【高田美也子の章】=美也子の抵抗=
ワタシができる抵抗はここまで。これ以上は抗えない。しかし、父には申し訳ないが、このわがままだけは譲れない。
あの日、ワタシの身体は間違いなくその準備ができていた。そのためにその日を選んだのだ。父の会社のため、そしてその社員たちの未来のために、ワタシは人身御供となるのである。
けれども、ワタシにも意地がある。黙って父たちの言いなりにはならぬ。再びワタシの心を燃え上がらせたあの人のためにも。だからこそ、ワタシはあの日に賭けたのである。
話は二年前に遡る。ワタシはさる私立の音楽大学を出た後、自宅近くにある駅の文化教室でピアノを教える講師をしていた。抱える生徒も二十人ほどいた。仕事も順調で、プライベートでも充実している日々を送っていた。
そう、その時のワタシには心に決めた人がいた。すでに彼からはプロポーズを受け、ワタシもそれを受け入れていた。間もなく二人は正式に結ばれるはずだった。
それがあの日、父から呼ばれて思いもよらぬことを言い渡されたおかげで、全てが大きく変わっていった。
「今度、帝都石油という大企業と業務提携をすることになった。互いの信用を深めるために縁結びをせねばならん。向こうには時期社長と目される一人息子がいるらしい。今は外で社会勉強しているらしいが、いずれは後継者となる人物だ」
「だから何でしょ。ワタシには関係ありませんわ」
「まだわからんか。お前はその男と結婚するのだ。わきまえておくれ」
父は淡々と諭したつもりだろうけど、ワタシの気持ちはどうなるの?何も察してくれないの?
「お父さん、ワタシには婚約者がいます。もうプロポーズも受けました。そろそろ紹介しようと思っていたところです。申し訳ありませんが、その話はお断りして下さい」
すると一気に父の顔が曇った。
「今度の提携はな、双方の社運を賭けた仕事なのだ。私たち個人のことでは計り知れぬ増大な計画なのだ」
「そんな、あんまりです。そのためにワタシは犠牲になれとおっしゃるのですか?」
「そう思われても仕方ないな。だが、わかっておくれ。それが会社のためなのだと」
ワタシは唇を噛みしめて父の書斎を出た。まだ、その時はいずれ何とかなると思っていた。
次の休みの日、ワタシは彼を連れて父の前に再び立った。彼の名前は大沼晃之といい、音楽教室でのワタシの生徒だった。それが縁で親密になり、お付き合いすることになったのである。
「初めまして、大沼と申します。お嬢さんとお付き合いさせていただいております。プロポーズも受けてもらいました。どうぞ娘さんとの結婚を許してください」
父の表情は終始ほころぶことはなかった。また、彼がワタシとの結婚の意思を示したことで、その表情はさらに曇っていった。
「キミは私が誰だか聞かされているかね?もしまだ聞かされていないのなら、一から説明しよう」
「いえ、存じ上げております。さらにはこのたびの話も美也子さんから伺いました」
「キミはそれでも娘と結婚したいというのかね」
「私では不足ですか?」
「そうだな。はっきり言って不足すぎる。どこの馬の骨とは言わぬが、今の我々が望んでいる縁談ではない。大沼君とやら、申し訳ないが身を引いてはくれぬか。私がこうして頭を下げているうちに」
父はその場で彼に向かって頭を下げた。ワタシも彼も驚いたが、ワタシも父に対して応戦する。
「彼のお父さんも富田重機の部長さんです。決して馬の骨ではありません」
「美也子や、そういうことではないのだ。彼が悪いと言っているのではない。ウチの会社は帝都石油と手を組まねば社員たちを路頭に迷わせることになる。わかってくれぬか」
「わかりませんっ!いきましょっ!」
ワタシは大沼さんの手を取って家を出た。
彼を見送ろうと駅まで来たが、このまま帰してはいけない。今後のことをちゃんと相談しておかねば。
駅前にあるコーヒーショップに入り、ため息をつきながら向かい合って座る。さて、これからどうしよう。
「第一印象は最悪だったな。でもまた明日も来るよ。粘り腰で勝負だ」
彼の作戦は御百度参りのように何度もアタックする作戦のようだ。でもそれは言い換えれば当たって砕けろ的な感じで、勝算があるわけじゃない。
「ねえ、いっそのこと既成事実を作ってしまいましょうよ」
「どういうこと?」
「婚姻届を出すってこと」
「そんなことしてお父さんに叱られないか?」
「無駄な矢をいくつも放つより、芯のある一矢を放つ方がいいのよ」
「よし、じゃあさっそく役場に行こう」
ワタシたちはその足で役場に向かった。休みの日でも役場の窓口は開いている。届出用紙をもらうのは簡単だ。記入するのもすぐだ。肝心なのは「見届け人」の欄である。二人の名前が必要だ。
「誰かいるかな」
「ワタシは教室の先輩に頼むわ」
「じゃあボクも会社の先輩に頼もう」
こうしてワタシたちはそれぞれの「見届け人」に署名捺印をもらい、無事にその日のうちに婚姻届を出すことができた。
その日、ワタシが帰宅したのは深夜だった。役場の帰りに彼と食事をして、次の父との対決に向けて綿密な打ち合わせをしたかったからである。
「ただいま」
「美也子、嫁入り前の娘がいつまで遊んどるんだ。話があるから私の書斎に来なさい」
「いやよ。わからず屋のお父さんの話なんか聞きたくないわ」
と、言ってその夜は二階にある自分の部屋に閉じこもった。喚く父を母がなだめていた。二人の言い争う声が二階まで聞こえていた。
翌日、ワタシは昨日夫となったばかりの晃之さんを駅まで迎えに行った。もう一度二人で父と対峙するためである。対決するつもりはない。報告するだけなのだ。
そしてワタシたちは再び父の前に立ち、昨日のうちに二人で婚姻届を出したことを報告した。
「ワタシたちは結婚しました。もうれっきとした夫婦です」
「お義父さん、どうかボクたちの結婚を認めてください」
父はしばらくうつむいて考え込んでいたが、やがてゆっくりと顔を上げると、
「仕方ないな。私も乱暴な事はしたくなかったんだがな。大沼くん、キミの会社は森田貿易だったな。あそこの常務とは旧知の仲でな。キミの処遇について相談させてもらうよ」
「何てことを!お父さんがそんな汚い手を使うなんて」
「美也子や、それほどまでにウチの会社が窮地に立たされているってことなんだよ。それを理解できないお前じゃあるまい」
父の暴言とも思える言葉を聞いたワタシは、父を睨みつけたまま何も言わず、そのまま晃之さんの手を引いて二人で家を出た。後ろから母が呼び止める声が聞こえたが、かまわずに駅へ向かった。
そのときの晃之さんの顔は相当青ざめていた。すでに職場まで知られていて、しかも常務と旧知の仲だという。彼にとっては最もコアな部分を握られたも同じだった。
「これから二人で暮らすところを探しにいきましょう。もうワタシはあの家を出る決心ができているから」
「ありがとう。とりあえずはボクの部屋においでよ。それから考えよう」
「うん。じゃあ、近いうちに」
そう言って別れたのだが、彼の姿を見たのはそれが最後になった。
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