第22話 グレース王太后


 ブレデル国には奇妙極まりない、不可思議な伝統がある。


 それは一代置きに『笑わぬ王妃』が現れるというものだ。



***



 規則的にきっちり一代置きというわけでもないのだが、周期はおおむねそんな感じだった。


 パトリシアがアレック殿下の妃となっていたなら、彼女もまた将来的に『笑わぬ王妃』と呼ばれたことだろう。


 そして一代前の『笑わぬ王妃』は、アレック殿下の祖母に当たる、グレース王太后殿下である。齢、六十。彼女はここ五年ほど、寝室から出ることも滅多になくなっていた。


 グレース王太后殿下はパトリシアのことを昔から可愛がっていた。――自身の健康状態のせいで、聖泉礼拝の儀式を、まだ王族に加入してもいない十代の少女に丸投げしているという負い目もあったからだ。



***



 パーティー会場をあとにしたパトリシアは、王太后殿下の寝室を訪ねた。ベッド横のスツールに腰を下ろし、王太后の顔を見つめた途端、パトリシアは泣き出してしまった。


 パトリシアは涙をこぼしながら、今夜の出来事を話した。アレック殿下にされた仕打ちのほかに、会場の全員が敵のように見えたことについても。あまりにつらく、自分一人の胸にしまっておくのは無理だった。


 王太后はパトリシアの髪を優しく撫でながら話に耳を傾けていたのだが、彼女の話が終わると、


「……よくないことが起こっているわね」


 と瞳を曇らせた。


 王太后からすると、聖泉礼拝を担っているパトリシアのことを、アレックやその他大勢が、小馬鹿にして軽く扱ったことが信じられなかった。王太后もまた、パトリシアの話にショックを受けていた。


 このところパトリシアに関して、貴族社会で悪い噂が出回り始めていることは、グレース王太后も把握している。――確かにパトリシアは笑うことがあまりない娘だが、以前はこんなふうに厄介者扱いされてはいなかったはずなのに。


 王太后は(クロエ王妃のほかに)ロザリーという少女が裏で糸を引いているらしいと考えていたのだが、この状況はそれだけでは説明がつかなかった。一個人の悪意というよりも、皆が『誰でもいいから人を傷つけたい』という欲望を持っていて、運悪くそれに選ばれてしまったのが、パトリシアだったのではないだろうか。そして大勢の欲望どおりにことが進んでいる。


 きっかけは王太子が婚約者である彼女を疎み出したことだろう。彼が陰で苦言を呈し始めたため、皆が『この女はそう扱われて当然の存在なのだ』と考えるようになった。その結果パトリシアに向けられるようになった、嘲笑、悪意。


 不思議なもので、一度否定的な見方を始めてしまえば、彼女のやることなすこと、悪く見えてくるものらしい。『あのツンケンした態度を見たか? そら、やはり陰険でしみったれた女じゃないか!』――一部の者は、段々と悪口を言うことに快感を覚え始める。


 つまらない出来事であっても、大袈裟に騒ぎ立て、あとで何度も蒸し返す。しつこく、しつこく。何度も、何度も。


 人々は段々と、『あの女は陰険でなければならない。だって皆がそう言っているから』という思考になっていく。そのため必死でそれに当てはまるところを探すだろう。しかし欠点がなければないで、問題はないのだった。こじつけ、でっち上げてしまえばよい。それは壁のシミを見て、『悪霊の姿だ』と言い張るのと同じことだった。


「あなたは務めを果たしているだけよ」


 王太后が年若いパトリシアを慰める。――聖泉礼拝を行う者は、日常生活の、いついかなる時であっても、嘘をついてはならない。清廉さを求められる。


 正直であらねばならないことで、周囲との軋轢が増し、儀式に携わることとなった歴代の王妃は、皆陰気になっていった。


 一代置きにそうなるのは、聖泉礼拝を王妃が死ぬまで務めると、孫の代が成人に達していることが多いので、そちらに義務が移り、あいだ(子の代)が飛ばされるためだった。


 聖泉礼拝は女性のみに限定されるわけではなく、本来ならば、国王陛下もまたその義務を負う。(あくまでも女性がメインで行うが、伴侶もそれに協力し、必要があれば儀式を代われるようにしていた)


 しかし先代の王が早くに亡くなったため、その後の儀式はグレース王太后が一人で行ってきた。それゆえ、『聖泉礼拝は女がやるもの』という誤った認識が浸透してしまった。


 本来、アレック王太子は、率先して儀式に取り組み、パトリシアを助けなければならない立場である。パトリシアはまだ王太子妃ですらないのだから。


 しかしアレックに短慮なところがあり、聖泉礼拝を任せることに不安があったため、グレース王太后はパトリシアに全てを押しつけてしまった。それがそもそもの間違いだった。


 一度そういうルールができ上がると、修正するのが難しくなってくる。


 そしてアレックの思い込みの激しさは、大人になって正されるどころか、年々拍車をかけていったので、厳格なグレース王太后が彼に務めを任せるわけもなかったのだ。彼は十九にもなって、まるで子供のように我慢がきかなかった。


「アレック殿下は、聖泉礼拝の本質をご存知ないのでしょうか? ――結局のところ殿下は、聖泉礼拝のことで腹を立てていらっしゃるのだと思います」


 パトリシアが涙声で尋ねてくるので、グレース王太后は胸を痛めた。もしかしてパトリシアは私を責めているのだろうか……そんなことを思いながら答える。


「嘘が禁じられていることは、教えてはあるのだけれど、彼からすると他人事なのね」


「他人事……」


「以前、あの子にこう言われたわ。――魅力的な人間ならば、嘘をつけないという制約を受けたとしても、地の魅力がストレートに出るだけだから、より人々から愛されるはずだ、と」


 そんな馬鹿な、とパトリシアは思った。


 たとえば相手が礼節を忘れ、無礼な態度を取ってきた場合に、それを微笑みでさらりとかわすのは、社交のテクニックのひとつだ。人はそのように、あらゆるケースで本音を隠しながら、上手く状況をコントロールしている。


 カチンときたからといって、毎度それを指摘したり、態度に出したりすれは、関係はどんどんこじれていってしまう。もちろんいざという時に毅然とした態度を取ることは重要なことではある。しかしケース・バイ・ケースというやつで、とにかく本人に『剛』『柔』どちらの対応を取るのか、選ぶ自由がなければ、そのうちに手詰まりになるだろう。


 時には相手を寛容に許し、『さっきのことは気にしていませんよ』と優しい嘘をつくことも、円滑な関係を築くためには必要だとパトリシアは考えている。


 ところがそういうちょっとした微笑みであっても、本心から『楽しい』と思っていなければ、『嘘』とみなされてしまう。聖泉は人智を超えた存在であるので、一切のごまかしが許されないのだ。


 社交上のテクニックが一切禁じられたとしても、自分なら上手くできると言い切れてしまうアレック殿下。あまりに想像力が欠如してはいないだろうか。自分に自信がありすぎるのか。


 嘘が許されないなら沈黙を守ればよいと言われるかもしれないが、何も話さないというのなら、やはりその場で笑みを見せることも必要にはなってくる。いつも愛想笑いをしている必要もないが、一切それをしないとなると、相手にとんでもない悪印象を与えてしまうことがあるからだ。


 パトリシアからすれば、王太子の『自分なら嘘を禁じられても問題ない』と言い切れてしまう傲慢さは、少し危ういようにも感じられるのだった。


「アレック殿下が聖泉礼拝を上手くできるというのなら、やっていただきたいです。私はもうやりたくない。お務めは後任が決まるまでとさせてください」


 パトリシアはずっとグレース王太后に対して従順だった。だからこれは初めてパトリシアが王太后に反抗した瞬間だった。


「アレックには無理よ、パトリシア」


「だけど私にも無理です、グレース王太后殿下……もう無理です……」


 そのまま力なく泣き崩れるパトリシアを、グレース王太后は沈痛な面持ちで眺めた。彼女のドレスは背中が丸出しで、まるで娼婦のようだ。


 ……この子がここまで追い詰められてしまったのは、私のせいだわ……泣きじゃくる十九歳の少女を見て、グレース王太后は自らのあやまちに気づかされた。


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