第21話 愛している?


 マックスに伝えた『足を痛めている』という断りは、本当のことだった。


 聖泉礼拝を終えたあと、移動中に走って転んだのは、もう一週間以上前のことだろうか。怪我自体は足を軽く捻った程度であったから、その後ちゃんと安静にしていれば、すぐに治っていたと思う。しかしパトリシアは『なるべく歩かず、じっとしている』ことが許される立場になかった。聖泉礼拝を行う義務を負っているからだ。


 ――それならなぜ舞踏会に出席したのか?


 それはアレック殿下のために、頑張るつもりでいたからだ。ダンス一曲くらいなら、かなりキツいけど、我慢すればなんとかなるだろう――パトリシアはそんなふうに考えて、この会場へやって来た。けれどそれはあくまでも婚約者であるアレック殿下のために決めた覚悟なのだ。パトリシアはマックスのために努力するのは無理だと思った。だから正直に足を痛めているのだと伝えた。


 一曲も踊らないことで、パトリシアは皆の笑い者になるだろう。……だけどそれが何? パトリシアは投げやりな気分になっていた。


 どのみちマックスと踊ったところで、名誉が回復することはない。『アレック殿下に義理で踊ることすら拒否された、惨めなパトリシア・カミングス』――その事実は変わらないのだ。それなのにどうしてこれ以上頑張る必要があるのだろうか?


 マックスに握られている手を引っ込めようとしたら、グイ、と予想外に強い抵抗が返ってきた。ハッとして対面のマックスを見上げると、彼は焦れたような、苛立ったような感情をその瞳に乗せ、こちらを睨み据えている。


 パトリシアは困惑しながら、もう一度手を引こうと試みた。けれどやはり放してはもらえない。


 ……なんなの? パトリシアは眉根を寄せる。


「――マックス、どうしたんだ?」


 アレック殿下から声がかかる。マックスはそれで我に返ったらしく、やっとパトリシアの手を放した。


 マックスとパトリシアは声のしたほうに顔を向けた。――アレック殿下はどういう訳か、楽団のそばに移動していた。二十メートルほど距離があるので、マックスは大声で説明するのを止めて、小さく首を横に振ってみせた。


 それだけでアレック殿下には状況が伝わったらしい。彼はなんとなく勝ち誇ったような得意気な顔で、マックスとパトリシアを見遣った。マックスの苦い顔、パトリシアの強張った顔を、順繰りに。


 アレック殿下は楽団に何か指示をしてから、こちらに歩み寄って来た。


 皆がこの成り行きに注目していた。――面白くなってきた――そんなことを思いながら。


 アレック殿下はパトリシアのそばまで来ると、優雅に手のひらを差し出してみせた。


「なかなかの策士だね。これで私が誘わざるをえない」


 パトリシアは『これ以上に惨めな気持ちって、なかなかないわ』と考えていた。結果的にアレック殿下と踊る流れになったわけだが、これは事前に想定していたものとはまるで違う。――最悪だった。これならいっそ、アレック殿下にずっと無視されていたほうがマシだった。


「いえ、あの……」


 許してくださいという意図を込めてアレック殿下を見上げるが、彼は微かに瞳を細めるだけで、引く気配がない。


「踊っていただけますか? パトリシア」


「本当に、あの、足を痛めて……」


 するとアレック殿下がかがみ込むようにして、パトリシアの耳元に口を近づけてきた。いたぶるような、囁き声。


「頼むから、困らせないでくれ。皆が迷惑している。――僕はこれ以上、君を軽蔑したくない」


 パトリシアは血の気を引かせた。頭が真っ白になる。――ほら、と再度促され、パトリシアは震える手を彼の手に重ねていた。なんの覚悟もなく。ただこの状況に流されて。


 皆の視線を強く感じた。まるで千本の針を肌に突きさされたかのようだった。『ああ、やだやだ、頭の悪い女』――そんな彼らの心の声が、はっきりと聞こえた気がした。


 ――ダンス中、アレック殿下はパトリシアの胸元を眺めていた。そして彼女の形の良い耳や、首筋、鎖骨、二の腕も。舐めるような視線で。


 それから彼女の品の良い顔を見つめる。くりんとカールした睫毛だけが、パトリシアらしからぬ親しみやすさを感じさせる。彼女は瞳を伏せているので、あのクールな灰色の虹彩は、この角度では覗き込むことができなかった。それで視線をもう少し下のほうへずらした。


 ふと、彼女のふっくらした薄ピンクの唇に目が留まった。


 衝動が込み上げてくる。アレックは彼女の腰に当てていた手を撫でるように動かし、グッと力を入れた。それによりパトリシアとの距離がさらに近づく。


 綺麗にターンしたあとで、アレックは彼女に囁きかけた。


「――僕を愛している? パトリシア」


 アレックは今夜の出来事に手応えを感じていた。――パトリシアは控え目に振舞ってはいたものの、全身でアレックを求めているように見えた。彼女はアレックにダンスを拒否された時、泣きそうになっていたではないか。あの気丈なパトリシアが、あんな顔を! アレックはあの瞬間、強い満足感を覚えた。そしてマックスを行かせてみたのだが、案の定、パトリシアは誘いを断った。――当然だ! パトリシアがマックスの手を取るはずがない!


 アレックは先程楽団のところに行き、次の曲は通常の半分以下で終わらせるよう指示をしておいた。ダンス中、パトリシアがアレックの期待に応えることができなければ、お仕置きとして、短い一曲のみで終わりだ。周囲にも曲を縮めたアレックの意図が伝わるはずで、パトリシアはかなりの恥をかくことになる。


 逆に、パトリシアがアレックを満足させることができたならば、二曲目もつき合ってやろうじゃないか。


 アレックはパトリシアがここで過去を悔い改め、真摯に愛を乞うならば、許してやるつもりでいた。


 ――愛を乞い、許しを乞い、絶対服従の姿勢を見せろ、パトリシア。そうすれば少し優しくしてやる。全てはお前次第だ。


 アレックは疑いもしなかった。彼女は『お慕いしています! 私のアレック! ロザリーと仲良くしないで!』と縋ってくるに違いない、そう信じていた。


 ところが。


 ――愛しているかを問われたパトリシアは、一拍置き、頬を張られたような衝撃に身を震わせていた。


 これがもしも……アレック殿下がパトリシアとのダンスをマックスに押しつけたりせず、初めから紳士らしく誘ってくれていたなら。


 そして問われた内容が、『私との婚約をどうしたい?』というものだったなら。


 パトリシアは心を込めて、彼に誠意を伝えたはずである。――共に頑張りたい、あなたと仲良くなりたいのだと。


 けれど彼は『愛している?』と尋ねたのだ。


 問われたことで、パトリシアは自分の気持ちに気づいてしまった。


 なんてこと……私、彼を愛していないわ! そして今現在愛していないばかりか、将来的に彼を愛することも、きっとない。はっきりとそれが分かってしまった。


 無理だ。アレック殿下と共に歩むことは、もう無理だわ!


 パトリシアは灰色の瞳を上げ、真っ直ぐにアレック殿下を見上げた。――永久に溶けることのない、氷のような冷たさで。


「いいえ」


 答えを突きつける。


 アレック殿下は呆気に取られたようだった。


「……は……なんだって? パトリシア」


 パトリシアは口を開き、心のままに告げた。それは静かな声音であるが、少し震えてもいた。


「いいえ、殿下。私はあなたを愛しておりません。そして未来永劫、愛することはないでしょう」


 彼女がそう告げたところで、タイミング良く音楽が鳴りやんだ。――呆気ない幕切れだった。



***



 踊るご婦人方のドレスはふわりと広がり、色鮮やかなパラソルを思わせる。


 パトリシアは一人、その輪から外れ、歩き始めた。彼女の足取りはあまり堂々とはしていなかった。歩幅は小さく、小鳥が歩くように、たどたどしかった。表情もどこか心もとなく、少し虚ろに見えた。


 ダンスを見物していたご婦人の一人が、扇で口元を隠しながら、クスクスと誘い笑いを始めた。視線は意地悪く、去り行くパトリシアを眺めている。


 隣のご婦人もそれにならい、クスクス笑う。その隣のご婦人も……という具合に、さざ波のように嘲笑が広がって行った。


 彼女たちは、先程パトリシアとアレック殿下のあいだで交わされた会話の内容を知らない。だからこうして静かに会場を去ろうとしているパトリシアが、惨めな負け犬に見えていた。


 紳士方は苦笑いを浮かべ、やれやれ、と呟きを漏らす。小馬鹿にしたように鼻を鳴らす者もいた。


 パトリシアは誰かに肩を当てられ、よろけた。そこでドッと湧く周囲の笑い声。――パトリシアは構わず進む。また誰かに肩を当てられた。それで会場がまた湧いた。


 ――アレック殿下は舞踏会場の中心で、仁王立ちになり、そんなパトリシアの後ろ姿を睨みつけていた。拳を固く握って。


 やがて大袈裟な動きをしながらロザリーがアレック殿下に近寄って行き、能天気な大声で、『殿下、私と一緒にいてくださいませんと!』と媚びるように彼の腕を引いた。


 パトリシアが去ったあとも、宴は愉快に続いた。


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