【高田美也子の章】=大阪での出会いと別れ=

 やがて大阪での逃亡生活が始まるのだが、大阪でもあれやこれやと理由をつけて、なるべく三ヶ月程度で店を移らねばならかった。なかなか住むところは変えられないが、店だけは痕跡を残さない程度で辞めていくこととなる。しかし、多くの顧客を持たないホステスの移籍場所は意外と少ない。体一貫だけでは難しいのが現状である。

 そんなワタシの行先は、ラウンジやバーからキャバクラへそしてセクキャバへと移り渡って行く。もうそこにはピアノもフルートもない。体一つで接客を行う完全な風営法管轄の仕事である。表の世界に出ることを恐れたワタシは、こうした夜の世界で身の置き場を探すしかなかった。自分自身が堕ちていく感じがよくわかった。

 それでもいい。父の道具になるよりはマシだと言い聞かせて男性たちの酒の相手をしていた。もう、そんな店でなければ、身を隠すことができなくなってしまっていたのである。



 東京を離れてから一年半後のこと、ワタシは美月という源氏名で『ピンクキャロット』という店に席を置いていた。はからずもそこで第二の運命の扉を開くことになるとは、いったい誰が想像しただろう。さすがに体を売ることはないが、それまでの仕事よりは肌の露出も多く、ボディタッチが許される店である。

 『ピンクキャロット』に在籍して、二カ月余りが経とうとしていたある日のこと。

 その日は、いつもの通り店に出て、ワタシを指名した客の隣に座り、せいぜい色気を振りまいて媚びを売っていた。胸もお尻も触るだけなら、この店のサービスの範疇である。もう、そんな接客も慣れてしまっていた。

 しかし、ワタシはまさに衝撃的な出会いをしてしまったのである。それはさる女の子を指名した客へのヘルプであったのだが、

「こんばんわ、初めまして美月です」

 と、言って名刺を渡し、その客の隣に座ったのだが、

「・・・・・」

 彼は受け取った名刺を持ったまま、しばらく何も言わずにワタシを見ていた。ワタシもまたしばらく彼に魅入っていた。

「どうしたの?」

「いや、こんな素敵な人がいたなんて思わんかったから、びっくりしてしもて」

「これでももう結構な年齢やよ」

「いや、でもボクから見たらまだまだ若いやん。いやホンマに素敵な人やなあ」

「もう三十いってるで」

 関西弁も慣れたもので、多少の会話ならこなせる程度になっていた。その方が客受けは良いのである。

「次に来るときはキミを指名するから、ボクの事覚えといてくれへんかな。趣味で絵を描いたりしてるんやけど、エピソードをいっぱいもらえたら、キミの絵も描きたいな」

「うれしいな、描いて欲しいな」

「ボクのペンネームはハヤテタロウ。なんかメモある?」

 ヘルプについた客から名刺をもらうことが禁じられていることを知っている彼は、ワタシの名刺をもう一枚出すように求めた。それを察したワタシは急ぎばやに自分の名刺を渡した。受け取った彼はその裏側に手早く『疾風太郎』と書いて渡した。

 あっという間の時間だった。彼へのヘルプの時間は終わり、やがてワタシは席を立つ。

「また今度ね」

 彼は現在の指名の女の子に聞こえないような声で囁いた。

 ワタシもなんだかドキドキした。初めて会った人なのに、どこか懐かしい感じの人だった。この日はワタシを指名する客もいたため、再び彼のためのヘルプに行くことはなかった。それが凄く名残惜しかった。また会いたい。そう思っていた。


 親戚にひと回り年の離れた従兄弟の兄さんがいる。優しい人で、子供の頃によく抱っこしてもらった記憶がある。

 残念ながら、ワタシが中学に上がる頃、病に倒れて帰らぬ人になったが、太郎さんはその従兄弟の雰囲気によく似ていた。なんとなく太郎さんの持つ雰囲気を懐かしく感じたのはそのためだろうと思った。


 この頃のワタシは、大胆にも店の近くのアパートに住んでいた。店長の計らいで、上手く偽名で申し込めたのである。偽名を使うことは、この界隈では特に珍しいことでもなく、色々な事情を抱えている女の子も多かったのだろう。いかんせんワタシもその中の一人であった。

 帰宅後、シャワーを浴びて身を清めた後、あの人からもらったメモを眺めていた。『疾風太郎』と書かれた文字が、なんだか愛おしい。

「今度は指名してくれるって言ってたけどホントかな。次はいつ来てくれるんだろう。待ち遠しいな」

 などと思っていた。

 また、その少し前から音楽講師の仕事も並行して始めていた。毎日多くの見知らぬ男の人に身体に触れられるのが嫌だったこともあるが、単独で活動する分には偽名でも可能だったからである。そして表向きの顔は『遠藤梨名』と名乗った。地域の情報誌に「ピアノ講師出張します」と掲載してもらい、生徒を募集した。

 最初の生徒は小学生の女の子だった。アパート近くの商店街にある豆腐屋の娘さんだった。ちょうどピアノの家庭教師を探していたらしく、ワタシもここへ来てからの最初の生徒なので、かなり格安のレッスン料で契約した。

 この女将さんが良い広告塔となり、ピアノの生徒は順調に増えていった。家族が大きな企業に勤めている生徒はいなかったし、大きな発表会に出ることもなかったので、この仕事からワタシの情報が漏れる心配はなかった。


 それからのワタシは『ピンクキャロット』への出勤を週に一度だけにしていた。本業をそちらへシフトしたかったのと、太郎さん以外の男性に触れられることに違和感を覚え始めたからでもある。逆に出勤回数が少なくなると『ピンクキャロット』への出勤が待ち遠しくなってくる。あの人は本当に来てくれるのだろうかと。

 果たして、初見からひと月後の水曜日、ようやく彼が店に姿を見せた。

「こんばんわ」

「ボクのこと覚えてるかな」

「覚えてるよ、絵描きさんやろ?」

「ただの趣味やっていうてたし」

「でもすごい印象的やったし」

「ボクは一目惚れやけど」

「うれしいな」

 久しぶりの会話はごく普通の感じだった。ウェルカムドリンクで乾杯した後、ワタシは太郎さんの膝の上に乗った。このスタイルがこの店のスタンダードなのだが、ワタシの場合、自分から進んで男の人の膝に乗ることはあまりなかった。やっぱり恥ずかしいと思っていたのと、リクエストされたならいざ知らず、わざわざ見知らぬ人の膝に自ら乗る必要もないと思っていたから。

 でも、太郎さんには違った気持ちで接することができる。やはり従兄弟のお兄さんに抱っこしてもらった雰囲気があるからだろうと思う。


 そのあと太郎さんはぎゅっとワタシを抱きしめた。そしてそのまま、久しぶりに会えた余韻を味わうかのような時間を過ごせた。

「この人はワタシに会いに来てくれた」

 本能的にそう思った。ワタシも太郎さんの腕の中で、心地よく身体を委ねていた。

 しばらく抱き合ったままだったけど、太郎さんはすっと身体を離し、ワタシの目を見つめながら、

「あの、キスしてもええかな」

 と、かなり遠慮がちにお願いしてきた。ここはそういう行為が許されるお店。今までにそんなお願いをされたことがなかったワタシは何も言わず、そっと両腕を彼の首にまきつけて、静かに唇を合わせた。彼もワタシの腰に腕を回して応戦し、互いの熱い吐息を交わし合った、それが二人の初めての口づけだった。

「ハヤテタロウ。ボクの名前覚えてな。ほんで時々ボクの心を癒してな」

 と、言って太郎さんは再びワタシを抱きしめた。

「オッパイ見てもいい?」

 急な展開だったが、今度も遠慮がちにお願いされた。客としては当たりまえの要求なのだが、太郎さんはまるでそれがいけないことかのように躊躇する。

「見るだけ?」

 少し意地悪な感じでニッコリと微笑んで見せると、同意を得たと理解した彼は、ワタシの胸元にそっと手を滑り込ませてきた。

 多くの客は、そのあと強引にこねくり回したり、突起だけをつまんだりする人たちが多い中、太郎さんは胸のふくらみを手のひらでそっと包み込むように抱え、ときおりワタシの目を見つめてキスをせがむ程度だった。

 そんな太郎さんの手はいつも温かくて、優しくて、とても心地よかった。

「なんかずっと前から知ってた人みたい」

 と、言うと太郎さんも同じように、

「ボクも今おんなじこと思ってた」

 そう言ってくれた。

 本当に懐かしい感じがしていた。ワタシはさらに大胆に振る舞えた。確かに誘っていたのかもしれない。露わになったワタシの胸に太郎さんの顔を抱きしめると、

「ここにキスしてもいい?」

 やはり遠慮がちにお願いされる。ワタシもそうして欲しいと思っていた。

 太郎さんがワタシの胸の中で甘えている男の子に見えた。昔、ワタシが従兄弟のお兄さんに甘えていたあの頃のシーンが逆になっているかのように感じた。

そんな矢先、店内にアナウンスが流れる。

『美月さん、八番へリクエスト』

 これは、新しく来店した客がワタシを指名したアナウンスだ。

「ごめんね、すぐ戻ってくるから、ちょっとだけ待っててね」

 と、言って彼が座るシートを離れていくこととなった。

 ここで働く以上、ワタシから客を選ぶことはできない。また、少しでも多くの客をかけ持つことが、即報酬につながるため、どんな客でも受け入れる必要があった。指名を受けた客を渡り歩き、色気のサービスをするのがこの仕事。ずっと一人の客につけるわけではなかった。

 その日も太郎さんは2セットだけいてくれた。本当はもっといて欲しかったけれど、無理に引き留めるわけにもいかない。

 2セット目の終わり間近、

「時々でええねん。メールくれたりできるかな」

 太郎さんは『疾風太郎』と書かれた名刺をくれた。普通なら、最初の指名からいきなり連絡先を教えることなどありえなかったのだが、太郎さんだけはなんとなく違っていた。

「ええよ」

「ときどきでええねん。毎回返信せんでもええし。それだけでなんや女の子と会話してる気分になれるし」

「いつ送ってもええの?」

「別に大丈夫やで」

「ほんなら、近いうちに送るね」

「待ってるで」

 と、返事をしてワタシを抱きしめる。さらに、

「それと、キミを題材にして肖像画を描いてもええかな」

「ええ、そんなん良いに決まってる。描いてくれるん。うれしいな」

 絵を描く人の最大の武器を使ってくれるというのだ。その時には特段期待はしていなかったが、ホントに書いてくれるなら、これほどうれしいことはない。

 こんなやり取りをして最初の逢瀬が終了した。胸に残った太郎さんの手のぬくもりが、とてもうれしかった。



 その日以降、太郎さんは二週間おきにワタシを訪ねてくれた。

 ある時、ワタシが玉子かけご飯が好きだというと、それ以降、いろんな玉子やソースをお土産に持ってきた。そしてワタシたちは玉子をきっかけにどんどん親密になっていった。

 親密な仲になって三カ月程経ったある日、二人で京都に行く約束をした。今までに店の客と外で会うことなど皆無だったワタシだが、彼だけは特別だった。以前からそんな話をしていたけれども、現実にデートとなると、やはり緊張する。

 太郎さんには奥さんがいる。そのことはずっと脳裏にあった。奥さんから彼を奪おうなんて思ったことはない。でも、彼と一緒にいたいと思う気持ちは誤魔化せない。

 そして、とうとう一緒に食事をした。買い物もした。二人で着物を着て散策した。お揃いの記念品も買ってもらった・・・。

 二人だけの思い出ができてしまった。もう後には戻れない。そんな気がした。

 年末には住まいを変えるための引越しをした。太郎さんには嘘をついたけど。それでもそろそろ住居を移す必要があったので、やむを得ない嘘だと自分に言い聞かせた。本来ならもっと早くに引っ越すべきだったけど、太郎さんに会ってから、店を変えることも引っ越しをすることも、いつものタイミングより遅れていた。

 そして正月には太郎さんと二度目のデートをした。

 好きな人との初詣。お参りの後におみくじを引いた。お酒も飲んだ。美味しいものも食べた。こんな楽しいお正月は何年ぶりだろう。

 そしてついに、ワタシたちは結ばれた。甘い官能の時間を過ごした。肌と肌の触れ合いが、痺れるような感覚だった。激しい抱擁の中、お互いの本当の名前で呼び合うこととなった。彼は悠人と名乗った。ワタシも美也子であることを告げた。それでもお互いの苗字については伏せたままだった。

 悠人さんは不倫な関係になったことは全て自分の罪だと言ってくれが、そうではない。嘘が多い分、ワタシの方が罪深いと思う。

 二人が結ばれた日をきっかけに、ワタシは店を辞める決意をした。もう他の男の人に触れられるのは嫌だと思った。あの人の温もりだけがあればいい。そう思ったからである。

 幸い、ピアノ講師の仕事も順調で、生徒の数も増えており、それだけで生活が出来そうな感じだったし。



 しかし、その日は突然やってきた。それはワタシが『ピンクキャロット』を辞めた二日後のことだった。


♪ピンポーン♪


 お昼前のこと。洗濯物を干して、そろそろ出かける用意をしかけていた頃、玄関の呼び鈴が鳴った。

「宅配です、お荷物を」

 その言葉を聞いてドアを開けたワタシは愕然とする。そこには見知らぬスーツ姿の男の人が二人立っていた。その背後には漆黒に光る見覚えのある大きなクルマが。

 そのクルマの後部座席から出てきたのは母だった。

「探しましたよ。やっと見つけたわ。お願いだから、帰ってきてちょうだい」

 ワタシはすぐにドアを閉めようとしたが、二人の男たちに阻止された。

「お父さんもね。あなたと話がしたいと言ってるの。強引過ぎたことも反省してるわ。だから一度帰ってきて」

 目の前で涙をボロボロ流しながらワタシを説き伏せようとする母を無視することはできなかった。

 ワタシは母を部屋に上げ、二年前から今に至るまでの父や会社の様子を聞いた。ワタシがいなくなったことで、アドバンテージを言い渡され、苦境にあること。父もワタシのことを心配していることなど。

 なぜ引越ししてわずかな期間で発見されたのか。やはり『ピンクキャロット』に長く在籍していたことが、足取りを掴ませるきっかけになったらしい。

 悠人さんに会うため、いつもより長く同じ店にいてしまったため。それが原因だった。

 一旦は諦めるしかなかった。それよりもこの後のことを考えた。

 悠人さんを大沼さんと同じ目に合わせてはいけない・・・と。


 ワタシは久しぶりに父と対面することとなった。父は強引なやり方をしたことに謝罪してくれた。あれから大沼さんはワタシの知らぬ女性と結婚して幸せに暮らしているそうだ。しかし、そんなことはすでにワタシの関心からは除外されている。今となっては、ワタシを裏切った人という認識しかない。

 父は、現在の会社の状況、社員が置かれている立場、どうしなければ会社が再興できないかを懇々と説明した。

 最後は父と重役たちと母までが土下座をしてワタシに懇願してきた。

 もう逃げ道はなかった・・・。


 ワタシは覚悟を決め、父の策略に同意することとした。その代わりに、ワタシが出す条件を受け入れてくれること。もう一度、悠人さんに会いたいことを告げてみた。

 父はワタシが政略結婚を受け入れる意思を見せたことで、やや寛容になっており、ワタシの要求を全て飲んでくれることになった。

 そしてワタシは自分なりの作戦を実行することにしたのだ。


 その日の夜、久しぶりに悠人さんと連絡をとることにした。何度もメールの受信があったのはわかっていたけれど、なかなか返信できないでいたのが心苦しかった。夜中のことだったけど、思い立つままにメールを送ってみた。

『今なら、ひと時の過ち。誰も知らない秘密。でもあなたが好き。そのことは真実』

 すると思いのほかすぐに返信が届いた。待ちわびていてくれたのだろうか。

『今度の日曜日会える?いつものショーウィンドウの前で』

 ワタシはこの機会を待っていた。時期もちょうどいい。ワタシの身体があの人を求めている。

『午後三時、お待ちしています』

 そうメールを打った。

 翌朝、必ず戻ってくることを約束して、今度の日曜日に大阪へ出かけることを父に告げた。父は仕方なしとうなずいたが、一つだけ条件をつけられた。ボディガードをつけるというのだ。いわゆる見張り役と言ったところか。父らしい用心深さである。

 ホテルの予約をしたが、どうせその見張り役は近くの部屋をとることになるのだろう。それでも構わないと思っていた。



 来たる約束の日曜日。ワタシはHKホテルの三○三号室で悠人さんがくるのを待っていた。悠人さんには事前にこのホテルの部屋番号を知らせており、彼のことだから、午後三時、ピッタリに来るに違いない。そう思っていた。

 果たして案の定、彼は午後三時、ピッタリに呼び鈴を鳴らした。

 ドアを開けると、愛おしい顔がそこにあった。

「いらっしゃい。ようこそ」

「入ってもええかな」

 久しぶりということもあり、二人とも遠慮がちだった。

「どうぞ、まずはビールでいい?」

「キミも飲むんやろ?」

「うん」

「でもその前に」

 悠人さんはワタシを抱きしめて、しばらく止まっていた時間を楽しんだ。

「会いたかった」

「ワタシも」

「今日は渡したいものがあるんや」

 そう言われて大きな包みを受け取った。包みを開けるとA3サイズほどの額に入ったポートレートが入っていた。もちろん、ワタシをモデルとした肖像画であった。

「できたのね。うれしい」

 ワタシは飛びつくように悠人さんに抱きつき、一旦はその勢いを受け止めてくれたが、バランスを崩しかけたとき、その勢いを利用してソファーに倒れ込んだ。

「ねえ、このまま・・・」

 今回、誘ったのは紛れもなくワタシである。

 結果的に、そのまま互いに押し倒される格好になったワタシたちは、徐々に互いの肌を露わにさせた。そしてワタシは自ら彼を寝室へと誘うのである。

 そこからのワタシたちは、無我夢中でお互いを求め合った。それこそ貪るように慰め合い、息が止まるほど抱き合い、狂おしいほど穢し合った。途中で休憩を挟んで二度、三度と対峙して互いの汗を拭い合う。溶けるほど唇を吸い付くし、焼けるほど肌を火照らす。その様子はまるで二匹の蛇が絡み合う姿に見えたろう。

 幾ほどの時間が経過したのか、ワタシたちはそろそろ終わりの時が近づいていることを悟っていた。そして最終的には「来て」と言ったワタシの言葉が幕を下ろす合図となった。

 彼との最後の情事。ワタシの目的は果たせた。それは彼の最も激しい憤りを受け入れること。身体の中で熱く感じたあの命の源を・・・。

「今日は何時までいてくれるの?」

「最終電車まで、あと二時間くらいかな」

「なら、その二時間ずっとこうしてて」

 ワタシは悠人さんの腕の中に滑り込むように擦り寄った。

 最後の時が近づいている。それまではずっとそばにいたい。ずっと触れ合っていたい。こぼれ落ちそうになる涙を堪えるのが辛かった。

 やがて悠人さんの最終電車の時刻が迫る。長い長い口づけが、残されたワタシたちの唯一のおしゃべりだった。


 やがて最後の時がやって来てしまう。

「次はいつ会える?」

 彼がたずねた。

「また連絡する」

 ワタシは自信なさげに答えた。

 そしてドアの前で最後の抱擁。

「愛してる」

「ボクも愛してる」

「・・・ありがとう」

 何も知らない悠人さんは「またね」と言って背を向けた。『ピンクキャロット』でいつもそうしていたように・・・。



 あの後、父が寄こした見張り役が悠人さんの後をつけて、身柄を明らかにしていた。それもワタシにとっては、想定内のことだった。

 そしてワタシの作戦はここから本格的に執行されるのである。

 半ば強制的に大阪から東京へ連れ戻されたワタシは、父や母からたくさんの質問攻めにあう。奴は何者だの、どこで知り合っただの、およそ一般的な事ばかりだが、逆にこちらの要求を叩きつけた。

「ワタシはお父さんの言う通りにします。その代わりワタシのお願いも聞いてください。そうでなければワタシはまた家を出ます」

 会社としては窮地に陥る手前であったがためか、父は素直に承知した。

「一つは、もう調査の手が入っているでしょうけど、彼の、悠人さんの会社に仕事を発注して下さい。あの人が会社での立場に困らないように。そうしていただけるならば、ワタシは二度と彼とは会わないことを約束します」

「いいだろう。どんな仕事をしているのか知らぬが、何とかなるだろう。で、二つ目は?」

 ワタシは大きく深呼吸をして息を呑んだ。そして答えた。

「ワタシの中には新しい生命が宿っているはずです。昨日はそのための逢引きでした」

「バカな。そんなことを先方が許すはずもない。それにたった一度の逢引きでそんな都合よく妊娠なんかするもんか」

「お父様にはわからないかもしれませんが、昨日今日はそういう日なのですよ。それに先方には必ず納得させます。ですからすぐにお見合いの設定をして下さい」

「むむむ」

 ワタシの迫力に押された父は唸るしかなく、結果的に全てを一任してくれた。本当にワタシが妊娠するはずがないと思っているようだ。

 この結婚については、先方のご子息も反抗していたと母から聞いていた。だから話がスムーズに進まず、先方でも三ヶ月ほどは難航していたと。ワタシはそのことに賭けたのである。まずは会って話をすべきと。そして先方のご子息が反抗していた真意を聞くべきと。そこに活路があるかもしれないと。




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