第167話 永遠にも似た


 本格的に目が霞んできた。でもまだ――まだできる。できる。大丈夫。


 アニエルカの激励を思い出せば、心が震えた。――皆、苦しい状況で戦っている。自分が先に折れるわけにはいかない。諦めるな。これまで旅をして来た。つらいことも乗り越えて来たでしょう?


 ――私はできる。


 祐奈はポケットに手を入れ、震える手で聖具キューブを取り出した。それを中空に放り投げる。魔力濃度が高い状態にあるので、神秘の聖具キューブは、そのまま浮遊した状態を維持した。


 祐奈は両手を高く上げ、手のひらを互いに向き合わせた。


『――複数魔法同時行使――』


 リミット解除。


 祐奈もアンと同じく、次に全てを賭けることにした。


 どのみち魔力はもう半分も残っていない。


 今自分にできることを、全力で。


『――雷雪(らいせつ)――』


 呪文を唱える声は美しく、凛として響いた。


 ――この時、エドワード・ラング准将は圧倒されるような心地で空を仰ぎ見ていた。墨を落としたような闇が、ヴェールのようにたゆたいながら空を覆い尽くして行く。


 天地創造を眺めているかのような、幻想的な光景だった。


 無数に散らばった雪の欠片のあいだを、微弱な電気がとてつもない速さで反射して行く。弾かれるほどに速度が上がり、金色の尾を引き、次第に力を蓄えていく。


 祐奈はイメージしたものを出力する能力に長けている。それはアンにはないものだった。魔力を微調整し、電気の流れを速める。速度なら上げられる。もっと。もっと。


 上空を滞留していたエネルギーが、意志を持ったかのように巡回を始め、雷雪に吸収されていった。乱反射を繰り返し、強い輝きを放つ。


 通常の雷よりも強靭で、凶悪で、眩暈がするほど綺麗だとラングは思った。


 雷雪はまだ成長を続けていた。しかしエネルギーがあまりに高まりすぎている。そのまま滞空状態を維持するのはそろそろ限界のようだった。


 とうとう雷雪の一部――端のほうが焦れたように尾を伸ばし、空を引き裂きながら、天から地へと眩い光の軌跡を描いて落ちて来た。それはアンたちがいる東屋の屋根を直撃した。


 聖典が強固に護っているはずの東屋にヒビが入り、余波のように時空が軋む。


 しかし敵はなんとかしのぎ切った。――アンが、ではない。聖典の意地が、これを持ちこたえさせたのである。



***



 アンは渾身の攻撃魔法を練り上げていった。


 彼女は魔法習得時、初めから聖典により理想形を知らされていた。そのため設計図に従ってパーツを集めて行った。魔法理論も何も知らず、ただ闇雲に進んで来た祐奈とは違い、アンは聖典のバックアップを受けて、系統立てて組み立てていくことができたのである。


 アンは炎の攻撃魔法をメインに据えながら、補助的な役割の魔法をいくつか取り込むことで、理想の形を作り上げた。これまでに習得してきたのは、体内の魔力循環を強制的に好転させるものや、炎を強める役割を果たす風の魔法であった。


 それらをスイッチして放出しながら、アンは最果ての地ウトナで、上空に大炎獄を完成させた。



***



 祐奈は雷雪の尻尾部分を切り捨てたものの、まだ本体部分は上空高くに維持させてあった。放電はまだ続いている。


 膨張していた雷雪を器用にコントロールし、薄くシート状に伸ばしていく。平面的になったそれを、九十度展開させ――縦の向きに変えた。すると雷雪がとばりのように下りてきた。オーロラをさらにゴージャスにライトアップさせたかのような光景だった。


 アンの放った炎龍が凶悪な牙をもたげてこちらに降下してきた。祐奈は側面からそれに雷雪を押し当て、柔軟に包み込んだ。


 実は氷の魔法習得時に、それ自体に柔軟性を与えておいたのだ。しなるように、包み込むように力を逃せば、少ない魔力消費で対抗できる。


 ネット状にしなり、網でからめとるようにして絞りをかけていく。しかし敵もさるもので、圧倒的なパワーで炎龍をねじ込んで来る。


 祐奈はさらに別の魔法を練り上げ始めた。複数魔法同時行使でリミットは解除されている。


『――圧縮――』


 祐奈の切り札は圧縮魔法だった。……実はこの魔法が一番好きかもしれない。なんといっても現象がユニークだ。祐奈は危なげなくそれを展開させた。


 雷雪はこの段階でほぼ完成に近づいているように見えた。では圧縮をかけてどうするのか?


 祐奈はじょうごのイメージを思い描いていた。細口の瓶に液体を流し入れる時に使う、ラッパの吹き出し口のような形状をした器具。


 祐奈の頭上には、先ほど彼女がポケットから取り出して投げておいた、この世界でもっとも神秘的な聖具キューブが中空に浮かんでいる。


 漆黒の美しいそれは、緩やかに回転を続けていた。魔力に煽られて動くそのさまは、風見鶏のように気まぐれだった。


 アンの凶悪な炎を、柔軟性のある雷雪のネットでくるみ、ねじるようにしながら、最下部に圧縮をかけていく。それをキューブの頂点に突っ込むようにして、エネルギーを中に流し込んでいった。圧縮をかけられた雷雪のネットが、じょうごのような役割を果たし、膨張したエネルギーを収縮させ、狭いキューブの入口を上手く通過させる。


 何万桁の計算をさせられているかのような、途方もない、高度な作業だった。たった一つのミスも許されない。


 しかし祐奈は感覚的に正しいやり方を理解していた。


 できる。大丈夫。


 さらにもう一段階圧縮度を高める。キューブ上空に発生した高エネルギーの塊が、キューブ本体に迫り、端と端が融合した。


 さらに魔法をもう一つ展開。


『――回復――』


 それはすなわち繰り返しを意味する。圧縮、その作業を繰り返す、圧縮、圧縮、圧縮、圧縮――……


 炎を内包した雷雪が、極限まで圧縮されつつあった。


 それはブラックホールに極めてよく似ていた。圧縮点はキューブとの境目に位置していたので、星を崩壊させることはなかった。キューブは高次元の陰のような存在だから、『今、ここ』にあるわけではないからだ。


 圧縮を繰り返す。何百回も、何千回も、何万回も、何億回も――さらに、さらに、もっと、もっと――祐奈の魔力は尽きかけていた。


 もはやここまでか――なにぶんキューブへの入口が狭いので、アンの炎はまだ全て吸収しきれていない。


 制御を失えば、ネットを突き破り、暴れ、全てを呑み込んでしまうだろう。そしてキューブ周辺に発生した高磁場が、祐奈を苛んでいた。


 放出した魔力の澱は本人に戻る。体が泥のように重い。全身の骨が軋む。


 ラング准将が祐奈を抱く腕に力を込めた。


「――祐奈。私を信じますか」


 感覚が希薄になっていく中、彼の声はクリアに響いた。微かに振り返り、彼をもう一度見たいと願った。


 終わりの時が近付いている。視界はほとんど利かなくなっていたけれど、なんとか彼の姿を捉えることができた。


 彼の瞳は凪いだ海を思わせる。穏やかで、その奥に希望が見える。祐奈は深い安らぎを覚え、小さく頷いてみせた。


 彼が囁きを落とした。


「雷雪を解除すると同時に、あなた自身に回復魔法をかけてください。全力で。最後の力が尽きるまで」


 彼が手のひらを差し出してきた。今や首を動かすことも難儀だった。祐奈はぎこちなくそれを眺めおろし――そっと慎重に自らの手を重ねた。


「愛してる――エド」


 舌が上手く回らない。だから思いの丈を込めた愛の告白は、幼い子供が発したかのように不器用に響いた。


 嵐のようなとんでもない状況の中にいても、彼は今この時も平静であり続けた。


「――君と共にゆく。どこまでも」


 終わりの時が迫っていた。けれど彼がいてくれる。消えゆく時も隣に。


 祐奈は攻撃魔法を全て解除した。そして魔力を極限まで絞り出し、回復魔法に全てを注ぎ込んだ。


 もう何も残らなくても構わない。


 自分に。そして彼に。


 世界が白一色に染まる。祐奈は永遠にも似た長い空白の時間を体験した。全てが淡く、儚く――……


 最後の瞬間に、彼に名前を呼ばれた気がした。


 ――祐奈――


 自らが手放した雷雪と、アンから放たれた炎龍、それら全てが敗者に降り注ぎ――虚無に呑み込まれた。


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