【高田美也子の章】=裏切り=
さらに翌日、何事もなかったかのように、ワタシはいつもと変わらず仕事に出た。明日は休みをもらって彼のマンションに引越しようと、昨晩は遅くまでかかって、身の回りを整理した。持ち出す荷物も準備できている。あとは父が帰るまでに家を出ていけばいいだけになっていた。
今朝は母とも顔を合わせていない。きっと父の味方をするに違いないと思ったからである。母も父とは見合い結婚であるが、だからといってワタシに恋愛結婚を勧めてきたわけではない。逆にいい縁談を持ってくることが自分の務めであると思っていたかもしれない。
いずれにせよ、母とてあてにならぬ存在。自力でこの困難を乗り切るしかないと思っていた。
午前中のレッスンが終わり、昼休みの間に彼と連絡を取ってみる。
~プルルルル、プルルルル、プルルルル~
昼休みだというのに彼は電話に出なかった。
「どこかに出かけてるのかしら」
そのときのワタシは割と単純にそう思っていた。
とりあえずは昼休みでもあり、自由な時間は限られている。彼が電話に出なかったことも、さほど深く考えなかったので、この時は自分のランチタイムを優先してしまった。
そして仕事が終わってもう一度彼に電話したのだが、やはり繋がらない。不思議に思ったワタシは彼の会社に連絡してみた。すると、思いもよらぬ答えが返ってきた。
「大沼は本日出張に出ております。本日は事務所には戻らないとなっているます」
そんなの聞いていない。それに今までは急な出張でもちゃんと連絡してくれていた。ましてや今は戸籍上だけとはいえ、れっきとした夫婦である。なのに連絡が取れないなんて、かなりの一大事だ。ワタシの胸中にはドス黒い予感しか湧き上がらなかった。
帰宅後、ワタシは母に探りを入れてみた。けれども何も有力な情報は得られなかった。父の性格からして、このような問題を母に伝えるはずもなく、何かあったとしても、父から直接聞く以外に、方法はないと思った。
その日の深夜、父が帰ってきたのは、午前零時を回った頃だった。毎日とは言わないが父が遅くに帰宅する事はさほど珍しいことでもなく、母はとっくに夕食を済ませ、自分の世界に浸っていた。
ワタシはというと、ドス黒い予感だけを胸に秘めて、自分の部屋で父の帰りを待っていた。ずっと聞き耳を立てていたワタシは父の帰る気配を知り、すぐさま父の書斎に足を踏み入れた。
はからずも父は漠然として立っていた。
「お父さん、彼に何をしたの?何を言い含めたの?」
すると父は一枚の紙をカバンから取り出し、ワタシの目の前にかざした。それは、離婚届だった。しかも大沼晃之という自筆サインと押印まである。
「これは社員の運命がかかっている案件だ。取れる手段は何が何でも取る。我が社の社員を守るためにな」
ああ、彼はどんな手段で説得させられたのだろう。どんな思いでこれを書いたのだろう。しかし、今となっては彼の真意を確かめることもできないのだろうと思った。
悔しかった。あの人が父の圧力に屈服したことが。信じていたのに、だからこそ婚姻届を出したのに・・・。
しかし、現実として目の前に彼のサイン済みの離婚届がある。ワタシはそれを奪うように持ち去り、自分の部屋に戻った。
その夜、ワタシは涙がかすれるまで泣いた。泣いて泣いて泣き尽くした。そして決心したのである。彼は父の前にひざまずいた。でもワタシは負けない。父の言いなりになんかなるもんか。
ワタシは離婚届にサインし、押印した。たった一日の夫婦だったけど、もう思い残す事はない。これで家を出る決心がついた。
その夜、ワタシはみんなが寝静まったころを見計らい、そっと家を出た。スーツケースに出来るだけ多くの荷物を詰め込んで・・・。
それからのワタシは、まずは親しい友人のアパートに潜り込んだ。大学時代に共に学んだ麗奈というバイオリニストで、東京のとある楽団に所属しており、時折コンサートなどにも出演している。
彼女のマンションは築地にあり、今は一人で暮らしている。あらかじめメールで行くことを伝えてあったので、夜中だったが、大事に迎え入れてくれた。
そしてワタシはここでも泣いたのだ。涙ながらに顛末を告白した後は、疲れもあったせいか、ぐっすりと眠ってしまった。
翌朝、目が覚めると麗奈は出かける用意を始めた。どこへ行くのか尋ねると、
「あなたの面接にいくのよ。一緒に行ってあげるから」
ワタシが不思議そうな顔をしていると、
「いつまでもここにいるわけにはいかないでしょ?こんなところ、すぐにバレちゃうわよ。あなたと私の仲が良かったのは、みんな知ってるもの」
確かに麗奈の言う通りである。それに麗奈にも影響が及ぶ可能性だってある。
ワタシは麗奈の誘いに乗ることにした。
麗奈の後をついて歩く。彼女の目は尾行者がいないか確かめるようにキョロキョロしていた。その方がかえって目立つような気もするのだが。
地下鉄に乗って降りた駅はお茶の水だった。
「何の面接?どこに行くの?」
少し不安になったワタシは麗奈に尋ねた。
「この際、贅沢言っちゃダメよ。あなたはお父さんの探索から逃れなきゃいけないんだから。だから、表の仕事じゃダメ。だからといって危ない仕事もダメ。ちょうどいい口があるの。私に勧められたバイトなんだけど」
地下鉄の駅から地上に出て目の前の大きなビルの横を通り、裏通りを抜けると、明らかにそれとわかる夜の街の通りがあった。その中でもいかにも重厚なドアがしつらえられていた店があった。『アルボラリス』という、いわゆるラウンジに格付けされる店だった。
「ここでね、生演奏のアルバイトを頼まれてたの。でも私も楽団があるでしょ。両立できるかどうか不安だったし、躊躇してたんだけど、ミーヤンと一緒ならなんとかなるわ。それに楽団の先輩の紹介だから危なくないし」
面接は順調に終わった。麗奈と二人で採用である。麗奈は毎日出られないが、その分をワタシがフォローすることで話がまとまった。
とりあえずの落ち着き先として、ここは悪くないと思った。麗奈の先輩の紹介だというし、ピアノの他にフルートだって多少はこなせる。
店のオーナーは、ワタシの身の上を理解してくれた上で、居住用の部屋も提供してくれた。店の二階であるが、他に何人かのスタッフやキャストも寝泊まりしているようだ。
オーナーは早速今夜からの出演を求めた。ワタシも忙しくする方が何かと気も休まると思い、心よく承諾した。
駅の文化教室については、上司に事情を話し、退職を申し出る電話をした。電話で申し訳ないことと、しばらくは行方をくらませたい旨を申し出て、一方的にお願いすることとなってしまった。
店は銀座の店ほどとは言わないまでも、それなりにエグゼクティブな店の雰囲気だった。来客もほとんどが筋の良い客層ばかりで、ウチの父なども誰かに連れられて、来客する可能性があった。
そこでオーナーにお願いして、フロアに出る際には仮面を着用して演奏したいと申し出た。オーナーは「それはそれで面白そうだ」ということでワタシの案は採用され、さらには「ユミコ」という源氏名でデビューすることが決まった。
その夜の麗奈には楽団の合同練習があるため、いきなりワタシだけの出演となった。はじめにゆったりとしたバッハやシューベルトのピアノソロを、次いでフルートでショパンのノクターンをそれぞれ何曲か披露した。
お客さんからもリクエストを頂いたり、ホステスを兼ねるシンガーが歌う伴奏を弾いたりもした。楽譜さえあればなんとかなる。音大で鍛えた四年間がこんな形で役に立つとは思ってもみなかった。
初演奏の評判は上々で、店が終わった後、オーナーから特別手当をもらった。
「良かったよ。仮面の効果も抜群だったな。キミを指名してくる客もいるかもよ。明日もよろしくね」
店が終わると、スタッフたちが初仕事を祝ってくれた。事情のあるワタシの身の上については、オーナーから箝口令が敷かれているらしく、誰もそのことに触れようとはしなかったのが助かった。
翌日は麗奈と二人で出演となり、ピアノとバイオリンによるアンサンブルを披露する。多くの客は会社の部長や社長クラスの年配の方々である。途中で懐メロをアレンジした曲を絡めると、意外と喜んでくれる。そんな二人の演奏が人気の店として界隈でも流行の店となっていた。
ワタシとしてはあまり有名になりたくはなかった。そのために父に居場所を突き止められるのが怖かったのである。
果たして、そんな日がやって来た。この店でデビューしてひと月ほどたったころのこと。いつもよりも少し若い世代の男性が数人、口数少なくテーブルを囲んでいた。彼らはホステスが話しかけても冷たくあしらっていた。店内での写真撮影は禁止されているため、あからさまに写真を撮ることはなかったが、隠しカメラでも持っていたのだろう。何かの拍子にレンズがきらりと光ったのが見えた。
本能的に危険を察知したワタシは、その夜、マスターにお願いして、別の店を紹介してもらうことにした。幸いにしてこの店は系列店がいくつもあり、ワタシは上野の店に移動することとなった。しかし、ふた月もするとまたもや怪しい人影が見られるなど、同系列の中を移動しているだけでは、足取りを掴まれるのがどんどん容易になってきてしまっている。
ワタシは東京を離れるべきだと思った。大阪にもオーナーとなじみの深い店があると聞いていたこともあり、麗奈にも相談した上で、オーナーに大阪の店を紹介してもらうようお願いした。これ以上、東京に留まっておくのが危険だと思ったからである。それにはオーナーも麗奈も賛成してくれて、ワタシはすぐにでも下阪することとなった。
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