵した。
彼女が口にした「今日という日があなたにとって、素敵な一日でありますように!」は〆の言葉だから、これにて厄介者は去り、ようやくこの執務室にも平穏が戻るだろう。
ところが。
「――それで君は、どうしていっぱいいっぱいになっているんだ?」
おい、誰だ会話を続けようとしているやつは……イーノクは反射的に苛立ちを覚えたあとで、すぐに我に返った。この部屋にはもともと自分と陛下しかいなかったのだから、ソフィアを引き留めた人物が誰かとなれば、答えはハッキリしている。
……え、陛下どういうつもり……?
他人に興味を示すことがほとんどない御方なのに、わざわざ彼女に質問したのか? せっかく相手が帰ってくれそうなのに?
イーノクは発作的にバルコニーに飛び出して、『なんだこれ――‼』と叫び出したくなった。けれどそんなことをしたら『イカれている』と思われ、これまでコツコツ築いてきた社会的信用を失いかねないので、自制心をかき集めて必死で我慢した。
大混乱のイーノクをよそに、会話を続ける目の前のふたり。
「話せば長いんですよ」
とソフィア。
「長くなるとマズいのか?」
「私、忙しいんです。親切なあなたのことは好きだけれど、そんなに長く喋ってはいられないわ」
忙しいだぁ……? 何様だよ、と半目になるイーノク。陛下のほうが百倍忙しいからな……!
「そうか」陛下は観察するようにソフィアを見つめる。「じゃあひとつだけ聞かせてくれ。侯爵令嬢の君が、なぜ皇宮資料室で仕事をしている?」
「それはね」
ソフィアの眉根がキュッと寄る。まるでお気に入りのドレスに、ドレッシングをぶちまけてしまったような顔つきだった。
「最低最悪なクズ男と縁を切るためなの! でも彼、身分だけは高いから厄介で。私は、私を助けてくれそうな、親切な権力者を探さないといけないの。ええと――侍女のルースがね? お嬢様はお馬鹿だけれど、『引き』だけは強いから、皇宮資料室で働いて、味方になってくれそうな人を見つけなさい、って言うから」
ぶちまけるソフィアを、陛下は相変わらずのポーカーフェイスで眺めているのだが、なんとなくリラックスしているようにも見えたので、彼はこの時間を楽しんでいるのかもしれなかった。
イーノクとしてはもう彼女の話には引っかかりを覚えっぱなしで、一体どこから突っ込んでいいやら迷うくらいだった。
ソフィアのお喋りは貴族令嬢としては問題だらけである。あまりに慎みを欠いている。
うっ――やはりだめだ! もう黙ってはいられない――イーノクは静観するのを止めて、口を挟むことにした。
「レディ・ソフィア――あなたはオーベール女史から、本をここへ運ぶように言われたのだね?」
「そうですよ」
「ここが誰の部屋か聞いていないのか?」
「ここが誰の部屋かはどうでもいいわ」
おい、よくないだろ! というまっとうな指摘はさておき。
「目的地の名前も知らず、よく辿り着けたものだな」
この感じでは『×階の東の角部屋』とかざっくり口頭で指示されても、馬鹿そうだから自力で探し出すのは無理そうなのだが? 『陛下の執務室』という目的地を把握していれば、道中で誰かに場所を訊けるだろうけれど。
「オーベール女史からは、『ここへ届けなさい』と地図をもらったの。私が迷わないように、皇宮資料室からの道順が書いてある――あ! そうだわ」
ソフィアはデスクに置いた本のほうに手を伸ばし、あいだに挟んであった紙片を摘まみあげた。
「地図は回収しますね。これがないと私、帰り道が分からないから」
ソフィアがへらへら笑いながら地図を振ってみせたので、イーノクはデスクを回り込んで彼女に近寄り、念のため紙片を確認しておくことにした。
ありえないとは思うのだが、これらのぶっ飛んだ行動がすべて、陛下の気を惹くための作戦という可能性も考慮しなければならない。イーノクは立場的に、脅威を把握しておく必要があった。
紙片を確認してみると確かに彼女の言うとおり、館内配置図が描かれている。そして目的地である現在地――陛下の執務室に当たる場所に『本を届けるのは、ココ!』とメモ書きしてあった。
オーベール女史のことはイーノクも知っているが、中途半端な仕事をしたことはないし、無駄に新人いびりをするような人でもない。かなり厳格ではあるものの、公正な人物であると思う。
ということはオーベール女史なりになんらかの思惑があって、ソフィアをここへ寄越したのか……?
考えごとをしていると、ソフィアが横手からさっと地図を奪い返した。
「じゃあ私、これで! 考えることがいっぱいありすぎて、いっそ何も考えられなくなってきたわ!」
イーノクは『君が探している答えは、この部屋の中にあるぞ!』と考えていた。彼女が媚びて味方にすべき権力者は、目の前にいるノア・レヴァント皇帝陛下をおいてほかにいない。
しかしわざわざ教えてやる義理もないので、イーノクはソフィアをリリースすることにした。さっさと帰ってくれるなら御(おん)の字だと、黙って彼女を見遣る。
すると。
「――また会おう、ソフィア」
そんなふうに穏やかに声をかけたのは、普段はこういった勘違いされるようなことを絶対に口にしないはずの陛下その人だった。笑顔こそ浮かべていないものの、付き合いの長いイーノクは、陛下の瞳がいつになく物柔らかであることに気づいていた。
……これはいよいよもう、勘違いではないのかもしれない?
「本を頼みたくなったら、いつでも言ってくださいね」
ソフィアは屈託なく答え、『じゃあ』と立ち去る素振りを見せたのだが、ターンしかけていた体を途中でピタリと止めた。彼女は何かが気になった様子で、怪訝そうに陛下のほうに顔を向けて固まっている。
「何か?」
「え、いいえ――んー……」
ソフィアは言おうか言うまいか……というように迷いを見せてから、困ったように腕組みをして、眉を複雑な形に顰めた。少し斜(はす)に構えた体勢のまま、チラチラと陛下の首下あたりを見つめ、瞳をすがめている。
「言いたいことがあるなら、遠慮せずに言ってくれていい」
「あのね、ちょっと、それ……」
ソフィアはなおも迷ってから腕組みを解き、足を進めて、執務机にぐいと身を寄せた。手のひらをデスク上に突き、上半身を乗り出す。
彼女が陛下に対してこのような接近を試みるのは二度目であったけれど、今度のそれは前よりもずっと慎重だった。
「そのブローチ、なんていうか……」
陛下の上着に着けられているブローチがなんだか気になる。
イケてない……ソフィアはそう思ったのだけれど、他人の趣味に口を出すのもどうかと思ったので、最後のほうはほとんど声になっていなかった。
細かくカットされた黒い石が贅沢に使われていて、プラチナの枠組み内に収まっている。なんとも不思議な形状で、蝶の羽の片側のようにも見えた。細工自体は凝っていて精巧であるのだが、まず服に合っていないし、彼自身にも合っていない気がした。
言葉にしづらい、変な感じがする。
それにこれ、上下逆のほうが良さそう……なんでこうなっているのだろう?
無意識に手を伸ばすと、ブローチに接触する前にサッと手を掬い取られる。
「――触れてはだめだ」
ソフィアはびっくりして、握られた手から視線を上に移した。
そこにあったのは、サファイアのように透き通った瞳。
まるで時間が止まったかのよう。ソフィアは今自分がどこにいて、何をしていたのか分からなくなった。
五十センチも離れていない近い場所に、彼がいる。年齢はソフィアとそう変わらないだろうか。プラチナブロンドの清潔感のある髪に、滑らかな肌。品の良い鼻梁。形の良い唇。
彼の瞳はまるで海の静けさを閉じ込めたみたいだわ……ソフィアはそんなことを考えていた。
水平線の向こう側は、きっとこんなかしら――世界の果てと溶け合う、深い、深い、青。
ソフィアの心臓がドキリと跳ねた。かぁっと頬に熱が上がったのが、自分でも分かった。
――ノアはその瞬間、自身を取り巻く空間の歪みを認知した。
馬鹿な、と彼は思った。こんなことはありえない。
彼もまた驚きを覚え、すぐ目の前にある菫色の瞳を覗き込んだ。
陽気であるはずの彼女の虹彩は、近くで覗き込めば繊細に色を変える。ほむらのような熱と、哀しみが交ざり合ったような、神秘の瞳。
「ご、ごめんなさい……私、不躾(ぶしつけ)だったわ」
ソフィアがさっと身を引くと、ノアが確かに捕まえていたはずの彼女の華奢な指が手の中から去っていった。
彼女が部屋を出て行く――あとに大きな問題を残して。
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