【石村義忠の章】=それまでの出来事=

 私の名前は石村義忠。東京のある私立大学の工学部を出て、もっともらしい会社で働いている、ありきたりのサラリーマンだ。本当はクルマが好きで、機械いじりも得意だったので、クルマの製造や販売に関わる仕事がしたかったのだが、なぜかそっちの方面については、どこの会社からも内定をもらえなかった。

 結局、私がもらえた内定は医療機器を取り扱う会社で、設計を担当する部署に配属されている。平凡ではあるが、充実した毎日を送っていた。

「よっくーん」

 そう呼ぶのは佐々木鈴花。目下のところ私の最愛の恋人である。付き合い始めて年半、休みの日には、時折彼女が親に内緒でウチにお泊りする仲である。もちろんすでに大人の関係にはなっていた。

 きっかけは一年前、元々経理部にいた鈴花がうちの部署に配置転換されてきたことが最初の出会いだった。細かいところに気がつく鈴花は、部署の中でも人気者だった。何人かが早々にアタックしたようだが、全て玉砕していたようだ。あくまでも噂だが。

 おりしも昨年の忘年会。二次会のカラオケが終わったのち、各自が帰ろうとした時、営業の立花が酔った勢いで鈴花に言い寄っていた。どうやら鈴花にアタックして玉砕した一人らしい。埒のない勢いで執拗に交際を申し込んでいる。さすがに見かねた私が仲裁に入り、立花を引き剥がした。立花とは同期入社でもあり、自然と彼の行動を止めるお鉢が回ってきただけだったが・・・。

 その後、立花を上司に任せて、私は鈴花のフォローに回った。

「大丈夫?駅まで送るよ」

「ありがとうございます」

 その時に交わされた会話は、極単純なものだったが、後日、会社で彼女からそっと声をかけられる。誰もいない給湯室の中だった。

「石村さん、こないだのお礼がしたいんですけど、今晩忙しいですか?」

 気の利く可愛い女の子に誘われて断るバカがいるはずもない。

「全くもってヒマです!」

 私は二つ返事でOKした。

 言わば部署内のナンバーワンマドンナからのお誘いである。勘違いしても仕方なかろう。


 その夜、少し残っていた仕事もあったが、私は鈴花との約束を優先した。それほどまでに、彼女との仮想デートは楽しみだった。

 待ち合わせは、とあるバーだった。どうして彼女がこんな店を知っていたのか。後で聞いたところによると、彼女の先輩からのサジェストだったらしい。

 『欅』というそのバーは、カウンターが十席ほど設置されている、いかにも待ち合わせにピッタリのバーだった。

 ドアを開けると、隅っこの方に所在なく座っている鈴花がいた。

「あのう、お待たせしましたか?ちょっとだけ明日の用意がありましたので」

 などと、緊張のあまり遠慮がちな敬語になってしまう。

「いえ、私もいま来たところですから」

「隣に座っていいですか?」

「はい」

 鈴花の目の前にはブルーのカクテルが置かれていたが、あまり進んでいないようだった。私はスコッチのハイボールを注文すると、鈴花とグラスを鳴らした。

「こないだはありがとうございました。お陰様で助かりました」

「いや、彼は同期入社だから、たまたまボクが一番なだめやすかったんだと思うよ」

「今日はどうしてもお礼が言いたくて、勇気を出してお誘いしたんですが、断られたらどうしようって、ドキドキでした」

「今どき、キミの誘いを断る男はいないと思うよ。みんなキミを狙ってるだろうに。ボクだってその一人さ。だからあの時も率先して止めに入ったんだよ。アイツにキミを取られたくなくて。キミのこと好きだから」

 勢いに任せてとんでもないことを言ってしまっている自分に気づいたのだが、既に遅かった。

「あ、いや、ごめん。忘れてくれるかな。迷惑だよね」

 すると鈴花は顔を赤らめてうつむき加減にこう答えた。

「今のは告白されたと受け取っていいですか?私も好きです。だから・・・」

 思わぬ展開に腰を抜かしそうになったが、少しは期待していた自分がいたことも間違いではない。

「ありがとう。じゃあ正式にお付き合いしてください」

「はい。でもお願いがあります。まだ会社の中では内緒にしてもらえますか」

「どうして?」

「石村さんのことを狙ってる女子社員って結構いるんです。私が石村さんと付き合ってることが知れたら、いろんな人から攻撃を受けそうで怖いんです。この店を教えてくれた総務の上村さんは私の味方なんですが、それだけはくれぐれもあなたにお願いするようにって・・・」

 私は鈴花の不安げな顔に男気を発揮せざるをえなかった。まさか、自分がそこまでモテているとは思っていないが、おおよそ適齢期の男は限られており、独身貴族が減っているのも事実であった。

 それに逆を言えば、鈴花を狙っている連中も少なくはなく、今の理論で言えば鈴花を、狙っている男どもの矛先が自分に向くということでもある。

「わかった。しばらくはみんなには内緒にしておこう」

 こうして、この夜からボクたちの交際が始まったのである。


 私たちは上手くやっていた。私たちの間柄は極親しい友人たちしか知らなかった。彼らは口が固く、吹聴されないまま現在に至っている。

「よっくーん」

 鈴花は私のことをそう呼んでいた。

「会社でその呼び方はダメでしょ」

 我が社において、社内恋愛が禁止されているわけではなかったが、もう少しみんなには内緒にしておきたかった。

 しかし、彼女も今年二十七になる。そろそろ結婚を考えているはずだ。私も三十三歳の年を迎える。いつ結婚してもおかしくない。事実、上司や友人にやいのやいの言われており、自分でもそろそろかなとは思っていた。

「今度の土曜日、出かけない?海が見たいの」

 もうすでに海水浴の季節は終わっており、たとえ海に行っても泳ぐ訳じゃない。

「いいよ。湘南あたりでいいのかな?」

「うん。よっくんにドライブにつれてって欲しいの」

 クルマ好きの私は初任給をもらった頃からマイカーを所持している。もちろん中古車ではあるが、お気に入りのスポーツカーである。休みの日には、一人ででもドライブをするくらいクルマが好きだった。

「じゃあ、十時くらいに迎えに行くよ」

「そんなことしなくても、前の日にお泊まりすればいいんじゃない?」

 すでに大人の関係がある二人には、それを阻む障害はなかった。


 来たる金曜日の夜。私には週明けのプレゼンのためにまとめておかねばならない作業があった。

 メールでそのことを伝えると、

「じゃあ、先に行って待ってるね」

 という返事が来る。そう、鈴花は私の部屋の合鍵を持っているので、私よりも先に帰ることが可能なのだ。


 鈴花から遅れること一時間半、並み居る華金のお誘いを断って部屋にたどり着いた。私の住むマンションは小田急線の経堂駅近くにあり、割と通勤には恵まれている方だと思う。たまたま知り合いの不動産屋から紹介してもらったのだが、割と新しいマンションで家賃も高くない。管理人さんも気立の良い人である。

 ちなみに私は割と裕福な家庭で育ってきた。さる大手企業の重役をしている父からは、それなりの英才教育を受けてきたのだが、大学を受験する際に将来の希望について衝突し、家を飛び出したカタチになっている。母は一定の理解を示してくれたので、大学の費用は母がうまく取り入って捻出してれた。そんな母には感謝している。

 しかし、大学を卒業する間際、父とは再び衝突した。

 私を自分のいる会社に入れようと思っていたらしいが、そんなことはまっぴらゴメンである。大人になってまで、父の出世の道具に使われる気にはなれない。

 私は家から飛び出す形で、今の生活に辿り着いたのだ。従って、知り合いの不動産屋とは、父に関わりのある人ではなく、高校時代の親友の一人である。

 彼の名前は菅井秀人。彼もまた、父と喧嘩して家を出た輩なので、私とは息が合うのである。そんな彼が地元の不動産会社に就職していたのは幸いだった。

「ただいま」

 玄関を開けると、見覚えのある女物の靴がポツネンとこちらを向いていた。鈴花の靴である。

「おかえりなさーい」

 部屋の奥から聞こえて来る心地よい声、紛れもなく鈴花の声だ。

「ご飯作ってみたけど食べる?」

 家に帰ると、心休まる女の出迎えと、用意されている夕餉。まさしくこれが思い描いていた平凡な安らぎ。そう感じていた。

「もちろん食べるさ。で?今日は何があるんですか、女将さん」

「えへへ、今日は肉じゃが作ってみたんだ。あとはピーマンとレンコンのきんぴら。一生懸命作ったから、ちゃんと褒めてね」

「うん、まずかったらちゃぶ台をひっくり返そうかなと思ってる」

「いじわる」

 そう言って可愛く拗ねる姿もいじらしい。さりとてそんな野蛮な行為をしたことのない私である。鈴花も本気になんかしていない。

 事実、鈴花の作った料理は美味しく仕上がっていた。さすがに料亭ほどの腕前ではないかも知れないが、素朴な幸せを求める私には充分すぎるほどの夕餉だった。

 鈴花が食事の後片付けをしている間に私はコーヒーの用意をする。豆を冷蔵庫から取り出し、ガリガリとミルを挽く。私の趣味の一つとして、ミル挽きコーヒーだけはこだわるのである。

 ゆったりとした時間の中、コーヒーのふくよかな香りの中で、鈴花を抱きしめた。私にとっては唯一無二と言える至福の時間である。

 多くのライバルを蹴散らし、会社のマドンナとも称される鈴花が、自らの腕の中にいるのである。しかもうっすらと目を閉じて。私は迷うことなく鈴花の唇を求めるのであった。そして鈴花はそんな私の欲求に素直に応えてくれている。これを至福と言わずなんと言おう。おお、この流れはまずい。我がジュニアが暴走する一歩手前である。鈴花はいつもと同じように妖艶な女の色香を放ち、私の理性を崩壊させる。実際、この魔力に打ち勝てる男はいないだろう。鈴花もフリーとなっている手を伸ばし、血気盛んな懐の中へと侵入してくる。そうなると私の理性は崩壊せざるを得なくなるのである。

 そして私は鈴花を貪り、鈴花は私の強引なまでの行為を待ちわびるのである。



 私たちの初めての逢瀬もこの部屋だった。何度目かのデートの後、少し遅くなった帰り道、思い切って部屋に誘ってみた。翌日は休みだったし、鈴花が帰ることができる終電の時刻は過ぎていた。もちろん、私はその時間を把握していたのだが、あえてその時間を過ごさせた。結果、鈴花は私の部屋に来ざるをえなくなったのである。

 覚悟はあったのだろう。部屋に招き入れると、どちらからともなく、すぐさま唇を求めあった。それが引き金となったことは言うまでもない。

 鈴花も初めてではなかったが、そんなことはどうでもよかった。私だってそれなりの経験はあるのだから。

 しかし、最初から勢いだけに任せてはいけない。二人が生まれたままの姿になった時、私は鈴花をシャワールームに連れ出した。

 二人で清らかなる水飛沫の洗礼を受けたことは今でも忘れない。

 シャワールームを出た私たちは、そのままベッドへと移行し、やがて初めての甘美の時間を堪能した。それは夢のような時間だった。無我夢中で我を忘れた最果ての時は、自らの憤りを鈴花の中に解き放っていた。

「ごめん。でもちゃんと責任は取るから心配しないで」

「いいの。わたしもわかってたから。でも、あなたにとって重い女にはなりたくないの。だから自分を責めないで。でもそれってプロポーズなの?」

「それは然るべきタイミングでちゃんとするよ」

 その瞬間、私は鈴花を一生の伴侶とすることに決めていた。



 翌土曜日。いつもと変わらぬ時刻に目が覚めた。台所ではまな板を包丁で叩く音が聞こえている。

 私は学生時代から自炊を心がけていた。なるべく父の財力に頼らぬよう、アルバイトもして、出来るだけ質素な生活を心がけた。

 サークルには入ったが、爬虫類研究会などというマニアックな連中の集まりだったため、さほど金も使わず、ひたすらヘビやトカゲなどの生態の研究にこれ務めた。貧乏学生にとっては良いサークルだった。

 つまり、私の台所と冷蔵庫の中には、鈴花が腕を振るうための必要最低限の材料があったということなのである。

 事実、鈴花は想像以上の支度をしてくれた。大根の味噌汁に納豆豆腐に玉子焼き。朝定食としては申し分ないセットである。自分一人ならご飯に納豆をかけて終わりにしていただろう。

「こりゃまた豪勢な朝ごはん。ねえ、週末だけでも作りに来てくれない?」

 鈴花は船橋市で両親と同居している。さすがに毎週というわけにはいくまい。まだ、あいさつにすら行ってないのだから。今日、鈴花は何と言い訳して外泊許可をもらったのだろう。

「おおげさね。こんなの三十分もあればできるじゃない。冷蔵庫の中身を見ればこれが精一杯だけどね」

「いや、充分だよ。ボクなら納豆をぶっかけておしまいだからね」

「喜んでもらえてよかったわ」

 私は、鈴花が作った朝定食を堪能して本格的に目覚めることができた。後片付けは二人でこなす。その方が早いからである。

 片付けを終えた私たちは、鈴花の希望でもある海を見るために湘南へと向かった。


 都内からだと、ある程度の渋滞を考慮しても一時間半ぐらいで到着する。

 慌てる必要もないので、道中はのんびりドライブだ。とはいえ、爽快に走りたい私は、高速道路を利用する。BGMはFM局のジョッキーに任せよう。

 クルマの中でも他愛のない会話を楽しんでいたが、あるタイミングで鈴花がさらっと言ったセリフがあった。

「ねえ、今度両親に会ってもらえないかしら。それとよっくんのご両親にもまだ挨拶してないし」

「そうだね。ボクもキチンと挨拶しておいた方がいいだろうね。キミとは真剣に付き合ってることをアピールしておかなきゃいけないしね」

「わたしも同じ気持ちよ。だからよっくんのご両親にもちゃんとご挨拶したいわ」

「ウチはいいよ。ボクは家を捨ててきた人間だからね。鈴花をじゃなくて、ボク自身を認めないだろうな。そういう人なんだよ、あの人は」

「それってお父さん?」

「ああ。ボクの人生さえ自分の思い通りにしたいと思ってる人さ。それよりも、鈴花の実家へはいつ行こう。ドキドキするな」

「いつでもいいのよ。船橋だから、すぐ近くだし」

「よし、善は急げだ。来週にでも行こうか」

「せっかちね。聞いてみるわ」

 何だか急に決まった鈴花の両親への挨拶。しかし、ウチの両親には会わせられない。特に父には。私自身のこともそうだが、とてもあの頑固の塊みたいな人が鈴花のことを認めるとは思えないからであった。彼女がどうのこうのではない。私が選んだ女をという意味である。

 そのことは一旦、後日の課題にするとして、一時間半ほどのドライブで湘南に着いた私たちは、何をするでもなく、ただ手をつないで砂浜を歩いた。折角だから、江ノ島には渡ってみたが、それもただの散策に終わった。こういう何気ない時間がいいのだ。

 途中、可愛い女の子を連れた親子連れとすれ違った。ほのぼのとした雰囲気がうらやましく思えた。わたしが子供の頃には味わったことのない雰囲気だったからである。

「こんな家庭を築きたい」

 もし、鈴花と結婚できたなら、それが唯一の希望であり、願望であった。


 翌週、私は土曜日であるにもかかわらず、ジャケットにネクタイを着用し、今まで感じたことのない緊張感に包まれていた。

 そう、今日は鈴花の実家に挨拶に行くのである。

 鈴花は先日の湘南デートの後、家に帰ってから両親に全てを話したという。昨日も嘘をついて私の部屋に来ていたこと。プロポーズはまだだが、いずれは将来のことを考えていることなどを。

 鈴花の父親は加工食品のメーカーに勤めており、近年は東京の本社勤めになっているらしい。母親は専業主婦だが、近くのスーパーにパート勤めに出るのが最近の趣味らしい。

 待ち合わせは船橋駅に正午。本日のイベントは、お家で家庭料理をご馳走しましょう。というのがコンセプトらしい。

「結婚の報告じゃないんだから、普段着で来てね」

 鈴花はそう言ったものの、やはりそういうわけにもいくまい。とは言え、顔合わせだけなのだからビッシリ過ぎるのも堅苦しい。というわけで、割とカジュアルなシャツに細めのタイを引っ提げ、初秋らしい軽めのジャケットを羽織ったスタイルにまとめたのである。

 我ながら精一杯のおめかしでだった。第一印象が悪いと、その後の応対にも支障をきたしかねないし、何より鈴花の評価も下がるかもしれない。ここは身だしなみには奮発すべきところなのである。そういう意気込みだった。


 船橋駅には鈴花が一人で迎えに来た。道中、注意事項などを聞かされるのかと思いきや、

「今日はいつもよりキメてるじゃない。普段着でいいって言ったのに。ウチのお父さん、短パンで待ってるわよ」

 などと、あくまでもラフなスタイルを予想していたようだ。

「お父さんは、迎える人。ボクはお呼ばれする人。最初が肝心って言うからね。それに、あっ、あそこ」

 私は駅前の洋菓子店を指差した。

「特に、お母様にはこういうお土産が絶対に必要だと思うよ」

 私は鈴花を連れて洋菓子店に入り、お母さんの好みなどを聞きながら、ケーキを六つほど購入した。

 駅からは歩いて十分ぐらいか。お父さんはどんな人だとか、お母さんの苦手なものは何だとか、一応事前情報を仕入れながら歩くのだった。


 家の前で待ち侘びていたのは犬だった。雑種なのか、どことなく柴犬っぽい感じがした。犬は鈴花の姿を見るなり尻尾をグルングルンと振り回し、鈴花の帰りを家族に知らせた。

 玄関を開けると犬があらかじめ知らせていたこともあり、鈴花の母が満面の笑顔で二人を迎え入れた。

「こんにちは。ウチの鈴花がお世話になっています。さあさ、どうぞ中へ」

鈴花の母はなに気兼ねなくリビングへ招き入れた。そこには鈴花の父とおぼしき男がむんずとばかりに鎮座していた。

「ほら、お父さん、鈴花の彼氏がお越しになりましたよ」

 鈴花の父は私の姿を一瞥すると、しばらくは苦虫走った表情だったが、やがて手のひらを返すかのように笑顔に変わった。

「いや、ようこそ。ワシも娘の恋人だと聞いて少しは喝を入れてやろうと思ったが、いやいや、なかなかの好青年じゃないか」

「初めまして、石村です。鈴花さんと交際させていただいてます」

「ほらほら、堅苦しい挨拶はいいから、座って」

 鈴花母が勧めたのは鈴花父の正面で、私の隣に鈴花が座った。

 昼間だというのに、鈴花母は冷蔵庫からビールを取り出してきて、私に勧める。

「少しはいけるんだろ。我が家にとってはめでたい話だ、宴会気分でもいいだろ」

「じゃあ、遠慮なく」

 私は勧められるがままに酌を受けた。鈴花も鈴花母もグラスにいっぱいの花を咲かせて乾杯した。

「今日はね、お母さんと一緒にたくさん作ったの。いっぱい食べてね」

 テーブルの上には唐揚げに肉じゃがに筑前煮にサラダ、それにちらし寿司に餃子まであった。私はこういう家庭料理に憧れていたので、目の前のご馳走に手が震えるほどだった。

「家庭料理ばかりでごめんなさいね。後でピザかなんか取りましょうね」

 鈴花母はそう言ったが、そんなものは一人やもめの食生活で食べ飽きている。

「いや、こんなご馳走は夢のようです。いただいていいですか?」

「どうぞ召し上がれ」

 私は順繰りに箸を伸ばして、この上ない家庭料理を楽しんだ。

「唐揚げと肉じゃがはわたしが作ったのよ。餃子はお母さんと一緒に作ったの」

 鈴花は自慢気に不揃いの餃子を指差した。

「綺麗すぎないのが鈴花風よ」

 などと負け惜しみを言っている。しかし、不揃いの餃子もタマネギが多めの肉じゃがも、どれをとっても美味しかった。

 鈴花父もそんな私の様子を見て安心している。

「石村くん、折角だからウイスキーでも飲まんかね。今日はとっておきのボトルを開けようと思っとったんだ」

「あっ、そんなのもったいないです。普通ので充分です」

「なんだ、ワシに恥をかかせるな」

 そういうと、後ろの戸棚の中から重厚な箱に入ったウイスキーと小ぶりのグラスを二つ取り出した。

 琥珀色の液体がトクトクとグラスに四分の一ほど注がれると、私たちは再びグラスを鳴らした。

 恐らくはスコッチなのだろう。スモーキーな香りとほのかな甘みが味わったことのない芳醇さを感じさせてくれた。

「こんなの飲んだことないですよ」

「いや、いいタイミングで開けられた。コイツも満足してるだろう」

 すでにビールをそこそこ飲んでいたので、ウイスキーの進み具合は遅い。それでも調子づいた鈴花父は、ひっきりなしに琥珀色の液体を注いでくる。

 諸君、いったい、人というのはウイスキーのストレートをどれぐらい飲めるのが普通なのだろうか。鈴花父は何倍飲んでも顔色ひとつ変わらない。それに対して私はどんどん赤ら顔になってくる。

「お父さん、もうそれぐらいにしないと石村さん倒れちゃうわよ」

 鈴花母がブレーキをかけてくれたのだが、時すでに遅し。とうとう私は天井の位置がわからなくなってしまっていた。やがて眠気に襲われ、鈴花父の声が遠くに聞こえるようになった瞬間、私はとうとう座ったままグーグーと寝てしまったようだ。


 気がついた時、私はリビングで横になっていた。隣に鈴花が寄り添うように並んで寝そべっていた。

「うう、寝てしまったな」

 ムックリと起き上がると、鈴花も同じように起き上がった。

「大丈夫?急性アルコール中毒かと思っちゃったわ。でもお父さんが大丈夫だっていうから」

「うん、大丈夫だよ。ちょっと眠かっただけさ」

 それを見ていた鈴花母が、冷たい水の入ったコップを持ってきた。

「大丈夫?ごめんなさいね。お父さん、あんまりうれしくて、つい調子に乗ったみたい。あれからも一人で飲んで、今頃は大いびきかいてるわよ」

 冷たい水で喉を潤した私はふと、壁時計を見上げた。すでに七時を回っていた。

「そろそろおいとましないと」

「なんなら泊まっていってもいいのよ」

 鈴花母はこともなげに言ったが、さすがに初見でそれはないだろう。

「いえ、今日はこれでおいとまします。お父さんによろしくお伝えください」

「じゃあ、わたしが駅まで送って行く」

 鈴花はそう言って玄関までついてきた。

「これからも鈴花をよろしくね」

 鈴花母は笑顔で私たちを見送った。

 駅までの道中、鈴花に今日のことを色々と聞いてみた。

「ご両親の印象はどうだったかな?」

「お父さんにもお母さんにも言われたわ、いい人だから逃しちゃダメよって」

「まずはファーストインプレッション成功といったところかな」

「で?よっくんのご両親にはいつ紹介してくれるの?」

「ボクはね実家とは絶縁した息子だから、もう天涯孤独なんだよ。鈴花のご両親には死んだことにしてもらっても構わないよ」

「そんなんじゃ嫌よ。ちゃんと認められたいもの」

「知らない方がいいんだよ、ウチのことなんて。それより今日はありがとう。また月曜日に会社でね」

 実際、鈴花の存在を父に知られたくなかった。私がどこで何をしていようが勝手と思っているだろうが、出来るだけ生存の気配すら知らせたくはなかったのである。それほどまでに私と父の間柄には深い溝があった。



 鈴花のご両親に挨拶を終えた翌日。その日は朝から雨がじとじと降っていた。どうりで朝から肌寒かったわけだ。この天気が昨日でなくて良かったと思っていた。

 だからというわけではないが、朝からのんびりムードのスタートだった。遅いモーニングはトーストとヨーグルトだけで済ませて、昨日のことを振り返りながらテレビを見ていた。

 コーヒーのおかわりをしようと思ってキッチンに行ったとき、玄関のチャイムが鳴った。

「誰かな?」

 覗き窓を確認すると、そこには鈴花の姿があった。玄関を開けると、

「おはよー。まさかと思うけど、彼女の両親に挨拶行った翌日に別の女を連れ込んでないか確認しにきました」

 とは言いながら、表情はにこやかである。こと、私においては、そんなことはないはずだとタカを括っているのだろう。あにはからんや、確かにそんな気配は微塵もない。

「どうぞご自由にお調べ下さい」

 そう言って鈴花を部屋に招き入れた。

「自分で入ったんだから、あとは自己責任だからね」

 私は鈴花を後ろから羽交締めにし、ポケットにあったハンカチで鼻腔を塞いだ。

「しまった、クロロホルムを忘れてた。悪いけど、そういうつもりで気絶してくれない?」

 私たちは色んなシチュエーションを勝手に選択して遊ぶのが好きだった。

「ううう」

 鈴花も役者な面を見せてくれる。腕の中で力が抜けていく鈴花を玄関に放置したまま、私はリビングに戻り、演技の続きを行う。

「今だマリア、早くここから立ち去れ。例のことは内密に」

 などと一人芝居を打つ。窓を開けて逃げた痕跡をつくり、再び窓を閉める。そしてようやく何事もなかったかのように鈴花を放置したまま、ソファーに腰をおろすのである。

「ねえ、わたしの出番はいつなの?」

 痺れを切らした鈴花は、ムックリと起き上がり、口を尖らせながら私の隣に座る。

「次のタイミングが想定できなくて、考えてるところだった。さあ、どうしようかな。とりあえず押し倒すっていうのはどう?」

「訳わかんない。それよりマリアって誰なの?」

「女スパイの想定だけど」

「どこの女?」

「そこまで考えてなかった」

「本当にいたんじゃないの?」

「いる訳ないじゃない。それよりどうしたの?昨日あれからなんかあったの?」

 小芝居のことよりもそっちの方が気になった。

「へっへー、お母さんがね、お見舞に行ってあげなさいって。もしかしたら女がいるかもよって」

「なんだ、マジな詮索だったのかよ。怖いなあ。で?証拠は掴まれましたか?」

「謎の女はよっくんが逃してしまったのでわかりません。なのでこっちを調査します」

 鈴花は私の股間をむんずと掴み、我が入道の所在を確認した。もちろん所在はあるのだが、外部からの誘導によって呼応するかどうかを確かめたのである。

 我が入道は、久しぶりとなる天女からのお誘いに呼応しないはずもなかった。

「どうしてくれるの?起こしてしまった責任は取ってくれるの?」

 鈴花は返事をしなかったが、代わりに目を瞑った。

 そこから先の衝動はいわゆる恋人同士のなれあいに発展するのであった。


 痺れる快楽には終わりが訪れる。小芝居の後だけに、戯れの中にも多少の演技はつきものだが、迎えるエンディングはおおよそ同じである。

 やがて心地よい倦怠感が訪れ、二人は夢の世界から現実の世界へと引き戻される。

 ひと息つくと、鈴花は私にもたれかかりながら話し始める。

「お母さんがね。石村さんのご両親には挨拶しないのって言うから、なんか事情があるみたいよって言ったの。そうしたら、決めるのはお前だからねって。でもやっぱりわたしとしてはちゃんと認めてもらいたい。どうしてもダメ?」

「ダメだな。鈴花がじゃなくて、ボクがダメなんだ。その理屈で言うと誰を連れて行っても絶対に認めない。そういう人なんだよ」

 私は本当のことを言ったつもりだが、鈴花はまだ半信半疑だった。

「そのことは忘れて。まだボクたちは付き合い始めたばかりじゃないか。もっと楽しい事を考えようよ」

 それは私たちがつきあい始めて一年半ぐらいが経過しようとする頃のことだった。




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