第175話 第一部最終回 ラング夫妻の甘い日常
それからまた半月ほどが経過し――
祐奈はほとんど通常の状態に戻っていた。けれどまだラング准将からは旅の許可が下りていない。
退屈しのぎにカルメリータに買って来てもらったゴシップ誌に目を通していた祐奈は、三面に気になる記事を見つけた。
『――世界各地で、怪奇現象が続発――』
興味を引かれて目を通す内に、段々と血の気が引いていった。……これって、もしかして……
ぼんやりと考えを巡らせていると、ラング准将がダイニングに入って来た。
雑誌を隠す間もなく、『あ』と思った時は、もう見られていた。思わず赤面し、すす……と手のひらを誌面上に乗せる。
「別に隠さなくてもいいのに」
彼は傍らに立ち、祐奈の頭を引き寄せ、キスを落とす。
祐奈は身じろぎし、彼の顔を見上げた。
「でも……こういう下世話なものって、エドは嫌いでしょう?」
「そうでもない。下世話な君は可愛いよ。――寝室に連れ込みたくなる」
「嘘」
彼がくすりと笑う。
「まだ学習していないのかな。君が自分を卑下すると、俺は甘やかしたくなるから、結果的に、君は倍恥ずかしい思いをすることになる」
……確かにそうだった。彼はわざとなんじゃないかと思うくらい、こういう時は祐奈が悶えるようなアプローチをしてくる。
だから祐奈は口を閉ざしてておくことにした。
でもなぁ……とやっぱり気になって、記事に目が行ってしまう。
「何か心配事でも?」
「キューブの件で……まずいことになっているかも」
「詳しく話してくれ」
「あの時、キューブの角が欠けて、弾け飛んだようなの。それで――小さな欠片があちこちに散らばって、悪さをしているみたい」
「元々悪いものではなかったはずだが……」
「でも私が圧縮をかけて、膨大な魔力を流し込んだから、変質してしまった」
「――放っておいても構わないと思うが」
ゴシップ誌の内容を流し見して、ラング准将が小さく息を吐く。――『巨大タコの出現』だとか、『喋る猿の正体は』だとか、どれも煽情的な内容で馬鹿げているとしか思えなかった。
「でもあの……やっぱり私のせいでもあるし、キューブの欠片を集める旅に出たほうがいいかな? って。どうせ近々、王都にも戻らないといけないでしょう? そのあとに」
「ここでの、邪魔が入らない新婚生活に未練はないのかな」
寂しそうに言われると、胸がうずくように痛んだ。
どうしよう……デリカシーのないこと、言っちゃったかも……。
「それはその、あなたと過ごせて楽しいけれど」
するとラング准将が小首を傾げてみせた。
「からかっただけだよ。――旅に出るのは構わない。君と一緒に過ごせるし」
「前と同じね。ヴェールが取れただけで」
「ウトナまでの旅も、俺はずっと楽しかった。可愛い君と一緒だったから」
「可愛いって、顔を隠していたでしょ。さすがにその言い草は調子がいいと思うわ」
「心の目があるから、分かるんだ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃない」
「信じない」
可愛げなく突っ撥ねると、彼が陽だまりを思わせるような柔らかな視線でこちらを見つめる。――関係が一段階進んでから、温もりの中に艶っぽさが同程度混ざるようになって、祐奈はますます彼には逆らえないと感じるようになっていた。
「――とりあえず今日は出発しない」
彼にそう言われ、祐奈は素直に尋ねる。
「じゃあ何をするの?」
「……君が困ること」
互いの距離が近付き、口づけを交わす。
クッキーの甘い香りがキッチンのほうから漂ってきた。カルメリータが焼いてくれたのだろう。
「おやつができたみたい」
「だめ。しばらくお預け」
彼に髪を撫でられながら、祐奈は難しいことを考えるのを、とりあえずやめることにした。
あとでしっかり向き合わないといけないとしても、しばらくは彼のことで手一杯になりそうだから……。
ふと気付いた時には、椅子に座っていた状態から、軽々と抱き上げられていた。視点が一気に上がったことと、体が密着したことで彼の体温を感じ、艶めいた触れ合いにドキリとさせられる。
「ずっとこの距離でいたいな」
至近距離でこちらを見おろしながら彼が言うので、
「どうして?」
と笑み交じりに尋ねる。会話をしながらも、祐奈の体は運ばれている。
「――君の瞳に、僕しか映らなくなる」
ロマンチックな台詞にきゅう、と胸が悶え、祐奈は甘えるように彼の首に腕を回していた。
「……私、あなたがそばに居ない時でも、ずっとあなたのことばかり考えているの」
いつになっても全然彼に慣れないし、いつもドキドキする。
「ねぇ、祐奈」
「なぁに?」
「もう聞き飽きてしまっただろうけれど、これだけは言わせて」
言葉の響きは少し悪戯めいて聞こえるのに、アンバーの瞳は切なげに祐奈だけを映していた。
「――愛してる」
……二人きりになると、いつも。
祐奈は与えられるものと同等の愛を返したいと思っているのだが、それが実行できた試しがなかった。なぜかというと、彼から与えられる愛の深さに溺れてしまい、どうしても、どうあっても、敵わないと実感させられるからだ。
パタン、と静かに扉が閉ざされる。
おそらく今日も、祐奈の連敗記録が更新されることだろう。
第一部(終)
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