第43話 アレック、パトリシアと面会する①


 謁見の間に通されたアレックは、久しぶりにパトリシアと対面することとなった。


 一呼吸目、彼女は少し緊張している素振りを見せた。すると隣で彼女を見守っていたクロード殿下が、自然な動作で手を伸ばし、パトリシアの手の甲を上から包み込んだ。


 クロード殿下から気遣われたことで、パトリシアの纏う空気がふわりと緩む。彼女は一時、面倒事を全て忘れたかのように、隣にいるクロード殿下を見つめ返していた。体全体から、感謝と愛情を滲ませながら。


 ……これがあのパトリシアか? アレックはしばし呆気に取られていた。まず表情が柔らかい。彼女がクロード殿下の隣で安心しきっているのが、端から見てもよく分かる。


 アレックはずっとこう思い込んでいた――聖泉礼拝云々は置いておき、パトリシアには欠陥があり、笑うことができないのだと。


 婚約破棄と国外追放を言い渡したあの席で、彼はパトリシアの淡い笑みを目の当たりにしているのだが、それだって『もしかして笑んでいるのか?』というくらいの、僅かな変化だった。


 ところがどうだろう。今のパトリシアと昔のパトリシアがまるで結びつかない。顔形は同じであるはずなのに、別人のように見えた。


 彼女は隣にいるクロード殿下と視線が絡んだだけで、自然と笑みを浮かべている。それも場違いで下品な笑い方ではなく、心の中の温かみが自然と漏れ出てしまったという様子である。


 彼女は幸せなのだな――不意にアレックはそれを悟った。そしてそのことに、雷に打たれたかのような衝撃を覚えた。


 このところアレックが味わってきた苦渋は、神経を苛み、自尊心を削り続けてきたけれども、劇的に彼の本質を変えるまでのことはなかった。けれどパトリシアがほかの男と笑みを交わしている光景を目の当たりにした今、全てが崩れようとしている。


 アレックは打ちのめされていた。知りたくなかった。国が荒れていること、全てを失いつつあること――それらのことよりも、パトリシアがほかの男を愛していることのほうが、よほどショックだった。アレックは心臓に杭を刺されたかのような苦痛を味わっていた。


 もう欺瞞も通用しそうにない。


 アレックは自分がとんでもない間違いを犯したのだと悟った。ああ、そうだ――ロザリーを選んだのは、自分のミスだ。パトリシアを大切に扱わなかったのは、自分が愚かだったから。そしてそのツケを今、払わされている。


 今自分が身に纏っている、この惨めな衣装! この風体を、パトリシアに見られている――そのことがとても恥ずかしく感じられた。


 アレックは持っていた贅沢な衣装を全て売り払ってしまったので、他国を訪問するというのに、みすぼらしい服を身に纏うしかなかった。髪に艶もなくなり、顔色も悪い。この短期間で一気に二十も年を食ったかのようだ。


 そしてこの、アストリュック国の壮大さといったら! ここへ来てみて、いかに自分が世間知らずであったかを思い知らされた彼である。


 ――今いる第四王子の離宮ですら、自国ブレデルの王宮を遥かに凌駕していた。ここには洗練された上流の空気があった。建築物の壮麗さ、調度類の趣味の良さ、プロフェッショナルな使用人、全てがブレデルのそれとは比較にならない。


 そしてクロード殿下に関しては、もうなんというか……正直なところ、端正な彼の姿を視界に入れることすら苦痛なくらいだった。


 これはたぶんクロード殿下がブレデルに初めてやって来たあの日、初対面の時から感じていたことではあるけれど、アレックはずっと現実から目を逸らし続けていたのだ。出会う前に勝手に想像していたクロード殿下――彼が思い描いていたそのままの低俗な人間だったなら、どんなに良かったか。けれど実際はまるで違った。――まるで違ったのだ。


 けれどその一方で、アレックはパトリシアと会えて、どうしようもない喜びを感じていた。


 彼女の瞳に自分の姿が映っている――こうして対面していれば、パトリシアも、アレックと向き合わざるをえない。


 五年、婚約者として過ごしたのだ。これをきっかけに、こちらへの恋心が蘇るということはないだろうか? ねぇ、パトリシア――かつては愛してくれていただろう? 君に冷たくしたのは、大きなあやまちだった。それは認める。だけどこれからはきっと大事にするから。優しい君は許してくれるだろう?


 アレックは彼女に縋りたい一心だった。パトリシアに対する熱い気持ちが、彼のみじめさを一時忘れさせてくれる。


「――パトリシア、会いたかった」


 アレックが切々とそう訴えると、場の空気が一気に凍りついた。彼の振舞いは常軌を逸していた。街角でかつての恋人に再会したような気安い物言いである。――ところが本人だけが、その場違い感に気づいていない。


「パトリシア、僕が話そうか」


 クロード殿下が小声で彼女に尋ねる。けれどパトリシアは意志を込め、愛する人を見遣った。


「いいえ、大丈夫」


 ――クロードは彼女の意志を尊重し、口を閉ざすことにした。


 今回、アレック殿下から訪問したい旨連絡が届き、クロードはどうしたものかと悩んだ。断ってしまっても問題はなかったのだが、パトリシアのためにどうするのが最善だろうか、という迷いもあって。


 クロードと出会って以来、パトリシアは幸せに暮らしてくれていると思う。けれど心に深い傷が残っているのは確かで、クロードはそのことが気にかかっていた。


 彼女は長いあいだ理不尽に虐げられてきた。悲しい思いをしてきた。その傷はクロードが愛を注ぐことで、やがては段々と薄れゆくものかもしれないが、それでも完全に消えてなくなるわけではない。


 他者から常に監視され、一挙手一投足を批判される日々――彼女がされてきたことを想像するだけで胸が痛む。相手が同じ身分なら、思い切って反撃するという手もあっただろう。しかしパトリシアを攻撃していた相手は王族で、両者のあいだには明確な身分差があったから、彼女は逆らうことができなかった。彼女はあまりに多くの言葉を呑み込み続けてきた。


 そのことがパトリシアをよりひどく傷つけたのではないだろうか。同じように嫌な出来事に見舞われたとしても、その過程でもっと自由に気持ちを吐き出す機会があったならば、ここまでのダメージを受けなかったのではないかとクロードは思う。


 だからもしも、彼女の無念が晴れるようなチャンスが巡ってきたならば、それを逃すべきではないという気がした。


 つらさは伴うだろうが、勇気をもって元凶に立ち向かうことができたなら、彼女にとってはプラスに働くのではないか。


 けれどそれはあくまで、彼女にその余裕があればの話である。無理をする必要はない。全てはパトリシア次第だ。


 そんな思いがあり、アレック殿下からの打診を、パトリシアに隠すことなく伝えた。――彼女は『少し考えさせて』と言い、一晩考えたあとで、『会ってみようと思う』と告げてきた。クロードは了承し、彼女を見守ることにした。


 ――パトリシアを愛している。彼女のためになるならば、自分にできることは、なんでも協力しよう。


 たとえ今回、期待していた結果が得られなかったとしても、それはそれでいいのだ。一歩踏み出そうとしてくれた彼女を誇りに思うし、トライしてだめだったとしても、初めの勇気ある決定が無駄になるわけではない。


 会談前、パトリシアはクロードに、


『アレック殿下は私個人に話があるのだと思う。――話を聞いてみて、自分の考えを伝えてみるわ』


 と言っていた。


 そうできるといいと、心から願っている。ただ、状況はよく見極める必要はあるだろう。クロードは、少しでもパトリシアが無理そうだと感じたら、すぐに割って入るつもりでいた。


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