2:勇者を召喚

 津久野雅は学園の中で浮いていた。浮きすぎて天にまで届き、女神だ天女だなどと崇められていた。

 整った顔立ちに陸上のアスリート。学校の成績も上位。さらに寡黙でクラスメイトとの会話にはほとんど加わらないという神秘性がそういうイメージを作りだしていた。

 実際には何事にも興味を見いだせないため、会話の糸口がつかめないので黙っているだけなのだが、周囲は勝手にイメージを造り上げていく。

 コミュニケーションは難しい。

 雅はふっとため息をつく。

 そうすると、それを見ていたクラスメイトが美人のため息って絵になるなぁだの、あんな人でも悩みがあるんだと勝手な解釈をしてくれる。

 ああ、コミュニケーションってどうやればいいのだろう。

 しかし、話をするにも切り出し方がわからない。それ以前に、雅を前にすると畏まってぎこちない挨拶で逃げてしまう。男女問わずだ。

 私はどこかのお姫様なの?

 声を上げて怒りをぶつけたかったが、雅は感情を表に出すことが苦手だった。怒りどころか哀しみも喜びも上手く表現することができない。笑顔はどうしても無理で、一度鏡の前で練習してみたが、鏡を叩き割りたくなったほどだ。

 ただ、ひとりだけ、雅の本当の顔を見ても何も反応しなかった人がいた。過去形だ。自動車事故で少し前に亡くなった。目立たないクラスメイトだったが、珍しく雅の記憶には残っている。

 もっと話したかったな……。

 雅が他人を意識したのは恐らくあの時が初めてだった。

 しかし、名前が思い出せない。飛ぶとか走るとか言う感じだったと思うんだけど……。

 雅はコミュニケーションの前に他人に興味が持てないという欠点があった。

 思い出そうと考え込んでいると、不意に周囲が明るくなってきた。窓から陽が射し込んだのだろうか。

 クラスメイトが茫然とした顔で雅を見ていた。


「津久野さんが輝いてる……!」

「凄いな。さすが女神だ!」

「そんなこと言ってる場合じゃないよ!」

「津久野さん、それ、大丈夫なの!?」

「逃げた方がいいって!」


 クラスメイトの慌てた声と表情に、雅は少し安堵した。心配されるなんて初めてだったからだ。

 が、自分のおかれた状況がただ事ではないと理解するには時間がなかった。まさか床に複雑な紋様が描かれ、光を放っているとは想像も出来なかった。

 床を見下ろした次の瞬間、雅は名前も知らないクラスメイトの叫びが長く引き伸ばされていくのを聞いた。



「おお! 勇者様が召喚に応じて下されたぞ!」


 次に聞こえたのはしわがれた老人の声と、その後に続く大勢の歓声だった。

 床を見ていた雅は学校のリノリウムの床がいつの間にか石に変わっていることに気づいた。妙な紋様こそあったが、もはや光っていない。

 雅は顔を上げて周囲を見渡した。

 広い。天井が高い。人が多い。


「この方が勇者様か」

「漆黒の髪が輝いているぞ」

「なんと美しい……」


 抑えた声がざわざわと広がっていく。


「知らないところ」


 周囲の姦しい声などどこ吹く風と、周囲を見回した雅はまったく感情のない声でつぶやいた。そして、学校のイスからふいっと立ち上がる。机はない。イスだけだ。

 と、そこに飛び出してきた兵がいた。甲冑の装飾が一目見て他と違うのは身分が高いせいだろう。


「お止めください、王子! 勇者様はまだお立場を――」


 最初に雅に声をかけた老人の慌てた制止も聞かず、王子はヘルメットを脱ぎ、金色の髪に整った顔をさらすと、雅の前で膝をついてスッと右手を差し出す。


「勇者よ、貴女の美しさに胸を打たれました。我が国の第1王子として来訪を歓――」


 王子の名乗りを最後まで聞かず、雅はそのままスタスタと歩き出す。周囲にも何の関心がないのか、石造りの荘厳な柱やステンドグラス、周囲に立つ甲冑姿の兵士にも一瞥すらしない。


「な……なんだ、あれは! この私が膝をついてやったというのに!」


 プライドを傷つけられた王子の怒りに満ちた声などもちろん雅には届かない。


「出口、あそこ?」


 大きな扉を指さし、近くにいた直立不動の兵士に尋ねる。


「あ……は、はい! そうであります!」

「ありがとう」


 雅は短く礼を言うと、そのまま真っ直ぐに扉に向かった。

 その背後を慌てた様子で小走りに駆けてきたのは老人だった。特徴的な形のフードは法衣のようなものか。布地や刺繍の仕立てから明らかに身分が違うのがわかる。


「あ、あの、勇者様?」

「私、そういう名前じゃないから」


 背後を振り返ることもなく、雅は素っ気なく答える。


「で、では、お名前をお聞かせ願いたい」

「知らない人に個人情報を教えるのはよくないから」

「こ……こじんじょうほう……?」


 老人は途方に暮れた顔で唸るしかない。

 その間に雅は扉にたどり着いていた。躊躇なく扉に手をかけ、押し開ける。雅の倍の高さがある扉はギシイと軋みながらも意外なほどあっさりと開いた。

 兵士たちが驚きの声を漏らす中、雅は外に足を踏み出した。まるでどこに向かおうとしているのかわかっているかのような迷いない歩み。しかし、雅は人の多いところから抜け出したいという思いだけで動いていた。

 出た先は建物と建物を結ぶ廊下で、庭園に面している回廊だった。噴水のある大きな庭園には色とりどりの花が咲き誇り、庭木は丁寧に刈り揃えられている。

 しかし、雅の目にはなんの意味も持たなかった。

 不意に陽が陰って空を見上げた雅の足が止まった。上空をなにかが飛んでいた。


「え……」


 絶句して硬直した雅の姿を見てチャンスと思ったのか、追ってきた王子が雅の腕をつかもうとした。そのまま引き戻そうと思ったのだろう。

 が、雅が左手を伸ばして王子の籠手ガントレットをつかんだ。それだけで王子は動きを止めた。


「今見てるから邪魔」


 王子は腕を振り払おうとし、さらには足を踏み込んで雅を押そうとし、最後には逃げようと試みた。しかし、びくとも動かない。

 雅は空を飛ぶ大きな翼を持った生き物に心を奪われていた。

 首が長く、尻尾も長い。そして翼が大きく、優雅に飛ぶ生き物。元の世界にはどう考えてもいるはずのない存在。それが我が物顔に空を飛んでいる。


「翼竜? 頭部が小さいからプテラノドンじゃないし……大きさからすると……。待って、尻尾が太い? あんなの――まさか!?」


 生き物が飛び去ると、雅は身を翻して王子に噛みつかんばかりの勢いで飛びかかった。それまでの何も目に入っていない超然とした態度はどこかにかなぐりすて、目を見開き、興奮した様子で王子の肩をつかんで揺さぶる。王子は殺されると思ったのか、目を剥いて恐怖に引きつる。


「ねえ、教えて! ここってドラゴンがいるの!?」


 雅の目はこれまでの無関心さをかなぐり捨てて、キラキラと輝いていた。


「い、いや、それは、普通に――」

「普通にいるの!? どこにどれくらい!? 種類は!?」


 食ってかからんばかりの圧に王子は腰が退けていた。実際、つかまれた鉄の籠手がギシギシと音を立てて潰されていく恐怖に怯えていた。

 ようやく追いついた老人が雅にもう一度声をかける。


「勇者様、どうか! どうかお話をお聞きください!」

「ゆうしゃ? 違うけど、どういうことか、話を聞く」


 雅の言葉に老人は大きく安堵のため息をついた。雅が手を離した王子はその場に崩れ落ちた。


「お、王子!」

「医術士を呼べ!」


 慌ただしい動きの中、雅は楽しげに空を見上げて笑みを浮かべていた。



「ここは別の世界なんだ」

「ご理解いただけたようで幸いです」


 一通り説明した後、老人――召喚の儀式を主導した魔術長は安堵して大きく吐息をついた。

 このバレンツァ王国は危機的状況にあり、その解決策として異世界からの召喚を行い、それによって雅が来たことを説明した。

 さらに詳しい状況を説明しようとした魔術長だが、雅は首を振って急かす。


「じゃあ、次はドラゴン」


 これまで感心なさ気に聞いていた雅は身を乗り出してきた。


「ドラゴンについて聞かせて」

「あ、はい。しかし、その前に我が国の敵について――」

「ドラゴンについて」


 雅は静かにそう言っただけだが、美少女が無表情のまま感情を込めずに言うと妙な迫力がある。年経た魔術長でさえ逆らえない。


「わ、わかりました。他のことはその後で」


 コホンと咳払いをして魔術長は続ける。


「一般にドラゴンと呼ばれるものは、四つ足に翼を持ったドラゴンを指しますが、後脚と翼を持った軽量のワイバーン、翼がなく地を這う土龍、手足のないワーム、水中に住むサーペントなども含みます」

「さっき飛んでいたのはどっち?」

「方角から考えましてワイバーンかと」

「なるほど。前肢がなかったんだ」

「私にわかるのはそのくらいですので、次に王族について」


 話の方向を変えようとした魔術長だが、雅はそれを遮って尋ねた。


「ドラゴンの専門家はいる?」

「専門家と言えるかどうか……。ドラゴン厩舎の責任者はいますが」

「厩舎? まさか食べる?」


 人でなしと非難するような目つきになった雅に、魔術長は慌てて首を振る。


「この世界ではドラゴンは主に人や荷を運ぶものです」

「ドラゴンに乗れるの?」

「乗れます。優れた兵士は竜騎兵としてドラゴンに乗って戦います。その他、伝令や偵察など様々な用途がございます」

「見たい」

「この世界について講義を受けた後、ドラゴンについてもお教えしましょう。これを知らずにドラゴンを知ることはできません」


 魔術長がそれまでよりも強い口調で一歩も退かないと乾いた唇を引き結ぶ。


「終わったら必ず?」

「お約束します」

「わかった。始めて」


 予想よりもあっさりと同意されて、魔術長はホッとした表情で肩を落として呼気を吐く。

 こうして、雅の詰め込み教育という名の異世界生活が始まった。

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