【大原悠人の章】=墜ちていく=
悠人はすでに酔っていた。ビール、ウイスキー、日本酒、どれをどんだけ飲んでも酔えない気分だった。そんなときほど悪酔いする癖があることすら忘れていた。
酔った勢いではないが、悠人は会社に電話し、英哉を呼びつけた。
「すまんな。もうそこへは戻られんわ。今まで色々と世話になったな。あとは任せたで。オレはもう疲れた。辞表は専務あてに出しとくから」
「えっ、悠さん、何いうてまんねん。何があったんですか?今どこですか?すぐ行きますさかい、待っとってください」
「おまいさんはまだ色んなことができる。オレに構わんと、しっかりやりや」
悠人はそれだけ言うと、唐突に電話を切った。そして深いため息を吐いて、トボトボと歩き始めた。
向かおうとしていた先は『レインボー』なのだろう。しかし開店時間までにはまだ早い。それでもよたよたと歩いていると、昔ながらの居酒屋の暖簾を見つけた。赤ちょうちんこそないが、縄暖簾のかかった大衆居酒屋であることは間違いない。
そこで悠人は中に入り、テーブルに座って熱燗をお銚子で三本注文している。お通しは自動的に出てくる仕組みだから他のオーダーはいらない。小さな豆腐だったが、箸も使わずに器を持ち上げて口の中に放り込んだ。
女将が持ってきたお銚子と猪口であったが、悠人は近くにあったコップに酒を注いでいく、そして静かに煽っていく。悠人が救われたのは酒乱の傾向がなかったことだ。自ら浴びた酒は自らで完結するように酔い浸っていく。その酒がなくなると、新たに三本のお銚子を注文する。
「おつまみをなんか用意しましょか」
何気に声をかけてくれる女将だったが、悠人の耳には入らない。
「お酒ばっかしやったら、体に毒ですよ」
お節介なのか親切なのか、本来ならばありがたい声掛けなのだが、悠人は軽く手を振るだけでしか答えなかった。
店内にはテレビが備え付けられており、ニュースでは菱蔵商事が新しい事業展開として海外進出を試みている話題などが取り上げられていた。すでに局面は新たなものに移り変わっているのだった。
悠人は残りの酒を全て腹の中に流し込み、入ってきた時よりも明らかにふらついた足つきで店を出た。すでにまっすぐ歩けない状態だったが、まだ意識はしっかりとしていた。
勘定は済ませているので、誰も後を追うものもなく、心地よく送り出された悠人は、次こそはと『レインボー』を目指した。しかし、目指したは良いが体が言うことをきかなくなっていた。
目の前の景色がだんだん歪んでくる。踏み出す足がどんどん重くなってくる。唇がわなわな震えてきた。これはいけない。悠人自身がそう思ったとき、すでに意識は飛んでいた。もはや全てのコントロール機能を失っていたのである。
悠人は気を失ったままふらふらと路地裏に迷い込み、ゴミ置き場の片隅にもたれかかった。そしてそのまま倒れ込み、完全に意識を失ったのである。
その頃、悠人の会社では大騒ぎになっていた。
悠人からの電話を受けた英哉にしてみれば、「辞表は後で出して送るから」などという台詞を聞いて「はいわかりました」と言うはずもなく、電話が切れてからすぐに、この事を相談するために島田専務のデスクに駆け込んだ。
また島田専務にしても、菱蔵商事の件について色々な事を疑問に思っており、英哉から受けた報告も、その件と何か関係があるのではと考えた。
そのことはさておき、島田専務はすぐさま悠人の身柄確保を英哉に命じた。
企画部に戻った英哉は、悠人の行き先の心当たりをくまなく調査して、その身柄を確保するようとの専務からの指令を伝えた。まずは『武元』や『麦や』に連絡してみたが、悠人の痕跡は見当たらなかった。
瑞穂は『レインボー』を訪ねてみたが、マスターも知らぬと言う事だった。それでもあきらめずに、付近を探していた瑞穂は『レインボー』近くの路地裏で見つけたのである。ゴミのようにボロボロになった悠人の姿を。
「部長!悠人部長!」
ゆすっても叩いても反応はなかったが、息はしている、脈もある。それを確認した瑞穂はすぐさま救急車を呼んだ。
そして会社に電話し、悠人が見つかった事を報告したのである。
悠人の幸運だったのは、向かっていた目的地が『レインボー』だったことにある。倒れていた場所が、まさに悠人が最後に出た店から『レインボー』までの途中にある路地だったのだ。
医者の診断によると、かなり重度の急性アルコール中毒だったらしく、体温の低下が顕著で、朝まで放置されていたら、命の保証はなかったということだった。
知らせを聞いて駆けつけた英哉たちは、付き添っていた瑞穂からの報告を受け、今後のことについて考えていた。そのとき悠人の上着を整理していた瑞穂が、ポケットの中から手紙らしき物を見つけた。
「あら?これは何やろ?」
振り向いた英哉は、瑞穂が手に持っていた手紙を奪い取って、その中味を読み上げていく。
悠人がケイ子に内緒にしておくように頼んでおいた内容は、こうしてつまびらかになるのである。
その手紙でわかったことは、悠人が恋人に振られたこと、その恋人というのが菱蔵商事の御令嬢だったということ、同時にそれが『ピンクキャロット』にいた女であること、その女が悠人の子を宿している可能性があること。女との別れを条件に仕事が依頼されていること、などである。
しかも、その令嬢が近く帝都石油の御曹司と結婚することで、提携の架け橋となることは、先日のニュースで報道されたところである。
「そうか、菱蔵商事の件はこういうことが裏にあったんか」
島田専務は唸るしかなかった。
「専務、その仕事でウチはナンボ儲かりました?その一部を部長の治療費に当てたらあきませんやろか」
英哉が島田専務に頼み込んだ。島田専務の答えはこうだった。
「ウチの利益は計り知れん。これからもずっと続く仕事やさかいな。それにワシはまだ大原くんの辞表を受け取ってないし。この件はワシに任せとけ」
後日、島田専務は社長以下、役員たちを説き伏せて、社員のまま面倒を見るという決定を勝ち取った。
悠人が会社にいなければ菱蔵商事が仕事を依頼する所以がなくなってしまう。そのことを恐れた役員たちが悠人の在籍を認めざるを得なかったのである。もちろん島田専務が預かった美也子から悠人への手紙が切り札になったことは言うまでもない。
悠人が病院に収容されてから三日後、その日は雲ひとつない晴天の空だった。
ある担当の看護師が毎日悠人の様子を見ていて、日増しに肌の色が回復しているのが見て取れたのだが、意識が戻るのはいつだろうと思っていた。
その看護師が昼前の点滴の様子を見にきたときだった。点滴の針を抜こうとして握っていた腕がいつもと違う動きをした。不思議に思って顔を見ると、その眼孔が明らかに動いている。
看護師は慌ててナースコールをして応援を要請した。
しばらくして白衣に身を包んだ内科医がやってきて、
「もう大丈夫やな。あとはメンタルだけやな」
と、看護師に言った。それを聞いた看護師はあらかじめ番号を聞いていた英哉に電話をかけた。
「患者さん、目を覚まされました。まだ意識は朦朧としてはりますけど、もう大丈夫って先生が言うてはりました」
電話口の向こうではしゃぐ英哉の声が聞こえた。
その夜、仕事終わりに駆けつけた英哉と瑞穂。なぜか愛までついてきている。
「部長さんもこうなったらボケ老人と変わらんな」
などと開口一番茶化す愛。すると瑞穂は、
「アホなこと言わんといて。ウチが必ず元の悠人部長に戻してみせる」
などといきまいてみたものの、具体的プランがあるわけじゃない。あくまでも希望的観測に過ぎないのである。
「もしかしたら、美月さんが戻って来たら、悠さんも生き返るかもしれんな」
同じように英哉も何の根拠もない希望的観測をつぶやくと、瑞穂が猛烈な反応を示した。
「部長を振って捨てたような女に何ができるんですか?そもそも部長を捨てて金持ちと結婚した女やないですか。ウチは絶対その女を許さへんねん」
瑞穂の感情は凄まじいものだったが、愛がそれを諌めた。
「もうな、わかったやろ?この人かて普通のおじさんやったんやん。キャバの女の子に惚れて振られただけのおっちゃんやん。ええ加減目え覚まし!」
愛の言っていることもあながち間違いではないと思っているのか、瑞穂は黙って唇を噛みしめている。
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