【石村義忠の章】=仇敵現る=

 旅行のあと、鈴花を家まで送り、経堂のマンションに戻ってくると。溜まっていた郵便物の中に母からの封書を見つけた。書いてある内容を端的に言うと、

「父さんから話があるらしいので、一旦帰ってきておくれ」

 というものだった。

 父の話など、きっとろくなことはあるまい。そんな嫌な予感しかしなかった私は、すぐにその手紙を破り捨てた。その後、特に返事もせずに。

 さらに数日後、再び母から封書が届いた。内容は前回の物と変わりなかった。

 そしてやはり前回の手紙と同様に破り捨てた。そんなやりとりが五回ほど続いた後、とうとう痺れを切らした母は、私のマンションまでやってきた。

 何人かのお付きがいるのかと思ったが、今回は母一人だった。

 以前にも話したように、某企業の重役である父には守屋京平というボディーガード兼秘書がいる。時折り彼は母につくこともあり、今回も同行しているかと思ったがあにはからんや、母一人の道中だったようだ。

 母とて華族時代のお嬢様ではない。電車の乗り換えだって出来なくはないのである。しかしどうやら今回はタクシーで来たようだった。

 母が一人であることがわかると、私は渋々ながら玄関を開けざるをえなかった。放蕩する私を父から遠ざけてくれているのも母のおかげと言えるからである。

「とりあえずいらっしゃい。お茶も出ませんけど」

「上がらせてもらいますよ。お茶ぐらいは出してね」

 そう言うと母はズカズカと中に入ってきた。

「単刀直入に言うわね。あなたにお見合いの話があるの。とりあえず会うだけでも会ってほしいの」

 いきなりの話に驚いたことは驚いたが、その話の裏にはきっと父の陰謀があるに違いない。そう踏んだ私は、にべもなく断った。

「母さん、ボクはもう家を捨てた人間です。自分の結婚相手は自分で決めます。これ以上ボクに関わらないで欲しいとあの人に伝えて下さい」

「あまり母さんを困らせないでちょうだい。これでも今まではずっとあなたの味方になってきたつもりよ。でもね、今回だけは少し様子が違うの。よくはわからないけど色んな人の将来がかかっている話なの。もちろんあなたの将来も含めてよ」

「ボクの将来はボクが決めます。あの人に左右されたくありません。そう言ってボクはあの家を出たはずです」

「もう決まった人がいるのかしら」

 私はその答えに一瞬躊躇してしまった。いないと言えば相手の術中のままだし、いると言えば鈴花に影響が及ぶかもしれないという考えが頭をよぎったからである。しかし、そんな一瞬の素振りを我が母は見逃さなかった。

「やっぱりいるのね。それはどんな方?あなたに相応しい方?」

「もちろん、ボクにはもったいないぐらいの女性ですよ。ですからご心配には及びませんとあの人に伝えて下さい」

 私は鈴花とのことを秘密裏にしておいて良かったと思った。今の状況なら、会社を調査しても、鈴花の名前がリストアップされる心配はない。そうタカを括っていた。

「そう。ただね、父さんだってずっとお前のことを案じているんだよ。大事な一人息子じゃないか。いつまでも知らんぷりのはずないだろう」

「だから、ご心配には及びませんと伝えてもらえばいいんです。ボクは今のままで充分幸せですから」

「そうかい、今日はこれで帰るけど、今回は父さんにとってもお前にとっても、相当重大なことらしいから。そうでなきゃあの人が私を使いに出すこともないでしょうに」

 これはいけない。母が父サイドについている案件である。もはや、母とも戦う体制が必要だということだ。

「もう帰ってくれませんか。これ以上お話しすることはありません。ボクは戻りませんし、自分の伴侶は自分で決めます。そのことだけはくれぐれもお伝え下さい。あの人の戦略の歯車になるつもりはないと」

 母は今日のところはこれ以上は無理と判断したのか、ずっと立ち上がり、

「あの人のことです。きっと何らかの手を打ってきますよ。大事になる前に判断して下さいね」

 などと何やら意味深なセリフを残して部屋を出ていった。どうやって帰ったかなど知らぬ。もはや、母さえも敵であるという認識が必要なのだと思った。



 翌週から私は色んなことに気を使うことになった。父が黙って私の振る舞いを見過ごすはずもないことを予測できるからである。

 第一に鈴花の保身を考えた。まさか鈴花に手を出すとは思えないが、何らかのアクションを起こさないでもない。今後は会社帰りでさえも注意が必要であると肌で感じ取っていた。しばらくは鈴花と会うことも控えめにした方がいいだろう。

 そうして二週間ほどが経過した頃。

「ねえ、最近会う回数が減ってない?」

 鈴花から閉口気味のメールが入る。

「明日の夜八時。『欅』で会おう。その時詳しく話す」

 そこはたまに二人で行くカクテルバーである。時間を少しずらしたのも、尾行をまくためである。そんな必要があるのかというかもしれないが、それくらいのことはやりかねない人なのだ。あの人は。


 そして翌日。私は出張をつくり、訪問先から直帰する手はずをとった。まさか一日中私を尾行するなど、ありえないと思ったからである。それでも一応は尾行をさせないように最後のルートは慎重に選んだ。

 待ち合わせは八時である。食事は鈴花とあってからにしよう。どうせ彼女も大した寄り道はしていないだろう。そんなことを考えながら『欅』に向かった。

 すでに鈴花は店のテーブル席に座っていた。私も何気なく向かいの席に座ったが、周囲への気配りは続けていた。

「ねえ、どうしたの?なんか急によそよそしくなって」

「うん。こないだ静岡から帰ってきた晩にお袋が訪ねてきてね、親父がボクを連れ戻したいと言ってるらしい。断ったんだけど、しつこいからねあの人は。幸い、まだキミのことは知られていない。だから慎重に行動してるってわけさ」

「なんで知られちゃいけないの?いつかはちゃんと挨拶をって思ってるのに」

「ダメだよ。キミとのことなんか承諾するわけがない。別れさせるために、キミに危害を加えないとも限らない」

「そんな危険人物なの?あなたのお父さん。どこかのヤクザみたいね」

 鈴花は少し楽しそうな雰囲気だが、私はそれを打ち消すように、真剣な眼差しで答えた。

「ヤクザよりタチが悪いかも。なんせヤクザに指図する側だからね」

「どんな大物なの、あなたのお父さんって」

「まあ、ある程度大きな企業の重役さ。取り巻きも子分みたいなのもいるからややこしい。今回もボクを連れ戻すってことは、何か良からぬ企みがあるに違いないんだ。そんなものの道具にはされたくないからね」

「じゃあ、私たち、しばらくはどうなるの?」

「少しの間、外で会うのは控えよう。ウチに来てもダメだ」

「少しの間って、どれくらい?」

「わからないよ。でもメールや電話なら大丈夫だと思うから、こまめに連絡は取り合おう」

「あんまり構ってくれないと、浮気しちゃうかもよ」

「浮気のフリだったら、その方がいいかも。できる?そんなこと」

「うそよ。でもよっくんっていいとこのお坊ちゃんだったのね。お家はお金持ちじやないの?」

「それが幸せとは限らないってことさ。ボクはそんな家庭環境から逃げ出してきたんだ。束縛だらけの世界から自由な世界にね」

「よくわからないけど、わたしはよっくんがお金持ちじゃなくても好きよ」

「そういう人を探すために抜け出してきたんだ。ボクもキミを離す気なんかないさ」

「うふふ。なんだか大袈裟ね。映画かドラマの世界みたい」

「現実にあるんだよ。さあ、今日はもうお帰り。一緒に店を出るとまずい」

「わかったわ。メールだけはちょうだいね」

「ああ」

 私は短い返事で渋い表情を濁した。

 結果的にこの日は私を監視する目は無かったようだが、帰って向こうサイドを煽る形になってしまった。途中、完全に尾行をまいてしまったのだから。

 つまり翌日からは、尾行のプロが私をターゲットとすることになったらしい。財力に物を言わせたあの人の力で・・・。


 そんなことを知らない私は、尾行などいつでもかわせると思い込んでしまった。刑事ドラマで展開される色んな方法で。

 その日は鈴花の誕生日だった。さすがに放っておけるはずもない。会って直接祝いたいのも事実である。

 いつものようにメールで待ち合わせ時間と場所を指定する。私は出張を入れて直帰の手はずを整える。しかし、設計部の行き先などたかが知れている。せいぜい三ヶ所くらいしかない。そこが営業部ほど融通が効かなかった点ではある。

 それでも帰りは慎重に路線を選んだ。東京駅で買い物もした。いつもと違うルートに尾行者たちに緊張が走る。

 ここからが騙し合いである。一旦タクシーを使い有楽町まで出る。交通会館の中で店の裏口を利用し外へ出る。そこから再びタクシーを拾い、品川へ向かった。品川からはJRで川崎方面へ行くと見せかけて直ぐに飛び降り、山手線に乗り換える。

 待ち合わせは原宿駅近くのレストランだった。駅の改札口を出た時に追ってがいないのを確認すると、目的の店に向かった。しかし、私は間違っていたのである。すでに私の逃亡パターンを見抜いていた彼らは、後方支援を山手線にも送り込んでいたのである。尾行者は一人二人とは限らないということが念頭になかったのだ。

 尾行者がいるとは知らずに鈴花の待つレストランに到着した私は、店内を見渡し、鈴花の姿を探した。鈴花は奥の壁際のテーブルにいた。窓際に座らぬよう指示していたこともあり、そこまでは予定通りだった。

「待たせたね。誕生日おめでとう」

 私はカバンの中から小さな箱を取り出し、鈴花の目の前に置いた。

「何かしら?細長いケースだがら指輪じゃないわね。開けてもいい?」

 私は小さくうなずいた。

「わあ、すてき」

 私がプレゼントしたのは小さなオパールがついたネックレスだった。

「ありがと。誕生石なんて、よっくんはロマンチストだね」

「一応は気を遣ったつもりなんだけど、うれしくない?」

「うれしいに決まってるじゃない。このところ頻繁に会えないし、もしかして別れる準備してるんじゃないのって、母さんに言われるし」

「まさか。今日だってここまで来るのに苦労したんだよ」

 そんな会話をしていると、ウエイトレスがオーダーを取りにやってきた。

 私は肉とパスタのコース、それにグラスワインをオーダーし、すぐさま、ワインとアペリティフが用意される。

「あらためて、誕生日おめでとう」

 カチンとグラスが鳴った時、スーツを着た男とOL風の男女が店に入ってきたのだが、私はそれに気づかなかった。

 彼らは私たちとは少し離れたテーブルに座り、腰を落ち着けた。

 そのことに気づかなかった私と鈴花は、周りに気遣うことなく二人だけのパーティーを始めていた。久しぶりのデートでもあり、大いに楽しい時間を過ごした。

 二時間ほど過ごしたろうか、鈴花の帰りの電車も考えてやらねばならない。

「そろそろ帰ろうか。お母さんも心配してるだろうしね」

「そんなことないのよ。お母さんったら、今日は泊ってこないの?だって。明日も休みじゃないのにね」

「もうちょっと待ってね。でもクリスマスまでには何とかしたいと思ってるから」

「そんなに待たなきゃいけないの?なんならこっちから乗り込んでいってもいいのよ」

「そうだな。ちょっとお袋に探りを入れてみるよ。でも今日のところはこれでお帰り」

 そう言って鈴花を先に立たせた。

「また連絡してね」

「うん」

 まだ店内には数組の客が残っていた。老夫婦と家族連れ、それに若い女の子同士の三人組だった。まさかこの中に尾行者が含まれているとは思えなかったので、私も安心していたのだが・・・。

 鈴花のいう通り、このままずっと膠着状態が続くのがいいはずもないことはわかっていた。長くなればなるほどこちらには不利である。

 特にこれといって有力な作戦があるわけでもない。ここは一つ母から状況を聞き出すほかないと考えた。



 翌朝早く、私は母に電話した。

「ああ、母さん。こないだの話はもう終わったんだよね。例の見合いの話」

「終わってないよ。先方の親御さんも乗り気らしくてね。今、日取りを調整中だって聞いたけど?」

「ボクは行かないと言ったはずです」

「あなたも感じているように、この話は個人の感情がどうのという話ではありません。先方さんとより深い絆を作るための縁談です。それに先方のお嬢さんもとても綺麗な方よ」

「母さんもわかっていると思うけど、ボクには決まった人がいます。あとはプロポーズするだけなんです。そおっとしておいてもらえませんか」

 私は恋人がいることだけは素直に白状した。母を味方につけるためには、多少の情報公開は必要だと思ったからだ。

「聞いたわよ。さっきまで原宿でデートだったんでしょ」

 私はそれを聞いて大変なショックを受けた。尾行者は上手くまいたと思っていたのに、さにあらず、あの人の方が数倍も周到な用意をしていたのだ。それほどまでに今回の案件は底が深いのか。

 一瞬、言葉に詰まったが、ならばこちらもある程度開き直らねばなるまい。

「だったら話は簡単でしょ。もう諦めてください」

 すると今度は母が次の言葉に躊躇した。そして続いて出た言葉が、

「もう遅いわよ。その彼女の調査、始まってるわよ。あなたこそもう諦めなさい。あの人にかかっては、まだあなたなんて赤子なのよ」

「・・・」

 返す言葉がなかった。実際昨日のことも簡単につき止められ、鈴花のことが明らかになるのも時間の問題だろう。

 私は直ぐに電話を切り、会社へ向かった。いち早く鈴花に知らせなければ。その想いだけで。


 いつもより早く会社に着いた私は、ただひたすら鈴花の到着を待った。彼女の出社は始業三十分前が通常だった。あとは時計とのにらめっこである。

 果たして鈴花はいつも通りの時間に出社した。その姿を見つけると、急いで腕を引いて物陰に引っ張って行った。

「おはよ。出社早々だけど悪い知らせだ。父たちに嗅ぎつけられた。近々キミのところにも何かアクションがあるはずだ」

「何のこと?」

「昨日も話しただろ?父の企みが動いてる話」

「うーん、本当にあるの?そんな話。大丈夫よ。わかったところで、あなたがわたしを捕まえておいてくれればいいだけじゃない?」

「ボクは大丈夫だけど・・・」

「なら大丈夫。受けて立つわ」

 そう言って鈴花は自らの胸をドンと叩いた。

「これからがホントの戦いだからね。頑張ろう」

「うん」

 それでも私たちは、社内での他人の目を憚りながら設計部の部屋へと急ぐのであった。


 その日は特に何もなく終わった。鈴花にとっても拍子抜けしたぐらいの一日だった。これが嵐の前の静けさだとは思いもせずに。

 しかし次の日、母から連絡が入る。

「今日の夜、そちらに行くから、部屋で待っていなさい」

 何か動きに変化があったのだろう。いい知らせか、悪い知らせか。あまり良い予感がしない。

 夜八時。私は自分の住むマンションに帰ってきた。それをどこかで見ていたのだろう。すぐに玄関のチャイムが鳴った。

 のぞき窓から様子を見ると、やはり母であった。

「こんばんわ、お邪魔しますよ」

 前回と同じようにズカズカと入ってくる。そしてソファーにどっかと腰を下ろすと、

「今日はお茶ぐらい出してよね。長い話になると思うから」

 今日は母は、前回の時よりもややご機嫌は斜めか。

 私は冷蔵庫から冷たい茶をグラスに注いで、母の目の前に置いた。

「お嬢さん、鈴花さんとおっしゃるのね。実家は船橋ですって。あなたから別れるようにちゃんと話をした方がいいかもよ。今度の父さんかなりの本気よ。社長の座をかけた大一番らしいから」

「そんなことボクには関係ないじゃないですか。それに彼女と別れるつもりはありません」

「私はね、そうさせてあげたいと思ってるのよ、個人的には。でもね、私たちの世界はそれだけじゃダメなのよ。私だって、もっと自由な恋愛をしたかったわ。だからあなたを応援してあげたい気持ちもあるのよ。でも今回はダメね。もう私たち家族だけの問題じゃ無くなったの」

「どういうことですか?」

「詳しくは知らないわ。だから、それを知りたいなら、やっぱりあなたは一度帰ってるべきなのよ」

 確かに今の状態ではそうせざるを得ないかもしれない。

「わかった、行くよ。だから鈴花には手を出すなと言っておいて下さい。今度の土曜日に行きます」

「わかったわ」

 こうして母との間で約束ができたのだが、この約束はまったく何の効力も持たないものだった。



 次の日、私は鈴花を呼び出した。もちろん仕事が終わってからである。すでに父には知られているので、特に注意を払うこともなく。

 込み入った話をしたかったので、密室となるホテルを利用した。燃え上がるものもあったので、憤りを鎮めておく必要もあった。

 何週間ぶりだろう、鈴花の肌に触れたのは。鈴花も久しぶりの刺激に歓びを覚え、互いに熱く燃えることができた。

 そして、ひと通りの憤りと痺れを鎮めたところで本題に入る。

「今度の土曜日、父に会いに行くことになった。ちゃんと話してくる。それまでは鈴花に危害を加えるなと伝えてあるから、そんなに警戒しなくても大丈夫だと思う」

「ねえ、よっくんのお父さんって、ホントにヤクザなの?」

「違うんだよ。帝都石油って聞いたことあるでしょ?ガソリンスタンドとか。あの会社の重役なんだよ。黙ってるつもりはなかったんだ。もうボクはあの家を出てきた人間だからね。ボクには関係ないと思っていたから」

「どんな話になるのかしら。これから私たちはどうなるのかしら」

「わからない。でも万が一の時は二人で逃げよう。どこか遠くへ、誰も知らないところへ」

 鈴花は目に涙をうかべて、私にすがりついてきた。私はそっと肩を抱いて、鈴花の嗚咽が止まるのを待つしかなかった。

「どこへでもついていくわ。お父さんやお母さんには申し訳ないけど、あなたとずっといたいもの。帰ったらお母さんにそれとなく話しておく」

 早い結論が必要だろう。そう感じていた。


 土曜日。私は久しぶりに実家の前にいた。田園調布の豪勢な住宅街の中にある父の家は、千坪もあろうかと思われる敷地内に家屋と離れと倉庫、それにクルマを数台並べられる駐車場がある。

 庭は数寄づくりで、父の好みである。おおよそは見栄で作ったのだろうが。

 門前で呼び鈴を鳴らすと、すぐさま中から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「坊ちゃん、坊ちゃんですか?」

 子供の頃から世話になっていた、この家の執事でもある山口三雄である。

「お久しぶりです。お元気でしたか?」

「あなたもお元気そうで何よりです。まだおられたのですね。早くこんなところとは縁を切った方がいいのに」

「何をおっしゃいます。旦那様にはご恩がございます。それに坊ちゃんが出て行かれた時、随分とお叱りを受けましたが、いずれお戻りになるだろうと、それまではお待ちしようと覚悟しておりましたから」

「ありがとう。でもそうじゃないんだ。今日はあの人と戦いにきたんだ。この家と完全に決別するために。だからあなたもそろそろのんびりされていいんですよ」

 私は山口を労った。すでに齢七十を超えているはずだ。いつまでもあの悪魔に仕えていることはあるまい。そう思ったからである。

 山口と並んで母屋の玄関にたどり着くと、そこでは母が待ち受けていた。

「お父さんがお待ちかねですよ」

 そういうと笑顔で家の中へ招き入れた。

 父が待つという応接室は玄関から割と近い場所にある。数人程度での会合ならこの部屋で十分だ。

 ノックをして部屋に入ると、ソファーの真ん中で父が踏ん反り返るように座っていたが、私の姿を見つけると、ずっと立ち上がり、睨みつけた。

「何故もっと早く帰ってこのだ!貴様のせいでワシの計画は台無しじゃ」

「私のせいではありません。あなたの計画が不十分だったのではないですか?それを私のせいにされても困ります」

「うーむ」

 父は、そのことに関しては自らの計画の甘さを感じているらしく、それ以上のことについて私を責めることはなかった。しかし・・・、

「まあよい、今までのことは。確かにワシにも落ち度はあったじゃろう。されど今後については貴様にも我慢してもらう。今回の計画は菱蔵商事との事業提携が主である。この成果を足踏みにワシが帝国石油の最高責任者となるための布石なのだ。現社長は、お前も知っている澤部満だが、小池興業との業務提携で大きな穴を空けてしまった。これを埋めるには新しい事業展開をしなければ、我が社の社員総勢一万人が苦労することになる、さて、それを聞いても貴様はワシの計画を無視するのか?」

「澤部さんの失敗をなぜ私がフォローしなければなりません?あなた方の問題です。あなた方で解決して下さい。今は戦国時代ではないのですから、政略結婚なんて時代遅れもいいところです」

 私はにべもなく突っぱねたが、

「先方も乗り気じゃった。きゃつらも我々と手を組むことで新しい展開が手に入る。我々も同じじゃ。これほどまでに互いに良い条件はないと思うておる。さもなくば向こうの社員と合わせて一万五千人の暮らしが現状を維持できぬ暮らしとなる。それでも構わぬというか。お前の胸先三寸で一万五千人が救われるというのじゃぞ」

「しかし、その話は台無しになったんでしょ?つまり白紙になったのでは?」

「白紙ではない。振り出しに戻っただけじゃ。話は継続しておる。両社にとって互いの絆を深めるためだからの」

「それはあなたと菱蔵商事の社長さんにとってでしよ?私には関係ない」

「そう言えるかな?今回の澤部の失態における穴埋めを放置しておけば、関連会社がいくつか倒産することになるがな。その関連会社の取引先の一つに小林物産という会社がある。知ってるか?」

「いいえ」

 言葉少なに返事をしたが、

「女の父親の勤め先も知らんとは、情けない奴め」

「なんだと!」

 私はカッと目を開いて身体を乗り出した。

「脅しではない。それとなく聞いた話じゃ。貴様も見て見ぬふりをするわけにいくまいて。まあ、一旦振り出しに戻った故、今すぐとは言わぬ、されど準備はしておかねばならんからのう。ひと月やる。それまでに今の女とケリをつけておけ。貴様はワシの後継者じゃ。そのことを忘れぬようにな」

 父は一方的に話し終わると、すっくと立って応接室を出て行った。まさに前門の虎、後門の狼と言った心境か。


 情報が足りない。なぜ振り出しに戻ったのか、なぜ継続した話なのか、それほどまでにこの婚姻が重要なのは何故か?私はそれらの情報を母から聞くしかなかった。

 応接室を出た私は、一目散に母の部屋を訪れた。母の部屋は二階へ向かう階段を上がって右の奥にある。中庭が一望できる、この家でも最も瀟洒な部屋だと言える。

 和室であるが故にノックはできない。障子を開ける前に一言声をかけた。

「義忠です。入ります」

「お入り」

 中から母の声が聞こえたので、障子を開けて入っていった。

 母は小さな机に向かって手習いの習字を嗜んでいた。師範の免状を持つほどの腕前であり、それが母の趣味でもある。

 そばには、輿入れした時から仕えている桜子という世話係りが座っていた。歳は母と同じくらいであろう。出自までは母も話さなかったが、噂では元は母の同級生だったとか、また、父の愛人の一人でもあったとか。そのことについて私は深く追求したことはない。子供ながらに聞いてはいけないことと刷り込まれていた。

「しばらく二人だけにしてちょうだい」

 母は桜子にそう指示し、彼女は軽くお辞儀をして部屋を出て行った。

 私は母が手習いをしている小机の前に座り、母と対峙した。母は筆を動かす手を止めずに私に話しかける。

「お父さんとは上手く話が出来ましたか?あなたには申し訳ないけど、鈴花さんとのことは諦めてもらうしかないのよ」

「母さんが同じような境遇だったと、昔聞いたことがあります。それでも息子に同じような憂き目を味あわせますか?」

 ここでようやく筆を動かす手を止めて私の目を見た。

「そうね。でも私は幸せよ、今は。お父さんもちゃんと私を立ててくれる」

「桜子さんが父の愛人でもですか?」

「おほほほ、それは根も歯もない噂。たといそうだったとしても、知らぬ女に執着されるよりは良いではありませんか」

「その点では、あなた方とボクの倫理観が違いすぎるので理解はできません。それよりも教えてほしいことがあります。何故ボクの見合いの話が振り出しに戻ったのでしょう」

 母はしばらく考えたのち、ゆっくりと口を開いた。

「詳しいことは知りません。ただ先方のお嬢さんに何か間違いが起こったとか。こちらの準備が遅れたために、スムーズに進められなかったことに隙があったとお父様はおっしゃってました」

「ということは、先方のお嬢さんもこの話には乗り気ではないということではないでしょうか。そんな話がお互いのためになるのでしょうか」

「今回の件は、個人の感情よりも会社の利益を守るためなのです。先方のお嬢さんもそれを理解するのに多少の時間が必要なのでしょう。先に殿方の方の準備が整わないと、お嬢さん側に不安を与えることになります。そのためにも、あなたに決心してもらうことが重要になるのです」

「それでももし、ボクが拒否すればどうなりますか?」

「あまり想像したくありませんね。お父さんも今回の件については、大きなプロジェクトとしてグループで動いているらしいからねえ。お父さん一人の問題でもないみたいよ。まあ、私が話をできるのはこれくらいね」

「先方のお嬢さんにはどういった間違いがあったのですか?」

「さあ、そこまでは知りません。どんなご事情かも。ただ、先方さんも終わらせたつもりはないみたいよ」

 私は澤部社長を恨みに思った。何もかもを澤部社長のせいにするつもりはないが、あの人のミスさえなければと思ってしまう。

 私はすぐさま鈴花と相談する必要に迫られた。事と場合によっては、鈴花のご両親とも膝を交えて。




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