第4話 ソフィア、氷帝と遭遇
氷帝ことノア・レヴァントの執務室に、一風変わった女性が入って来たのは、ある日の昼下がりのことだった。
その時ノア・レヴァントは側近のイーノクと打ち合わせをしていた。執務机に向かって着席しているノアと、机の横あたりに佇むイーノク。
――コンコンコン、とノックの音が響き、イーノクが『どうぞ』と言おうとしたタイミングで扉が開いた。
イーノクはまだ『どうぞ』と許可していないのに扉を開けられたもので、呆気に取られてしまった。というのも、日常生活で無礼な振舞いをしがちな人間がいたとしても、氷帝を前にした時だけは、お行儀よく態度を改めるのが普通だからだ。
「失礼しまぁす」
その人物は本を五冊ほど抱えて、俯きがちに、顰めツラでこちらに近寄って来る。まるで難解な数式でも解いているような顔つきだ。
「君は誰だ」
イーノクが尋ねると、その人物は顔も上げずにボソボソと答えた。
「私はソフィア・ブラックトン、皇宮資料室所属です。オーベール女史から本をこちらに運ぶように言われて、お持ちしました」
――ドサリ、と少々乱暴な動作で、デスクに本を置く彼女。
「ブラックトン……? ブラックトン侯爵の娘か?」
「んー……」
生返事だ。イーノクは『この女は、飛び抜けて馬鹿か、飛び抜けて大物かのどちらかだな』と考えていた。
あまりに無礼なのだが、ありえなさが突き抜けているため一周回って冷静になり、こちらも静かに見守る形になってしまう。
「――君は」
珍しく陛下が初対面の人間に自分から話しかけたので、イーノクはこれに度肝を抜かれた。ぎょっとして視線を転じると、陛下が感情を読み取らせないポーカーフェイスで、静かに彼女を眺めている。
「誰に対しても、そんなに不愛想で無礼なのか?」
「うん?」
本を置いたので用は済んだとばかりに立ち去りかけていたソフィアが、夢から覚めたという様子でパチリと瞬きした。そして彼女はゆるりと視線を上げ、真っ直ぐに陛下を見つめた。
ふたりの視線がぶつかる。なんともいえない緊張の時間が流れ――……。
数秒後、ソフィアがハッと息を呑み、ガバッとデスクに上半身を投げ出したので、そのあまりに危険な迫り方にイーノクは肝を冷やした。
しかし彼女のほうには陛下を害する気など毛頭ないようで……。
というのも、ソフィアは瞳を揺らし、手のひらをこすり合わせて、憐れに、そして知性の欠片もなく懇願し始めたからだ。
「わぁん、ごめんなさーい! 私、今、いっぱいいっぱいなんですぅ! さっきは考えごとをしていただけなの! 皇宮資料室の上司であるオーベール女史に、私の態度が悪かったって告げ口しないでもらえます?」
「…………」
陛下は顔色ひとつ変えなかったものの、何もコメントを差し挟まなかったので、もしかすると呆気に取られているのかもしれなかった。そしてこの場の誰も制止しないから、ソフィアの馬鹿話が止まらない。
「オーベール女史は推定年齢六十代後半なんですけどぉ、鍛えていてムキムキマッチョなの! 彼女が繰り出すラリアットひとつで、私は天に召されてしまうわ! あーん、まだ死にたくないよー!」
「君はオーベール女史から日常的に暴力を振るわれているのか?」
「あのねぇ、もしも実際に殴られているなら、私は今こうして生きていませんよぉ!」
「……そうか」
「それで――どうです? 私の態度が悪かったこと、内緒にしてもらえます?」
拝んでいる手の隙間から、チラチラと陛下の顔色をうかがうソフィア。本人が真剣なだけに、行動の馬鹿馬鹿しさがより際立つ。
ソフィアの言動がぶっ飛んでいるぶん、陛下の冷静さが上手く空気を調和していた。
「分かった。内緒にする」
「本当ですね?」
「本当だ」
ソフィアは途端にご機嫌になり、よっこらせとデスクから体を引きはがし、執務机の前で行儀良く気をつけの姿勢を取った。
そうしてニコニコ顔で陛下を眺め、屈託なくこう言ったのだった。
「あなたって、とってもいい人ですね! それに姿形もとっても素敵! 今日という日があなたにとって、素敵な一日でありますように!」
「ありがとう」
それを聞いた陛下の瞳が柔らかく細められた気がして、イーノクはこのあまりにありえぬ事態に口をカクンと開けていた。
陛下は誰に容姿を褒められたとしても、これまでただの一度も『ありがとう』なんて返したことはなかったからだ。少なくともイーノクは、そんな場面を今日以外に見たことがない。
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