【大原悠人の章】=兆し=

 あれから二年が経った。悠人の体調は相変わらずだったが、気力の無さは日増しに落ちているようにも見えた。

 それでも瑞穂は毎日のように見舞いに来ていた。高橋くんとの交際も、人事交流の終了と同時に終わったようだ。彼は東京へ連れて帰りたかったようだが、瑞穂がそれを拒否したらしい。

 しかし瑞穂は大人になっていた。このまま何も変化のない悠人に期待を寄せても仕方のないようにも思えてきた。元々憧れていただけであって、真剣に配偶者の候補として考えていたわけでもない。そんな瑞穂がこんなふうに考え始めていた。

 もし、悠人といい仲になってしまったとき、最後に彼を振るのは自分の方じゃなかろうか。よしんば、彼が快く許してくれたとしても。それならば、結果的にあの女がしたことと同じじゃないかと。

 そんな不安を抱きつつも、何かの答えを求めるかのように、事あるごとに悠人の見舞いに行った。


 それから幾日か過ぎたある日。

 瑞穂は英哉と共に悠人の見舞いに来ていた。英哉にすれば瑞穂とのデートのようなものである。誘われれば断る術はない。今日も都合のいいように瑞穂に付き合わされている。

「悠人部長、今日もええ天気ですよ」

 瑞穂が声をかけても反応はない。他に手を握ったり、肩を揉んだりしてみても、なかなか反応があることは少なかった。ある時は、英哉が見ていない隙に、こっそりとキスをしてみたり、自分の胸を触らせてみたりしたこともあったが、やはり反応はなかった。

「気長に待つしかないんかな」

 などと、のんきな口調でぼやきながらテレビをつけた。

「悠人部長、今日はニュースでも見ましょか。たまには最新情報もつかんどいた方がいいですよ」

 と、言ってチャンネルをニュース番組に変えた。しばらくは国際情報や政治の話題であったが、国内向けのニュースに変わると、英哉が驚いたように叫んだ。

「これ帝都石油のことやん」

 その言葉が聞こえたのか、今まで生気のなかった悠人の目が一瞬光ったように見えた。

『今日、日本の大手石油会社で社内クーデターが起き、緊急株主総会が行われた模様です』

 テレビの画面では、レポーターらが帝都石油本社前で、ビルから出てくる社員らしき人たちを捕まえてはインタビューを試みていた。

 英哉は愕然とした表情でテレビを見ていたが、悠人もまた同じようにテレビの画面に視線を奪われていた。そしてアナウンサーが帝都石油という言葉を吐くたびに反応していた。

「これって、ウチにも影響あるんかな。菱蔵商事と提携してたんやろ」

 英哉がぼそっと呟いたが、瑞穂も心配そうな表情だった。



 翌日、会社ではその話題で持ちきりだった。臨時役員会が開催され、今後の対応が検討されたが、その日の午後には心配された状況は回避された。

 なぜならば、菱蔵商事の東村氏から電話が入り、仕事に影響がないことが伝えられたからである。

 後でわかったことだが、これも美也子からの連絡が早かったお陰で、菱蔵商事の損害が最低限に抑えられたことによるものであった。

 企画部では、その報告を受けてみな安堵した。これでまだ大原部長の身の安全は確保されたと。

「そやけどあのときの悠さんはちょっと違う反応やったな」

 英哉は昨日の悠人の様子をみんなに話していた。帝都石油のニュースが終わると、またいつもの無気力な悠人に戻ってしまっただけに、英哉としてはもう少し表情の変わった悠人を見ていたかったのかもしれない。

「ヒデさん、今日も行きますよね」

 瑞穂も昨日の反応を見ているだけに、もう一度様子を見てみたい気持ちであった。

「なら、ワシも行こうかな」

 そう言って瑞穂の背中から声をかけたのは島田専務であった。

「大原くんも帝都石油が気になるみたいやな。ええ刺激になったらええのにな」

 こうして夕方には三人で悠人を見舞いに行くことになった。


 病室の中は静まり返っていた。大部屋なのにも関わらず、同じ部屋には患者が一人もいなかった。他に三人いた患者のうち二人が今日、立て続けに退院し、もう一人は手術のために個室に移ったという。

 人気のない部屋でボーッと天井を見つめている悠人がいた。

「悠さん、また来たよ」

 陽気に声をかける英哉だが、反応はない。瑞穂も同じように声かけしてみるが、やはり同じだった。

 それよりも悠人の気持ちを刺激するキーワードを聞かせた方がいいかもと思い、テレビをつけてみる。

 夕方のニュースでは、やはり昨日の続きを報道していた。

『今日、帝都石油では役員会が開かれ、実質大日本石油との合併、前社長の解任、役員の総入れ替えを決定した模様です。また、後継者として目されていた長男の義忠氏は、未だ行方不明のままです』

 やはり帝都石油という言葉には反応する悠人。わかっているのかいないのか、体ごとテレビにかじりつく。さらには後継者の話題に触れると、さらに興奮度が高まっている感じだった。

 そんな悠人の姿を見て、島田専務も英哉も一抹の不安は隠せなかった。一応、菱蔵商事の仕事については今まで通りというお墨付きをもらってはいるが、それもいつまで続くものやらと感じている。実際、当の担当者である悠人がこういう状態でもある。そのことがどのように影響しているのかわからなかった。

 しかも、悠人の感情に直接関係している帝都石油の後継者が行方不明であることに、なおさら不惑な感情がふつふつと湧き出るのだ。

「後継者が行方不明って、その家族はどうなってるんやろ。あの人も一緒に行方不明なんかなあ」

 英哉が独り言のように呟いた。

「息子夫婦も追い出されて、どっかで一家心中でもしてるんちゃうの」

 などと瑞穂がいい加減なことを言う。

 英哉は、すでに石村一族が我々の手が届かぬところにいる人ではないことを理解していた。会社からも社会からも放逐された一族である。そんな背景の中、どういう形であるかは想像できなかったが、一縷の望みとして美月が悠人の目の前に現れることを祈っていた。

 悠人は、ただテレビを睨んでいるだけだったけれど。


 その数日後、またもや石村一族に関するニュースがテレビで報道されていた。

 しばらく行方不明になっていた後継者石村義忠が父である石村忠信を銃殺し、自らもその銃で自殺したという、戦慄のニュースだった。そのことは会社でも一躍話題となり、企画部へも島田専務が乗り込んできては、

「おい、さっきのニュースを見たか。あれが行方不明になってた後継者やろ」

「そうみたいですね」

 あまりにも衝撃的な事件であったため、さすがの英哉も言葉を選びがちだった。

「自殺したっていうてたけど、その嫁さんはどないしたんやろ。子供はどないしたんやろ」

 島田専務がそんな疑問を口にした。

「今ごろ菱蔵商事も大変なことになってんのとちゃいますか」

 木下がそんなことを口にしたとき、ちょうど画面が切り替わり、菱蔵商事の社長が会見をしているところだった。

『わが社は、すでに帝都石油さんとの提携は解消しており、娘もすでに石村氏とは離婚しておりますので、今回の件については、本社は関係ございません』

 会見の内容に驚いたのは、テレビを見ていた視聴者よりも島田専務や英哉たちだっただろう。すでに石村氏とは離婚したという。ではその後の美也子はどこにいるのだろう。

 英哉にとっては、事件のことよりも美也子の所在の方が気にかかっていた。悠人の回復については、ひたすらに美也子が現れること、美也子との対面こそが元の悠人を取り戻す唯一の手段であると信じて疑わなかったからである。



 それから数日後、『レインボー』のマスターから瑞穂へ一本の電話が入った。

「悠さんに会いたいという女の人が店に来ています」


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