【高田美也子の章】=束縛からの解放=

 義忠さんは、ワタシたちよりも先に宿を立った。東京へ行くと言っていた。東京で何をしようとしているのかワタシにはわからない。そのことは後日、ニュースで知ることとなるが・・・。

 ワタシも一旦、東京へ向かうこととした。まずはもらった離婚届を提出するためである。

 そして再び自由になった身で悠人さんに会いたいと思った。子供の顔を見てほしかった。悠也をその手で抱いてほしかった。

 ワタシは悠也を抱いて東京から大阪へと向かった。実家など後回しで良い。どうせ今頃は会社のことであたふたしているだけだろう。そう思ったから。

 但し、これから大阪へ向かうこと。すでに義忠さんとは離婚済みであること。悠人さんを尋ねる目的であることだけは報告しておいた。妙に騒ぎ立てられるより、事実を報告しておいた方が父や母の不安も和らぐだろうと思ったからである。



 大阪に着くと、イの一番に悠人さんに電話してみた。しかし、何度コールしても応答はなかった。それどころか「お客さまの都合により通話できません」とアナウンスされる。

 あれから何があったの?どこにいるの?不安な気持ちで一杯になるばかり。

 ワタシはHKホテルに宿をとった。偶然にも三○三号室が空いており、ここをしばらくの拠点と決めた。

 次にワタシはケイ子さんに電話してみた。

「ご無沙汰しております美月です。その節はお世話になりました」

 ケイ子さんは電話の相手がワタシだとわかると、急に声を荒げた。

「美月ちゃん、あんたどこで何をしてたん?あんたからの手紙はちゃんと太郎さんに渡したで。そやけど、どないなってんの?あれから太郎さんは姿を見せへんようになったし、連絡してもつながらんし。ちょっと太郎さんが可哀想過ぎひん?そや、あんた太郎さんの子供、ホンマにできたんか?」

 矢継ぎ早に次々と投げかけてくる問いかけ。さもあらん、逆の立場ならワタシもそうしたことだろう。

「太郎さんの子供は確かに授かりました。今もワタシのそばにいます。あれからいろんなことがありました。そしてようやくワタシも自由の身になりました。だからあの人にこの子を会わせたいんです。太郎さんがどこにいるのか、何か知ってることはありませんか」

「美月ちゃんからの手紙を読んだ太郎さんは、絶望的な雰囲気やった。誰にも言わんとってって言われたから、誰にも言うてへんけど。あれ以来、あの人姿を見せへんねやん。ウチかて心配になったし、連絡先は美月ちゃんから教えてもらってたし、何回かかけてみたけど出えへんし。どうしようもないねん」


 結局、ケイ子さんに尋ねても悠人さんの所在はわからずじまいだった。

 ケイ子さんの他に頼るあてもなく途方に暮れていたが、ふと思い出したことがある。彼が「たまにクラシックを聴きながら飲むウイスキーがええねん」などと言っていたことを。

 そこで梅田周辺のクラシックを聴かせる店をくまなく探した。ただのバーなら限りなくあるかもしれないが、クラシックを聴かせる音楽バーだとその数は知れている。

 インターネットで検索された店は全部で十五軒。これならシラミ潰しにあたっても知れている。ならば行動に移すのみ。

 ただ、梅田とひと口に言ってもその範囲は広大である。まずは大阪駅を挟んで北と南に分かれる。しかし彼は昭和の時代を生きてきた人、新しく開発された北側に馴染みの店があるとは思えない。駅の南側に絞ろう。それでも西梅田堂島界隈から東梅田お初天神界隈まで膨大な広さを誇っていた。

 ワタシは東梅田界隈から探索することにした。なぜなら『ピンクキャロット』がこの界隈の中にあるから。きっとそんなに離れていない場所にあるに違いないと踏んでいた。

 それでもすぐそばにあるとは思えなかったので、まずはお初天神通りから探っていった。この近辺で音楽バーは三軒。一軒は若者が集うような賑やかなバーだった。ここは違うだろう。二軒目はシックな感じのバーで、BGMにはジャズやブルースが流れている。オールディーズ専門といった感じだった。三軒目はいかにも重厚な雰囲気のバーだったし、クラシックも流れているけれど、悠人さんの好みには合わないだろうと思った。

 次に駅前ビルの地下を探索した。ここで該当する音楽バーは一軒のみ。もともとサラリーマン天国の地下街である。音楽バーそのものが場違いなのだ。そしてここのバーでも、悠人さんの痕跡を見つけることはできなかった。

 ワタシはそのまま東梅田駅に戻り、駅の南側を中心とした繁華街に目を付けた。ここには目立たないが、結構渋い店が並んでいる。その中で音楽バーと言えるのは『プラウド』という店と『レインボー』という店の二軒だった。

 もう夕方になり、日も暮れてきたが、このエリアだけでも今日中に回っておきたかった。この界隈で見つからなければ、範囲をもっと広げなければならないとも思っていた。

 そんなことを思いながら、一軒目の『プラウド』を尋ねた。ここはバーというよりは、食事が充実している分、居酒屋に近く、若者が多い。流れている曲もロック系やポップ系が多い感じだった。

 そして二軒目の『レインボー』の入り口のドアを開けた瞬間、店の雰囲気からもピンとくるものを感じた。あの人の匂いを感じたのかもしれない。

「すみません。大原悠人さんという方を探しているんですが、ご存じではないでしょうか。もしかしたら疾風太郎と名乗っていたかもしれませんが」

「あなたは・・・」

「訳あって日本を離れておりましたが、以前に大原さんに可愛がっていただいた者です」

「悠さんなら知ってますよ。その人が疾風太郎さんだったってこともね。ウチの常連さんの一人でした。悠さんが何か?」

 やっぱりワタシの推察は間違っていなかった。それにこの店、悠人さんの趣味にピッタリの雰囲気だ。しかし、マスターの言葉尻が気にかかった。

「でした・・・?今はこちらには?」

 マスターはカウンターの向こうで、美也子の姿を品定めするように眺めていたが、やがてポツポツと話し出した。

「二年ぐらい前ですかな、ある晩、すぐそこの路地裏でボロボロの姿で発見されたんです。ちょっとしたトラブルがあって、奥さんとも別れて、親御さんも亡くなられたんじゃないかな。なんだか一気に色んなものを失ったらしく・・・」

 するとマスターは何かを思い出したようにワタシの顔を食い入るように見ていたが、

「もしかしてあなた、美也子さん?」

「はい、そうです。何かご存じですか?」

「うーん」

 マスターは言うか言うまいか迷っているような感じだったが、結果的には言わないわけにもいかなかったのだろう。

「これは悠さんから直接聞いた話ではありませんが、ボロボロになった状態で病院に担ぎ込まれた後、会社の同僚の方が悠さんのポケットの中から手紙を発見したようです。その手紙の内容で、色んなことがわかったと言われてましたが、つまるところ悠さんにとってあなたは最後の希望だったようです。そのために奥さんとも別れたようでしたし。でも悠さんがココに辿り着こうとしたときにはもう廃人同様だったようです。体はアルコールに蝕まれて、もうどうしようもない感じだったと聞きました」

「彼は、悠人さんはどこにいるんです?もしや・・・」

「いや、もう少し遅かったら危なかったんですが、今は病院にいます。幸い、たまたま同じ会社の方が常連さんにいて、その人が会社の人たちに呼び掛けてくれて、色々と面倒を見ているようですね。みんな悠さんに世話になっていたみたいで、恩返しだって言ってましたね。私も時々見舞いに行くんですけど、活力っていうか、生きているって力が感じられなくてね。昔の生き生きした悠さんに戻ってほしいんですよ」

 ワタシの目からはすでに滝のように涙があふれている。あの人が見つかった。そのことの喜びと、現在の様子を聞いて、少なからず動揺している。

「教えてください、あの人が入院している先を」

「しかしねえ。今さら会ったところでどうにかなるわけじゃないと思いますよ。残念ですけど」

 ワタシは椅子に座らせていた悠也を抱き上げ、マスターに懇願した。

「この子は悠也と言います。悠人さんの子なんです。他の誰でもない悠人さんの子供なんです。一目だけでも会わせていただけませんか。お願いします」

 どんな姿でもいい。生きているなら悠人さんに会いたい。そして悠也を抱かせたい。それだけがワタシの望みだった。マスターも涙ながらに訴えるワタシの言葉に否やとは言えなかったのだろう。

「わかりました。そういうことなら会社の方に電話してみましょう。今ならまだ仕事中だと思いますから」

 マスターは悠人さんが勤めていた会社に電話を掛けてくれた。対応してくれたのが、マスターのいう常連さんだったようだ。

「悠さんのお仲間で谷口さんという方と清水さんという方が来られます。三十分くらいはかかると思いますので、もうしばらくこちらでお待ちください。ちょうどその席が悠さんの指定席でしたしね」

 マスターが指さしたのはカウンターの一番奥の席だった。

「ありがとうございます」

 ワタシは素直にお礼を述べて、その人たちを待つことにした。

 その席は店の一番奥まったところにあり、スピーカーからは最も遠い席だったが、最も美しく音が響く席でもあった。壁にもたれかかることもできるし、あの人にとっては特別な席だったのだろうと想像できた。

「あの人はいつもどんな曲を聴いていたのでしょう」

「悠さんのお気に入りはベートーヴェンの第九ですよ。何かあった時は、必ず第九をリクエストされてましたね。おかけしましょうか?」

「お願いできますか?それとオレンジジュースをいただけますか?」

 気がつくと、ワタシもかなり喉が渇いていた。悠也も同じだったろう。

 マスターが出してくれたオレンジジュースは本物の果汁だった。これなら子どもにも安心して飲ませられる。ベートーヴェンをバックに悠人さんの座っていた席で飲むオレンジジュースはまた格別な感じがした。


「ところで美也子さんでしたっけ。ご結婚されたのではなかったのですか?そのような話で伺ってましたが」

「ええ、でももう離婚しましたの。だからこそ、こうして会いに来られるんですわ」

「そうですか、しかし、確かお相手というのは帝都石油の御曹司ではなかったですか?」

「ええ、そうでした」

「やっぱり。それなら今また大変なことになっていますねえ。ご存じでしたか?」

「えっ?また・・・ですか・・・?」

 ワタシの脳裏には再び嫌な予感しか浮かばなかった。ワタシの不安げな表情をよそにマスターが話を続けた。

「なんでも御曹司がその父親をピストルで撃ったっていう話でしだが」

「・・・・・」

 ワタシは絶句した。一瞬にして目の前が真っ暗になった。

「そ、それは本当ですか?」

「ええ、しかもその後すぐに自殺したと聞きましたよ」

 確かに芯の強い人だった。けれどもそこまで思い詰めているとは気づかなかった。

 あの人のことを思うと涙が止まらなかった。ワタシは悠也を抱きしめ、彼の最後の言葉を思い出していた。

「これからは今までの分も幸せに生きてほしい」

 義忠さんはきっと最初から全てを清算するつもりだったのだろう。ワタシたちに莫大な財産を残してくれたのも、最後に離婚という自由を与えてくれたのも、きっとあの人の作ったシナリオ通りだったのだろう。

「さようなら。義忠さん。そして、今までありがとう」

 ワタシは心の中で何度も呟いていた。


 涙にくれたまま嗚咽が止まらないワタシの背後で、店のドアが開く気配がした。

「やあ、瑞穂ちゃん」

 そう呼びかけるマスターの声がした。

「こんばんわ」

 と、マスターに声をかけた女性が店内を見回してワタシの姿を見つける。

「こんばんわ。あなたが大原部長の?」

 そうつぶやいて近づいて来た。が、それを阻止するように間に入った男性がいた。

「初めまして。谷口と言います。悠さんの特別な後輩です」

 谷口さんはそう名乗ったあと、まじまじとワタシの顔を見つめていた。

「間違っていたらごめんなさい。あなたはもしや?」

「あなたがヒデさん?」

「はい」

「だったら、あなたの思ってる通りだと思います」

 悠人さんからは何度か名前を聞いていた。仲良しの後輩がいると。それならば隠す必要もない。

「お察しの通り、ワタシが美月です」

 と、言った途端に谷口さんと一緒にいた女性がワタシに躍りかかり、頬に強烈な平手打ちをもらった。そして間髪入れずに罵声を浴びせて来た。

「あんたなあ、あんたのおかげで悠人部長がどれだけの想いをしたか、わかってんの?それを今さら、今さらなんやって言うのよ!」

「何をすんねや、やめや」

 谷口さんが彼女を後ろから羽交い締めにして止めてくれたおかげで、それ以上の事無きを得たワタシだったが、元々抵抗する気などさらさらなかった。悠人さんが現在に至るまでの顛末を知る人ならば、ワタシのことを憎んでも仕方のないことであるとわかっていたから。

「この人かて悠さんと無理やり別れさせられた人なんやで、それでも悠さんに会いたい言うて来はったんちゃうん」

 谷口さんはそう言って彼女をいさめた。

「すみません。お怪我はありませんか?この子は清水さんというんですが、悠さんの絶大なシンパなんです。許してやって下さい。この通りです」

 彼はワタシに頭を下げたが、

「いいんです。結果的にあの人を追いやったのはワタシですから」

「そうでしょ?ヒデさんはなんでこの人の肩を持つんですか?」

「あのな、ほんなら聞くけど、ミズちゃんが自分の想ってる人と無理やり別れさせられて、想ってもない人と無理やり結婚せえて言われてハイハイって言うか?この人はそれを乗り越えてやっとここまで来はったんやで」

 谷口さんは、ワタシが悠人さんにあてた手紙を読んだのだろう。おおよそのことを理解しているようだった。帝都石油と菱倉商事のことも、おそらくは・・・。

 清水さんは、谷口さんに諫められ、それでもぐずりながらも攻撃的な態度を示した。彼女もきっと悠人さんのことが好きだったに違いない。本能的にそう思った。

 ワタシは心配そうな顔で見ている悠也を抱き上げ、谷口さんに紹介した。

「この子、悠也っていいます」

 すると谷口さんは驚いたような顔で、

「えっ、悠也って、もしかして・・・・・」

「ええ。悠人さんの子供です。だから、あの人にこの子を抱いてもらいたくてここまで来たんです。ワタシは構いません。会うなと言われるなら会いません。でも、この子だけは会わせたいんです」

 すると清水さんがワタシを責めるような口調で、

「そんなのだれの子供かわかるもんですか。あんな店で働いてた人ですよ」

 それにはワタシも黙っているわけにはいかなかった。

「大阪へ来てから悠也が生まれるまで、ワタシは悠人さん以外の人と関係を持ったことはありません。お疑いならDNA鑑定でも何でもしていただいても結構です」

 ワタシが毅然とした態度をとったので、もはやそのことに関して懐疑的な発言をする人は誰もいなかった。

「ボクはあの店に悠さんを連れて行った張本人です。だからあなたのことは、ミスズさんから聞いています。美月さんとしての最後の夜のことも。彼女も当時は口を閉ざしていましたけど、悠さんがどうなっているかの話をしたら、あなたとのことも打ち明けてくれました。羨ましかったですよ、あなたと悠さんが。だから・・・今から行きましょう、悠さんのところへ、悠也君を連れて。悠さんもあなたの顔を見たら、もしかしたら元気になるかもしれない。ボクからもお願いします。ぜひとも悠さんに会ってやって下さい」

 ワタシは黙って頭を下げた。涙腺が崩壊していて言葉が出なかったからでもある。

 清水さんは最後まで納得がいかないようだったが、きっちりとイニシアチブをとっていた谷口さんに従うしかなかった。


 悠人さんが入院している病院は天満橋にあった。

谷口さんによると、ここは職場の近くで、何かあった場合、すぐに誰かが駆け付けられることからここに収容されたようだ。

 また二年前、ワタシからの手紙を読んだ後、自暴自棄になった悠人さんは全てを投げだし、会社にも辞意を表明したらしいが、専務をはじめとする役員たちがそれを受理しないと決定したため、今現在も悠人さんは企画部長という肩書で会社に在席していることになっているそうだ。

 その理由として、菱倉商事の仕事が悠人さんの由来であることが判明し、そのことで会社は大きな利益を得ることとなった。従ってその功労者を蔑ろにしてはならぬとの役員会議の決定により、会社の費用で悠人さんの入院費が賄われているということである。

 結果的に父にお願いした仕事の約束が守られているということであり、そのおかげで悠人さんが守られているということである。


 案内された病院は思ったよりも大きな病院だった。部屋は五階にあり、さすがに個室ではなかったが、南向きの小綺麗な部屋だった。

 悠人さんは寝たきりというわけではなく、時折り意識が朦朧とすることがある程度で、比較的体調は安定しているという。結果的には急性アルコール中毒による後遺症ということらしいが、それならば何とかかなるのかも、そう思っていた。

 ワタシは部屋の外で待つように言われ、まずは谷口さんが部屋に入った。

「悠さん、元気ですか」

 谷口さんの問いかけに、わずかに反応していたが、目は空を見ているようだった。

「今日はね、お土産があるんです。きっと喜んでもらえると思いますよ」

 しかし、その問いかけにも、まるで聞こえないような反応だった。

 大きな刺激を与えないようとの配慮だろうか、谷口さんは悠人さんの耳元で何やら呟いた。その途端、ビクッと体が反応したのを見てとれた。

「あっ、おうっ、あうっ」

 すると悠人さんは明らかに動揺しているそぶりを見せた。

 谷口さんは、軽く悠人さんのホッペをぴちぴち叩くと、

「しっかりして下さいよ。大事なシーンですからね」

 そう言ってベッドの脇にあるハンドルをぐるぐる回しながら、背もたれを起こしていく。

 やがて体が起き上がる程度まで背もたれが立ち上がると、谷口さんはワタシを手招きして呼んだ。

 ワタシは恐る恐る、ベッドに向かって、悠人さんに向かって進んでいく。覚えていてくれているだろうか、ワタシのことがわかるだろうか、緊張感が一気に胸を凌駕する。

 ワタシが悠人さんの目の前に立ったとき、谷口さんが悠人さんの肩を叩きながら、

「美月さんですよ。悠さんが愛してやまなかった美月さんですよ」

 その声が聞こえたのか、悠人さんはゆっくりと右手をワタシの方へ差し出した。ワタシは即座に駆け寄って彼の手を握り締めた。

「悠さん、ごめんなさい。ごめんなさい」

 そして、悠人さんの手を握り締めたままその場で泣き伏してしまった。それでもすぐに我に帰ると、そばにいた悠也を抱き上げ、

「悠さん、悠也です。あなたの子どもです。二年前のあの日、あなたからいただいた命です。抱いてやってください」

 そう言って悠也を彼のベッドに乗せた。

 それに対して悠人さんは、喉から搾り出したようなかすれた声で、

「み、み、み・や・こ」

 と、ワタシの名前を呼んだ。

「悠人さん」

 ワタシも名前を呼んで、もう一度手を握り締めた。

「帰ってきました、あなたのところへ。もうどこにも行きません。この子と一緒にあなたのそばに置いていただけますか?」

 悠人さんは不思議な物を見るかのように悠也を見ていたが、やがて彼の目から涙が浮かんでくると、その目線がワタシへと移された。

「み、美也子」

 今度は先ほどよりもはっきり聞き取れる声だった。ワタシは思わず彼を抱きしめた。そして泣いた。

 悠也は訳もわからずポカンとしていたが、

「悠也、この人があなたのパパなのよ。ほら、パパって呼んであげて」

 するとまたもや奇跡が起こる。

 それまでまるで無表情だった悠也が悠人さんに手を伸ばした。そしてニッコリ微笑んで、

「パパ?」

 確かにそう言った。はっきりとそう言った。悠人さんにも聞き取れたのだろう。やせ細った腕を伸ばして悠也を抱こうとした。悠也も同じように手を伸ばして「抱っこして」と言わんばかりのしぐさを見せた。

 次の瞬間、悠也は悠人さんの腕の中にいた。満面の笑みを称えながら。同時に悠人さんの顔もほころぶ。もちろんワタシの顔も崩れる。ワタシの後ろにいた谷口さんの顔も清水さんの顔もすでに涙だらけでボロボロになっていた。

「谷口さん、お願いです。この人をワタシに引き取らせていただきませんか?こんな風になってしまった原因がワタシにあるなら、手元に引き取って面倒を見たいと思います。この子もいることですし」

「でも大変ですよ。それにあなたのご両親がお許しになりますか?」

「ワタシはすでに離婚した身です。父の会社と帝都石油との関係もすでになくなっています。それ以前にワタシは家を捨てて大阪まで来た身でもあります。それにこの子は両親にとっても可愛い孫です。否やは言わせません」

 谷口さんと清水さんがそろって悠人さんの顔を見た。彼は膝の上ではしゃいでいる悠也の姿を温かい目で見ていた。

 すると清水さんが谷口さんの袖をつかみ、涙ながらに訴えた。

「ヒデさん、悠人部長の顔が笑ってる。ウチがどんなことをしても笑わんかった人が、子供の相手をして笑ろうてはる」

 それに答えるように谷口さんが言った。

「わかってたことやん。ずっと前からわかってた。そう言うてたやろ。美也子さんが見つかって、悠さんの前に現れたら、もしかしたら奇跡が起こるかもしれんて。よし、そうと決まったら、さっそく島田さんに連絡するわ」

 そう言って谷口さんは電話をかけるために病室を出て行った。後に残った清水さんは、ワタシの手を取って涙目で訴えた。

「悠人部長をよろしくお願いします。会社で待っています。そう伝えてください」

 そういってワタシに頭を下げた。

「それはご自分で伝えればいいんですよ」

 ワタシは彼女を悠人さんの隣に立たせ、悠也を手元に引き取った。そして彼女の手を悠人さんの手の上にのせて・・・。

「悠人部長、良かったですね。心待ちにしていた人が帰ってきてくれて。次は部長がちゃんと帰ってくる番ですよ。企画部のみんなが部長を待っています」

 するとここで第二の奇跡が起こった。

「み・ず・ほ」

 名前を呼ばれた清水さんの目が真ん丸になる。その真ん丸になった目からは大粒の涙があふれだす。

「あ・り・が・と」

 その瞬間、清水さんは悠人さんに抱きついていた。

 ワタシと清水さんの間のわだかまりが無くなった瞬間だった。

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