2:勇者を特訓

 翔が空を運ばれていた時、雅はマナーの勉強の真っ最中だった。

 テーブルマナーは元の世界とたいして変わらなかった。フォーク、スプーン、ナイフにナプキン。西洋のコース料理と同じ使い方だ。

 あまりに洗練されているので、恐らく他の召喚者が貴族たちに伝えたんじゃないかと雅は考えていた。

 それよりも問題は礼儀作法だった。

 コース料理は親に連れられて食べたことがあっても、王族に挨拶する機会などあるわけもなく、雅は今体を折り曲げて太股を震わせていた。


「そこで体を起こして優雅に一礼。はい、手と足がバラバラですよ。もう一度!」


 教師のアイラは笑顔でパンパンと手を叩いてやり直しを指示してくる


「足が……限界です」


 雅はスカートをめくってブルブル震える太股を示した。そこにアイラの手に持った鞭が一閃。


「足をそんな風にはだけるなんて淑女にあるまじきはしたなさ!」

「私は淑女ではな――」

「いいえ、今は淑女です。それでなければなりません。はい、もう一度最初から!」


 少し前から始まった剣の訓練の方が優しいと、雅は悲鳴を上げていた。


「パリックスが欲しい……」


 筋肉痛の鎮痛剤を心の底から欲しいと思う雅である。2日前からずっとこんな調子なのでいくら若くても筋肉は酷使に音を上げていた。


「姿勢が出来ていません。ピシッと剣が入ったように背筋を伸ばせば足への負担も少ないはずです」

「そのつもり……です」

「つもりではいけません。完璧にしなければなりません」

「ううっ」


 もう一度正式な淑女のお辞儀をしようとして、雅はついにバランスを崩して倒れてしまった。


「今日はここまでにしましょう」


 ため息をついたアイラは天を仰ぐ。と、窓から空を見て微笑んだ。


「勇者様、ドラゴンが運ばれてきたみたいですよ」

「えっ!」


 アイラの言葉に雅は飛び起き、窓に駆け寄る。苦笑するアイラには気づきもしない。

 開け放った窓の外では2頭のワイバーンが檻を吊り下げて飛んでいるのが見えた。下層の龍舎に降りるため、かなり高度を下げていた。おかげで雅にも檻の中のドラゴンがはっきりと見える。


「……あれは……」


 思わずつぶやいた雅は無意識のうちにポケットに手を当て、中にある物を確かめるように握った。


「きっと勇者様の乗龍でしょうね」

「私の!?」

「まだ聞いていませんでしたか? 勇者様には専用のドラゴンを与えると陛下もおっしゃっていましたよ」

「私のドラゴン……。いつ!?」

「今日、龍舎に入って数日は慣れさせて、それから訓練ですから、10日はかかるでしょう。その間は誰も手を出せません」

「そう……なんだ……」

「ドラゴンも訓練するんですから、勇者様も作法の訓練を頑張ってください」

「わかった。やる」


 これまで以上に気合いの入った表情で振り返った雅を見て、アイラはやっぱり勇者様にはドラゴン味の飴が必要ねと苦笑した。



 やると言ってからの雅の上達はアイラも舌を巻くほどだった。

 ドレスこそ嫌がったが、2日でこの世界の淑女としてどこに出しても大丈夫だと太鼓判を押すレベルに達した。

 最初からこの調子でやれば早く終わったのにとは言わない。これまでの教師人生でムラッ気のある子を教えた経験から、アイラにはわかっていた。課題が進まない時も実際には実になっているし、いきなり花開く時もあるのだと。

 それにしても、この娘は極端だ。元の世界でもこうだったのだろうか。この世界での美意識からすると短すぎる髪をのぞけば、花街でも通じる美貌。同性もうらやむほど綺麗な体格。第1王子が召喚と同時にプロポーズしたという噂も本当だと思える。第2王子まで近づいたという。

 そのうち、傾国の美女、いや傾国の勇者などと言われないように気をつけなければいけない。育て方を間違えないようにしなければ。

 アイラはそう誓った。



 作法が終わった翌日、雅は久しぶりに剣術の訓練に向かった。慣れない筋肉を使ったせいか背筋が痛いし、太股の内側がつらい。汗をかくほど体を動かしたかった。

 廊下を走らないくらいの早足で歩いていると、行く手にシャルートの姿があった。待ちかまえていたのか、雅の姿を見ると流れるように一礼した。


「おや、勇者様。どちらへ?」

「剣術の稽古……です、シャルート殿下」


 ぎこちなく付け足して名前を呼ばれて、シャルートは微笑んだ。


「それはいい。お手合わせさせていただいてもよろしいですか?」

「好きにして」

「では、参りましょう」


 シャルートがさりげなく手を差し出したが、雅は見ようともしないで歩き出す。肩をすくめたシャルートはそれでも楽しそうに雅の後を追った。




 衛兵の訓練場に雅が入ると、一瞬衛兵たちから歓声が上がるが、すぐにトーンダウンしてしまった。後から入ってきたシャルートに気づいたのだ。


「やあ、兄さん」

「シャルートか……」


 シャルートは緊張した空気などどこ吹く風で手を掲げ、クリフォードは苦々しい表情で弟を見た。


「勇者様を抱き込んだのか?」

「いやぁ、優しくハグしてあげようと思ったんだけど、素っ気なくされちゃったよ。兄さんもだろ?」

「俺は何もしていない」

「そう? プロポーズまでしたのに? 雅はなかなか手強いよ。こうでなくちゃ、やり甲斐がないね」


 楽しげに笑うシャルートに背を向け、クリフォードは剣を振り始めた。


「兄さんが剣の稽古なんて珍しいね」

「おまえが訓練場に来る方が珍しいだろ」

「そうかな? う~ん、そうかもね。この前に来たのは4ヶ月前かな」

「俺はこのところ毎日だ」

「そうなの? それは知らなかった。なにかきっかけでもあったのかな?」


 シャルートは何か言いたげな視線を雅に向ける。


「くだらん! 俺は王族の責務を果たしているだけだ」

「へえ、ずいぶん殊勝だね。見直したよ。じゃあ、ボクも雅にいいところを見せようかな」


 シャルートは上着を脱ぐと、それを剣を立てかけてある台に掛けようとした。兵士のひとりが慌てて駆け寄る。


「ああ、いいよ。君の手に触られた方が汚れそうだから」


 にこやかに遮られ、兵士は強ばった表情で列に戻る。


「相変わらずの潔癖症だな」

「兄さんほど庶民との距離が近くないだけですよ」


 クリフォードは一瞬シャルートをにらんだが、すぐに息を吐き出し、雅に視線を転じた。


「勇者よ、俺と手合わせ願いたい」

「兄さん、雅はまだ剣を習って間もないんだよ?」

「戦はいつ始まるかわからんのだ。今かもしれない。身を守るくらい出来なくてどうする」

「だってさ、雅? どうする?」

「やる」


 雅は短く答え、立てかけられた剣を一振りつかむ。


「じゃあ、怪我をしない程度にね」


 面白そうに言うと、シャルートはふたりから少し距離を空けた。

 兵士たちは緊張していたが、一部ではどっちが勝つと思うなどと小声で話し始めていた。


「結構な人気だね、雅は」

「そ、それは、勇者様はここ数日毎日のように我々と稽古してくれてますから」

「それに、あの美しさですし……」

「なるほどね。それには同意するよ」


 雅は剣を構えてクリフォードと対した。

 この世界に来るまで剣など持ったことはなかった。剣道をやっていた友人はいたので、竹刀を持たせてもらったことはある。それだけだ。

 剣を持ったのはこちらに来てから。ほんの10日程前だ。兵士たちからは筋がいいとか褒められたが、ただのお世辞だと雅は思っていた。

 クリフォードなら正確な感想を言ってくれるだろう。何と言っても身分が高い。勇者相手におもねる必要もない。


「どうした? 来ないならこっちから行くぞ」


 剣を持ったまま動かない雅に焦れて、クリフォードが振りかぶった剣を真っ直ぐに落としてきた。雅が期待したとおり、真剣な攻撃だ。

 まずは受ける。

 真正面から受けたせいで甲高い金属音と共にガツンと衝撃が腕を走った。思わず取り落としそうになるほど痺れる。

 やっぱり兵士たちは遠慮していたんだなと雅は納得した。

 さらに攻撃が来て、雅は今度は受け流す。

 まず音が違う。さらに衝撃も少ない。痺れることもない。これが正解か。

 さらに三合四合と剣を受けると、上手い角度がわかってきた。的確に自分にダメージのない受け方で対処していく。学習能力の高い雅ならではだが、見ている兵士たちには信じられない光景だった。


「凄いな、勇者様……」

「この間までオレの剣をかわすので必死だったのに」

「さすが勇者様ってだけあるな」


 雅に対する称賛ばかりで面白くないのはクリフォードである。


「貴様、真剣にやれ!」

「真剣……ですよ?」

「俺の攻撃に合わせているだけではないか!」

「初心者だから」

「俺の攻撃にこんなに余裕でついてこられる初心者などいるかっ!」


 クリフォードは叫びながら振りかぶった剣を雅の頭上に落とす。

 雅が剣をいなそうとした瞬間、クリフォードの剣はその力に逆らわずに右に逸れ、翻って雅の胴を狙った。

 雅は反応出来ずにただ茫然と自分の胴体を狙う刃を見ていたわけではない。自らの剣を持ち替えて胴を庇おうと試みていた。しかし、初めてのことにスピードがついてこなかった。


「そこまで!」


 シャルートの鋭い一声が割って入った瞬間、クリフォードの剣が止まった。雅の剣切先に当たってキンッと軽い音がする。

 雅は緊張の糸が切れたようにその場にくずおれる。かろうじて間に合ったが、止められずに全力で振り切られていればどうなっていたかわからない。最悪、内臓に達する傷を負ったかもしれない。そう思った瞬間、全身の力が抜けたのだ。


「なぜ止める? こいつは間に合っていただろう!?」

「雅は初心者だよ、兄さん。手を見ればわかる。綺麗な手だろ?」


 クリフォードは雅の手をつかむと、手のひらを凝視した。剣を振り続けた者にできる剣ダコなどない。それどころか最近になって剣を持った者特有の血豆が出来ていた。

 唇を噛み、クリフォードは吐き捨てる。


「それで……これか……」

「代わりに僕とやろうよ。子供の頃みたいにね。どう?」

「興が乗らん」


 クリフォードは剣を収めると、駆け去った。


「あれれ、行っちゃった」


 シャルートはがっかりした声を上げて肩をすくめる。


「あの……ありがとう……ございます、シャルート殿下」

「当たり前のことをしただけだよ。今、君に怪我でもされたら困るからね」


 シャルートはそう言って笑うと、脱いだ上着を回収するついでに雅に付け加える。


「じゃあ、僕も引き上げようかな。君は遠慮せずに攻撃に徹した方がいいよ。それが勇者の役割だからさ」

「役割……」

「旗印だよ、戦のね」


 手を掲げてシャルートが去っていくと、兵士たちがはあ~っと長い息を吐き出した。


「生きた心地がしなかったっすよ」

「大丈夫ですか、勇者様?」


 口々に心配した声が雅に向けられる。


「大丈夫」


 そう答えながら、雅は腰の上に鈍い痛みがあるのを感じていた。

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