第9話 いけないこと


 ――軽蔑以外の視線がパトリシアに向けられている。しかも男性陣からの熱い視線が!


 焦ったロザリーはアレック殿下の上着を可愛くツンツンと引っ張り、とっておきの笑顔を彼に向けて、あざとく小首を傾げてみた。


「あのぉ、殿下? パトリシアお姉様は何か素晴らしいことをなさっているのでしょうか? 私ったら、不勉強で、こうして見ていても、よく分からなくて」


 アレック殿下はハッとしたようにパトリシアから視線を切り、傍らのロザリーを眺めおろした。


「ああ、いや……ただ聖書を朗読しているだけだろう」


「あ、やっぱり、そうですよね? 良かったぁ。私が気づかないだけで、とんでもない奇跡が今まさに起きているのかと」


 ロザリーはここで一旦言葉を切り、アレック殿下に縋るようにして、精一杯背伸びをした。続きは彼の耳元に囁きかけるつもりだった。なぜ小声で話すことにしたかというと、これから言うことは、前方にいるパトリシアには聞かれないほうがよいと計算したためだ。


 それにこうして近寄れば、アレック殿下の腕に胸の膨らみを押し当てることができるので、効果も増すはず。そんなに大きな胸でもなかったが、押しつけてしまえば同じだとロザリーは考えていた。


「だってね――パトリシアお姉様はいつも私におっしゃるの。『聖泉礼拝で自分はすごいことをしているのだ。グレース王太后に選ばれたのは自分だ。ほかの皆みたいに、呑気になんかしていられない』と、それはそれは誇らしげに。昨日もそんなお話をなさっていましたのよ? パトリシアお姉様からすると、私なんて、なんの価値もない、どんくさい女に見えているのでしょうね。お説教したくなるのも、当然なのかもしれません。――だから私、お勉強させてもらおうと思って。ここへ来れば、何か学べるのではないか、素晴らしいものが見られるのではないかと期待していたんです」


 ロザリーはこう言っているが、パトリシアが聖泉礼拝について、何かを誇らしげに語ったことはなかった。むしろその逆で、パトリシアはこの件であちこちから負の感情を向けられることに心を痛めていたので、話題に出すことすら避けていたのだ。


 ロザリーのしていることは確かに卑怯だった。しかしロザリーにとって、正義など、なんの価値も持たない。出し抜いたほうが勝つ――それは彼女のモットーであり、いつでも優先されるべき考えなのだ。


 ロザリーの囁きかけが功を奏し、アレック殿下はロザリーの忠実な友人であろうとして、怒りの感情を取り戻した。


「私も聖泉礼拝についてはよく知らなかったのだが、こうして見てみると、何も起きやしないのだな。拍子抜けするほど、普通だ。……パトリシアはそんなふうに嫌味な口調で、君に自慢していたというのか? ずいぶん身のほど知らずな大口を叩くじゃないか」


 アレック殿下自身はパトリシアが自慢するのを直接聞いたことはなかったのだが、ロザリーからその件については度々報告を受けていたので、パトリシアの隠された黒い一面についてはよく承知しているつもりだった。


 そしてロザリーからそういったことを聞かされる度、『まったく、パトリシアのように浮ついた人間に、聖なる儀式を仕切って欲しくはないものだ。パトリシアを誰もいさめられないなら、この自分が誤りを正すべきだろう』と考え、『これは王族として抱くべき、当然の怒りである』と、自己を正当化していったのだった。


 本当は、祖母のグレース王太后から聖泉礼拝を任されなかった悔しさが消えることなく根底にあって、『パトリシアがダメ人間ならいいのに』というのを無意識に期待してしまっているから、それに合致する情報をもたらしてくれる人間が現れると、心強い味方を得たような錯覚に囚われていただけなのに。


 しかしその思考パターンはあまりに卑怯であるから、アレック自身はそれに気づかぬふりをして、自分の心を守ってきた。――とにかく問題はパトリシアにある、そう考えることで、面倒事は全て片づくように思えた。


 問題はパトリシアにある。問題はパトリシアにある。問題はパトリシアにある……


 アレックはため息を吐く。どうしたらこの強情な女を教育できるだろう?


 先日は積もりに積もった怒りが溢れ出てしまい、対面でしっかりと叱責してやったのだが、どうやらまるでこりていなかったらしい。年下の従妹であるロザリーに対し、まだそんなことを繰り返しているのかと、腹の底がムカムカしてくる。


 ……とはいえ危ないところだった。


 一心に祈りを捧げるパトリシアの声は澄んでいて、少し頼りなく、なんとなく心動かされるものもあったからだ。それに後ろ姿を眺めていると、なんだか……アレックはそこに考えが向いた途端、かぁっと体の一部が熱くなるような、奇妙な衝動に呑み込まれそうになった。


 そのことが少し気恥ずかしくもあり、いけないことのようにも感じられたので、アレックは無理矢理その感情を押さえつけ、なかったこととして心に蓋をすることにした。


 冷静にならなければ――そこでアレックは、先程ロザリーから報告された『傲慢なパトリシアの言動』を思い出すことで、彼女を嫌いになろうと努めた。


 騙されてはいけない、あれは女狐だ。とんでもない悪女だ。


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