第46話 最終話 我が故郷
帰路、アレックはオンボロ馬車に揺られ、肩や腕をあちこちにぶつけていた。乗り心地はひどいものである。
以前乗っていた立派な馬車は売り払ってしまったので、これは隣国に行くために手配した借りものだった。御者もプロではなく、この馬車の持ち主が、小金目当てに引き受けたというだけ。
車内には竹籠や鎌、縄、萎びた苗などが詰め込まれていて、窮屈で仕方ない。――本職は農家なのだろうか。馬車は事務方が手配したので、アレックは詳しいことを知らないのだが。
御者が何者であるか、それはこの際どうでもいい。仕事を引き受けた時点で、まっとうすべきだというだけで。
王族を乗せるのだから、荷物くらい片しておけばいいものを……そんな苛立ちを覚えたものの、文句を言えるような状況でもなかった。一人旅でお付きの者もいないから、アレックが何か言ってそれに御者が腹を立てた場合、ひどく殴られて放り出されてしまうかもしれない。喧嘩をして、華奢なアレックが勝てるとも思えなかった。こちらが大人になって耐えるしかない。
とはいえ、アレックからすると非常識であっても、御者には御者の言い分もあるのだった。彼は乗客が文句を我慢していると知れば、びっくり仰天したに違いない。
あれだけ運賃を値切っておいて、よくぞ我儘を言えたものだな、と。――後部席には屋根もあり、(簡素ではあるが)四方囲われていて、その上一応イスもついている。感謝されてもいいくらいだった。
国境を越え、やっと故郷のブレデルに戻って来られた。長い旅だったなと御者は考えていた。
片側に森が広がり、反対側は丘になっている。通りは起伏がある上に、道も凸凹していて、揺れがいっそうひどくなっていた。
――ドンドン、と壁を叩かれ、『止めてくれ!』と大声で言われたので、御者はのんびりした手さばきで馬車を停めた。
後部席のドアが開き、乗客が外套を掻き合わせるように背を丸め、よろけながら出て来る。そのまま振り返らずに森の中に入って行くさまを眺め、御者はやれやれとため息を吐いていた。かぶっていたハンチング帽を脱ぎ、ぼうっと空を眺める。
――アレックは震える足を踏みしめ、木々のあいだを進んで行った。
気持ちが悪かった。幹に手を当て、跪く。胃の中のものを吐き出した。饐えたような臭いが鼻をつき、涙が滲む。えづきながらさらに吐いた。数分、そんなことを繰り返し、やっと出すものもなくなったようだ。
やがて立ち上がったアレックは表情を失っていた。喜怒哀楽、全てが抜け落ちてしまったかのように。
彼は方角を見失ったかのように蛇行しながら森の中を彷徨った。そして枝ぶりの良い木を見つけると、その根元で立ち止まり、静かにそれを見上げた。
外套の下に手を入れ、脇の下に挟んでいたものを引っ張り出す。――それは一本の『縄』だった。馬車を出る時に持ち出してきた。積荷の中、竹籠のそばに置いてあったもの。
アレックは枝めがけて縄の端を投げ、何度も根気強く挑戦して、それを渡すことに成功した。作業中はここ最近で一番落ち着きを取り戻していたかもしれない。彼は縄を握りながら、丁寧に結び目を作っていった。
――御者席に残っていた農夫は、体の向きを変えたり、足を揉んだり、伸びをしたりして時間を潰していた。
五分たち、十分たっても、客はまだ戻らない。それからさらに数分が経過し、御者は乗客が消えて行った暗い森のほうを眺めた。
仕方がない、探しに行くか……彼は脱いでいたハンチング帽をかぶり直し、腰を浮かそうとした。
しかしそこで彼は、ゼンマイが切れたかのようにピタリと動きを止めてしまった。運賃を値切られた件が頭をよぎったためだ。
もう一度暗い森のほうを見遣る。――彼が考え込んだのはほんの一瞬のことだった。
やがて身じろぎした彼は、落ち着き払った様子で元の位置に腰を据え直し、帽子のツバを指でいじり、ふっと息を吐いた。
鞭を取り、馬の尻を叩く。
パカ、パカ……蹄の音を立てながら、景色が後ろに流れ始める。後部座席が軽くなったぶん、馬は少し機嫌が良くなったように見えた。
やがて森の端を越え、一気に見晴らしが良くなる。
空は晴れ渡っていた。白い雲が綿のように浮かび、のどかに風で流されていく。
農夫は鼻歌を口ずさみ始めた。昔からブレデルに伝わる『おお、我が故郷』という民謡を。
――今現在ブレデル国が重大な問題を抱えていようが、先行きが暗かろうが、そんなことは関係ない。どこか遠くへ逃げ出してしまおうとも思わない。
彼にとってはブレデルこそが『我が故郷』であり、帰るべき場所なのだ。
農夫の歌声は呑気に響き、爽やかな風が道端の黄色い花を揺らしていた。
***
嫌われ聖女は嘘がつけない ~国外追放されましたが、私は隣国で幸せに暮らします~(終)
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