第176話 閑話 夕焼け
過酷な旅が終わり、祐奈の体力が回復するまで、環境の良いティアニーで暮らしているラング夫妻。
――『そろそろ王都シルヴァースに戻りましょう、エドのご家族にも会いたいし』と度々ラング准将を促してはいるのだが、『君が思っている以上に体は疲れているから、じっくり休むべき』と説得され、中々旅に出るOKをもらえずにいる。
祐奈はよくよく考え、『散歩をたくさんして、ほらもう元気になったよというアピールをしてみよう』作戦を立てた。それでまず「これからは日中、なるべく外を歩こうと思う」と宣言してみたのだが、そうしたらなぜか彼が毎回付き添うのなら構わないという流れになってしまった。
「あのね、エド、歩いている途中で倒れることはないと思うから。もうだいぶ元気なの」
このところ王都から書類が山のように届いているし、ラング准将目当ての来客はひっきりなしだし、彼が忙しいのはよく分かっていたので、これ以上迷惑はかけられないと同伴を辞退してみたのだけれど……。
「心配だから」
ラング准将がこちらを見つめる瞳は穏やかで真摯であるのに、『あ、これ、絶対断れない空気』と悟った祐奈はコクリと喉を鳴らす。
「ええと、でも、カルメリータさんも一緒に行ってくれると思うし」
「だめ」
「どうして?」
「変な輩(やから)にナンパされるかも。攫われたら困る」
「え? いやいやそんな」
ありえない。ありえないから。
「いやいやそんな、じゃないよ、祐奈。屋敷周辺はのどかだけれど、少し下れば観光地だから、今日やって来たばかりの見知らぬ人間も多い。十分に気をつけないと」
「そ、そうね」
「君が攫われたら俺がどうなるか、想像してみて」
「……ちょっと取り乱す?」
正直なところ彼が取り乱しているさまがまったく想像できなかったのだが、愛情深い人であるから、妻の身を案じるあまり、平素にない状態にはなるのかもしれない。この冷静沈着な人が『ちょっと取り乱す』というのは、普通の人が『盛大に取り乱す』のと同意だろう。
「自分を制御できるか分からない。……行き着くところまで行ってしまうかも」
「そうなの?」
行き着くところって、どこ?
「これは君の安全のためでもあるし、ティアニーの安全のためでもあるから」
なんか漠然と怖いな。……私が攫われたら、彼は奪還のためになんだかとんでもない手を打ちそう、と祐奈もやっと深刻さを理解することができた。『これをきっかけにティアニーが地図上から消えちゃった』みたいなことになっても困る。
彼が無関係な人を巻き込むわけがないから、そんなことはありえないのだけれど、怒れるラング准将がどれだけ危険かを考えると、そんなにありえなくもない気がしてくるから不思議。
なんとなく呼吸が浅くなってきた祐奈は、視線を彷徨わせながら早口に告げる。
「ナンパはされないと思うけれど……じゃあ分かった、散歩中は帽子を深くかぶって俯いて歩くから。――普通、顔も見えない相手に声をかけてみようとは思わないでしょう? もうなんていうか隠密作戦中みたいに、誰にも見られないようにそそくさ歩くから」
それでいいよね?
「それでもだめ」
「えー、なんでなの」
「なんでと言われると、そうだな」
ラング准将の瞳が和らいだ。
「――愛してる」
なんというか問答無用だった。気づけば優しくキスをされていて、祐奈はすぐに何も考えられなくなってしまった。
***
――ということがあり、夫に付き添ってもらって、長時間の散歩に出た祐奈。
「……あなたの言うとおりにしておけばよかった。たくさん歩くのはやめておくべきだった」
祐奈は眉尻を下げ、隣にいる彼を見遣った。
町のほうまで出たはいいけれど、歩行時間が四十分を超えたあたりで、急激に疲れが出た。血管の太さが半分以下になって、必要な酸素が全身に行き渡らなくなったみたいな、どうしようもない苦しさ、しんどさを感じた。
……びっくりした。自分で思っていたよりも、まだ体は回復していないのだと気づかされて。
屋敷の敷地内や周辺を少し散策することはあり、その時は平気だったから、こんなことになるとは思ってもみなかった。
ショックでもあった。私、大丈夫なのかな、って。
彼に抱きかかえられて辻馬車に乗せてもらい、丘の上に建つ屋敷まで戻って来た。そのまま室内に入る気分にもなれず、今はテラスにあるベンチに並んで腰を下ろしている。
夕焼けで空が赤く染まっていた。エドが手を絡めてくる。彼の飴色の瞳が赤を反射していて、泣きたいほどに綺麗だった。
「大丈夫だよ」
落ち着いた声音。そう深刻な調子でもなく、それでいて寄り添うように優しい。――『何があってもそばにいるから』――そう励まされた気がした。
祐奈自身はこのところ調子が良かったものだから、てっきり前みたいにたくさん歩けるようになっていると信じ込んでいた。いつも彼は過保護すぎるわ、なんて思ったりもして。
彼は祐奈のそんな気持ちを見抜いていたから、『長旅どころか、長時間の散歩に関しても、たぶんまだ体力的にキツいと思うよ』とは忠告しなかった。――王都シルヴァースへの長旅は健康上の理由で止めたけれど、実は散歩すらも難しい状況だとは、口にしづらかったのかも。
自分が付いていないとナンパが心配、と前に彼が言ったのは、たぶんこうなるのを見越していたからじゃないかな。彼は武道の達人だから、祐奈よりも人の体に詳しくて、まだ無理をしたらいけないっていうのが感覚的に理解できていたに違いない。だけどストレートにそう告げはせず、冗談めかしてあんな言い回しにしたのだろう。
彼が続ける。
「のんびり構えて、日々楽しく過ごしていけばいい。――部下の症例を見てきた経験上なんとなく分かるんだけど、君の状態はあと数か月もすれば、八割方回復するはずだ。その後はゆるやかに良くなっていく。気長に待てば、ほぼ元どおりの状態になる」
「……うん」
「だけどこれだけは覚えておいてほしいんだ――思うとおりにならなくても、『こうあるべき』と自分を追い詰めないほうがいい。完全回復することに無理にこだわる必要はないと思う」
「どうして?」
早く元どおりに、元気になれたほうがいいでしょう? こうしていても体が重いの。今の状態はもう嫌。気合を入れて頑張れば、回復が早まるかも。
「君はこうして生きている。――ありがとう。そばにいてくれて」
エドがあやすように手を引く。祐奈は頑張ってこらえていたけれど、やっぱりだめで涙をポロポロと零した。
嘘を言わないラング准将が、『時がたてば、ほぼ元どおりに回復するよ』と言ってくれた。『けれどそうならなかった場合でも、自分や境遇を責めなくていい』――『生きている、その幸せをまず受け入れて』――そんなメッセージが込められている気がした。
回復の過程で祐奈がもどかしさを感じないように、元どおりにこだわらないほうがいいのだと。
気遣いが身に沁みた。
「私のほうこそ、ありがとう」
とにかく焦るのはだめなんだというのが分かった。少しずつ前に進めばいい。一日一日を大切に。
思い返してみれば、ウトナからローダーに飛ばされたあとは、ひどい状態だった。ちっとも歩けなくて。
でもほら、ちゃんと良くなっている。――だから大丈夫。きっと大丈夫。
「あなたって、私を勇気づける天才ね」
祐奈は冗談めかしてそう言った。泣き笑いのようになってしまったけれど、心は軽くなっていた。
視線を絡めたまま、彼が口角を微かに上げる。
まるで時間が止まったような気がした。彼は淡く笑んでいるのに、なんだか切なさを感じさせるような、不思議な空気を纏っていた。そして少しだけ悪戯な雰囲気もあった。
「君も天才だと思う」
「どんなところが?」
「君は私を幸せにする天才だ。――君と出会うまで、夕焼けがこんなに綺麗だと感じたことはなかったよ」
どこまでも深いところまで連れて行かれそうな、気を惹くような、危うさ。
……本当に、時間が止まったみたい。
だってもう、あなたの瞳から目が離せない。
* * *
閑話 夕焼け(終)
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