【石村義忠の章】=失望と共に芽生える=

 何もかも失った。恋人も、仕事も、希望に溢れた未来も。

 マンションに帰ってきた私は、ただ呆然とソファーに座っていた。そして何時間たっただろう。気がつくと外は暗く日暮れている。

「ちっくしょー!うおーっ!」

 私は心の底から叫び、そして泣いた。それこそ声を高らげ、喚かんばかりに。天上に神がいたならば、奴らの耳に届くように・・・。


 私はすでに魂を悪魔に売り渡していた。そう誓ったのである。

 私を知る人がその時の私の顔を見たならば、きっと別人だと思っただろう。それほどまでに私の怒りは計り知れぬ渦となって、私自身を変えていった。

 進むべき道は一つ。相手の懐に入って、最終的には全てを取り戻すこと。そう決心し、すぐに身辺整理をして実家へと向かった。

 家では父が待っていた。

「ようやく諦めて帰ってきたか。これで石村家も安泰じゃ。明日からはウチの社員としてまずは総務部に所属させる。いずれ事業部、企画部と渡って、役員管理部へ配置する」

「・・・」

 私は無言のまま控えていた。

「それと見合いの話だが、先方のお嬢さんが家を飛び出されてのう。今は捜索中だということじゃ。お陰でこちらが有利に進められるわい」

 可哀想に。きっとそのお嬢さんも心に決めた人がいたに違いない。同情こそすれど、彼女を憎む気にはなれなかった。ずっと見つからなければ良いのに。そう思った。

 そして私は復習のための試練の期間に入る。心を鬼にして。鈴花を取り戻すために。



 あれから二年の月日が経とうとしていた。私との結婚を強要されている彼女の行方はまだわからぬままである。

 私はというと、父の予定通り一年で総務部を卒業し、今は事業部に配属されている。社長の息子であることは周知の事実なので、周囲からはかなり煙たがられている。

 この部署も今月で終わりだ。来月からは企画部への移動が決まっている。企画部では、余計な人物が配属されると噂され、皆、戦々恐々といったところである。

 中には私の事を知った上で媚を売る者もあったが、そんな輩は相手にしなかった。それよりも私を色眼鏡で見なかった奴が一人だけいた。今の事業部の係長で同い年の大薗秀年という人物だった。

 彼は物おじしないタイプで、何でも気軽に声をかけてくれた。仕事終わりに、安い居酒屋や焼き鳥屋によく行った。彼とは気さくに何でも話せた。あの事以外は。

「今日、行かへん?そらそろ異動やろ?」

 そう、彼は関西人なのである。

「焼き鳥なら行くかな」

 他のみんなは私の事を腫物扱いするか媚を売るかどちらかなのだが、彼は普通に友達扱いしてくれる。そんな彼を利用して、私はそれとなく色々な情報を集めていた。しかし、彼も係長とはいえ、ただの一社員である。直接聞ける情報は少ない。しかし、そこは業務部である。どんな事業が誰によって管理されているか、彼が逐一教えてくれる。役員室の動向さえも掴めたのである。

 社内の情報もさることながら、鈴花の行方についても、私は独自で調査を進めていた。いずれは関連企業の関与が濃厚であると踏んだ私は、情報のアンテナを外に向けていた。

 そしてついに佐々木一家が長野県松本市にいることを突き止めたのである。

 鈴花父はあれから小林物産を半ば強制的に退職させられ、子会社の社長就任という形で納得させられたようだ。

 そしてその一年後、鈴花は小林物産の常務の息子と結婚していた。すでに子供もいるようで、私はほぞを噛むしかなかった。

 そんな中、私がそこへ飛び込んでも、決して鈴花も喜びはしないだろう。小林物産も業績は順調だ。私が現れたところで、鈴花を苦しめるだけなのは目に見えていた。

 まだ今じゃない。鈴花を取り戻すのは。そう思った。


 翌月、私は予定通り企画部へ異動した。広報課長補佐という、取って付けたような肩書きである。始めにひと通りあいさつしたが、やはり皆の私を見る目は、かなり色眼鏡的で遠慮がちな視線だった。

 そんな折である。役員室から呼び出しの電話がかかった。出てみると父であった。

「今すぐ役員室へ来い」

 それだけいうとガチャンと受話器を落とした。いつもながら横柄な態度だ。

 私は電話のいきさつを課長に話すと、あからさまな表情で「ああどうぞ」と言って、すぐに何事もなかったかのように時間を動かす。

 そんな嫌味な態度に背を向けて、私は役員室へ向かった。そこには父だけが待ち受けていた。ならば社長室でよかったじゃないかと思いつつも、今まで役員らと何らかの打ち合わせが必要だったのだろう。

「おう来たか。まあそこに座れ。実はな、菱蔵商事さんとこのお嬢さんが見つかってな。見合いを承諾したそうだ。そこで、次の土曜日にセッティングしたが、貴様ももう腹が座っているんだろうな」

 未だに横柄なものの言いようは変わらない。しかし、とうとう見つかってしまったか。残念な気持ちが先走った。

「かまいませんよ。彼女がいいというならば」

 逆に今となっては、菱蔵商事のお嬢さんとはどんな人なのか。どのようにして二年ものあいだ行方を眩ませていたのだろう、彼女の人柄についての関心が深まった。

「これでウチも菱蔵さんも安泰じゃ。あはははは」

 笑っていられるのは今のうちだ。私は心の中でそう思っていた。


 そして約束の土曜日。待ち合わせ場所は都内の有名なホテルのラウンジである。こちらは父と母、そして私。菱蔵商事側も両親と本人。そして両者を取り持つ弁護士が二人といった顔ぶれが全てだった。

 彼女の名前は高田美也子といった。初めて彼女を見た印象はすこぶるよかった。美人であるということにも驚いたが、かなりしっかりとした意志を持ってこの席に臨んでいるという気迫が感じられたことである。

 見合いであるがゆえに互いの紹介と、いたずらに並べ立てたお世辞でそれぞれの人柄を彩られる。しかし、これらについては、私もさることながら、彼女も一切の関心を示さなかった。彼女は始終、下を向いていた。時折、外の景色を眺めるために顔をあげたりしたが、その目線が私に向けられることはなかった。彼女の装いはシンプルなブルーのワンピースに白のカーディガンを羽織っていた。髪飾りもシンプルなものだった。

 話をしているのが双方の取り巻きばかりなのに気づいたのか、仲人のつもりなのだろう、弁護士の二人が申し合わせたように、

「そろそろご本人同士で色々とお話しされるのがよろしかろうと思うのですが、いかがですか?」

 私も彼女も直接返事をすることはなかったが、それぞれの母たちがそれを承諾した。

それぞれの取り巻きが一斉に席を立ち、別に控室があるのだろう。そちらへ移動していく。立ち去り際に母が、これ聞こえがしに、私の背中を叩いた。

「ほら、こういう時は殿方がエスコートするものよ」

 さもあらん。私は彼女に声をかけて、隣の喫茶ルームへ誘った。何やら言いたげなことがあるようなので、この際聞いておこうと思った。私も同じように言い含めておきたいことがあったからである。

 その喫茶ルームには個室があった。私はウエイトレスに個室の使用を要望し、すぐにその部屋に案内させた。

「何かしようと思って個室を選んだわけではありません。ご心配くださいませんよう」

 言い訳じみた言い方だったが、本心である。

「かまいません。私はもうどうなっても。でも一つだけお願いがあります」

 彼女の私を見つめる目は真剣だった。そして彼女はここに至るまでの二年間の出来事を淡々と話し始めた。

 彼女の話によると二年前、ちょうどこの見合いの話があったころ、当時心に決めた人がいたらしい。さらにはすでに二人の間では結婚の約束もできており、あとは両親に報告するだけだったという。その時に舞い込んできたのが今回の話である。嵐のような激しい葛藤と戦った挙句、二人は入籍の処理を先に済ませることにした。これで事実上二人は夫婦である。しかし、その行動に彼女の父は激怒した。そして私たちの場合と同じような方法で、彼の会社に圧力をかけ、最終的に彼を屈服させた挙句、強制的に離婚届に判を押させたというわけである。そのことに激昂した彼女が家を飛び出し、行方をくらませたのが二年前の出来事だった。

 その後、彼女は夜の世界に飛び込み、数か月程度で転々と店や住処を変え、彼女の痕跡を消し去っていた。彼女の行方が長く見つからなかったのは、そうした彼女の行動に理由があったのである。しかしながら、彼女は再び恋に落ちてしまった。本気の恋だった。故に店も住処も長く居座ってしまった。それがために彼女の痕跡が浮き彫りとなって、とうとう見つかってしまったという顛末である。

 私も二年前にあった事実を話した。父により受けた仕打ち。その後の鈴花のくらし、そして私が心に決めている復讐の想い。それらを話している折、彼女はじっと私の目を見て聞いてくれた。

 最後は感情が表に出すぎたかもしれないが、この縁談に進んで名乗り出ているわけではないことを理解してほしかった。かつ、将来的に鈴花を取り戻したいと考えていることも打ち明けた。

 彼女は笑顔で答えてくれたが、理解を示すのと同時に、最後に彼女の言う『一つだけのお願い』を話し始めた。

「実はワタシ、お腹に子供が宿っています。最後に別れを余儀なくされた恋人の子です。この子だけは産みたいのです。どうかこのことだけは許してください。あとは何でもあなたの言う通りにします。お願いです」

 私は彼女に対して、理解を示すことはあっても怒りなどを覚えることはなかった。私の復讐における目標を考えてみても、好都合なハプニングであると感じた。

 私の目標。それは帝都石油を崩壊させること。鈴花を取り戻しても帝都石油という土台があるうちは安心できるすべもない。そういう意味でも私は少なくとも今の帝都石油の形を崩壊させる、つまりは父を(私も含めて)経営陣から追放させることが必要だと考えていた。そのために彼女とその子供にも協力してもらおう。そう考えたのである。

「わかりました。容認します。しかし、表面上は私とあなたの子として育てることとしましょう。あなたもその子を取り上げられたくないでしょ?そうだ、そのためにもすぐに結婚しましょう。そしてすぐにアメリカに渡りましょう。日本にいては色んなことを勘繰られます。私の復讐もその方がはかどるはずです。あなたとあなたの子供には迷惑をかけません。いかがですか?」

「私はこの子さえ無事に育てられるなら、すべてあなたの言う通りにします」

 これで二人の間の誓約は成立した。ともに運命に対する復讐を始める時が来たのだ。これはあとで聞いたのだが、お腹の子については、彼女の両親は理解していたらしい。そしてそのことを私が了承すれば、手を出さぬとも約束していたということである。私が反対していたらどうしていたのだろうと思うと、背筋が凍る思いである。それほどまでに彼女の決意は固かったように見受けられたからである。



 数日後、私たちの婚約が発表された。そしてすでに渡米していることも。式はニューヨークで行う。彼女の出産は日本から遠ければ遠いほど良い。特に父からは遠い方がよいに決まっている。母は薄々何らかの違和感を持っていたらしいが、私がよいと言っているのだからなすすべもない。

 私の処遇は企画部から営業促進部へ移動となり、ニューヨーク支社への転勤という形をとった。グループ会社の色んな部署を学ぶというお題目である。これを父が許さないわけもない。私はいとも簡単に自由な環境を得たのである。

 まずはアメリカから見た日本事業部の全体網を把握する。海外取引のネットワークを理解する。グループ全体の基盤を把握することで、堅固な部署と希薄な部署との違いが判る。同時にその共通項も理解できた。

 その間、私は個人資産を確保することも忘れなかった。それは私個人のためではない。美也子とその子供のためである。

 彼女たちを私の個人的な復讐の犠牲にしてはならない。常にそう思っていたので、帝都石油崩壊後も彼女たちが何不自由なく暮らせるだけの彼女の個人資産だけは残しておきたかったのである。



 あれから二年が経過した。私の計画はすでに実行段階に入っていた。

 品行方正に努めてきた私はすでに役員管理部の所属になっていた。その肩書のままで、アメリカ滞在を許されているのは、アメリカでの新事業を執行しているためである。

 この事業は短期プログラムであるが、もちろんそのことは本部には報告していない。新事業を手掛けていることで父は満足しているのである。

 同時に、私は事業や関連会社を少しずつ合併させることでその数を減らすことに成功している。すでに外堀は埋まりつつあるのだ。

 さらに内堀では、私が随所に仕掛けてきた時限爆弾が徐々に弾け始めている。例えば、父の信頼する側近たちが次々と退職していること、父が大株主となっている法人の取引を本社から支社へ、さらには関連会社へと移行させるこことで、いつの間にか本社との関わりが希薄になっていることなど、一部の役員はそのことにようやく気付き始めたようだが、それらが私の仕業であることなどは誰も知る由もなかった。

 しかし時すでに遅し。今はまだ目に見えていないが、帝都石油本体にも穴が開く爆弾を仕掛けていた。テキサスの精製会社と貿易商社が帝都石油との提携の解除を申し立てるよう仕掛けている。これはそれぞれの会社の若手役員を中心に帝都石油の収賄事情をリークすることで、帝都石油の世界的な評価を下げることが目的である。

 もちろん情報元が私であることは完全に黙されているが、アメリカ企業からの信頼度は確実に下落していた。



 テキサスから帰ってきて二週間後、私は二年ぶりに美也子とその子を連れて日本に帰国する準備をしていた。全ての時限爆弾の起爆装置のスイッチを入れてから帰国する計画だったのだが、それが全て完了したのである。

 日本へのフライト二日前。私は初めて美也子を求めた。結婚してから今日まで一度も彼女を求めたことはなかった。とりわけ鈴花に操を立てていたわけでもないが、必要以上に美也子に愛情を注いてしまうことを恐れていたのかもしれない。自分としては、単に彼女と夫婦でいた証しが欲しかっただけである。断られたら、それは仕方がないと思っていたのだが、彼女は聖母のような笑みで私のわがままを受け入れてくれた。

 但し、最後の憤りを彼女の中に置いていくわけにはいかなかった。私の計画が上手く実行されるならば尚のことである。


 二日後、私は美也子と悠也を連れて久しぶりに日本に帰って来た。

 とりあえず本社にて私の帰りを待っていた父と母には挨拶程度に顔だけは出したが、すぐに休暇願を提出し、十日間の休暇を取った。その足で美也子らとともに、行き先も告げずにクルマを借りて旅行に出かけた。高みの見物をするためである。


 私たちが東京を離れたその夜、ニュース番組では帝都石油の収賄事件にかかりきりだった。父や取り巻きの重役たちが記者会見で大粒の汗を流している。私のケータイ電話にもひっきりなしにかかってくるはずだが、この旅行の前に古いケータイを解約し、新しいものに買い替えていた。もちろん番号もアドレスも変更して。美也子の物も同じ処理をしてある。従って彼らは私たちと連絡が取れない状態にあるのだった。

 父は「してやられた」と思ったに違いない。これで私の復讐はおおよそ完了である。この件で父は社長の座を追われ、さらには個人資産となっている株券の多くは紙切れ同然になっている。現金預金は、生前贈与を建前に多くの口座を私名義と母名義に変更している。しかも私名義の預金は、すでに美也子とその子の名義に変更している。土地家屋については元々母名義である。これで父は裸同然となったのである。もう私の身辺をどうこうさせる力はない。


 翌日、旅行先ではあるが、私は美也子に離婚届を渡した。もちろん、私の名前を記入して押印したものをである。

 美也子は目に涙をためて礼を言った。

「ありがとう。でも、ワタシにはあなたに返せるものがありません」

「何を言うんだ。今まで何ひとつ文句も言わずに黙ってボクについてきてくれたじゃないか。おかげでボクの計画はスムーズに実行できたんだ。それだけでボクは充分に満足している。キミは良き妻だったと思っている。ウチの父の野望のために、キミは二度の恋を不意にした。そのことも本当にすまないと思っている。キミとその子のために残した財産は確実にキミたちの物だ。今日からキミは自由だ。今まで不幸だった分、これからは今まで以上に幸せに生きてほしい」

 私はそう言って、彼女の前を立ち去ろうとした。すると美也子は両の目を涙でいっぱいにしながら手をついて頭を下げた。

「ありがとうございました。こんなわがままなワタシを見守ってくれて」

 私は彼女を抱きしめて、

「大丈夫。キミのおかげで思った以上のプランを実行できたのだから。それにその子、私にとってもいい息子だったよ」

「これからどうするんですか?」

「さてね。とりあえず東京に戻ってみるよ。キミは?」

「ワタシは大阪に行こうと思います。この子の父親に会えるなら、会いに行きたい」

「成功を祈るよ。じゃあ、私は先に出るから。キミはゆっくりしてから旅立つといい」

 私と美也子の仮面夫婦の生活はこれで終わった。私の復讐の完了とともに・・・。



 東京に戻った私は、最初に鈴花の様子を見に行った。ちゃんと幸せな家庭を築いているのだろうが、最近の彼女の顔が見たかった。わかっている。すでに私という存在が不要になっているということも。それでもひと目、彼女の姿を垣間見たかった。

 亀戸の古い軒並みの奥に彼らの住まいがあった。近くに神社もあり、古き文化の残る良い町である。

 ちょうど庭先で子供たちと戯れる彼女の姿を発見できた。ほのぼのとしたいい光景だった。電信柱の陰から覗いていて、一瞬彼女と目が合った。すぐに目線をそらしたが、彼女が私の姿を追いかけようとしたところで、その場から逃げるように立ち去った。もう思い残すことはない。あとは田園調布を目指すだけである・・・。

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