第166話 炎龍


 生い茂った木々が陽光を遮り、一気に薄暗くなった。足場の悪い森の中、二人手を取り合って駆け抜けて行く。


 背後の丘陵地から響いて来る怒号。争いの音。


 しかし転ばぬようにすることだけで精一杯で、余計なことは考えられない。祐奈はラング准将に迷惑をかけないよう、懸命に走ることしかできなかった。



***



 森を抜け、視界が開けた。――最果ての地、ウトナ。


 エメラルド色の鮮やかな湖が正面に広がっている。その向こうはトリケラトプスのフリルを思わせるような、あの岩山がそびえている。


 右手に視線を転じると、釣鐘状の屋根を持つ東屋(あずまや)があった。そこにはアン、サンダース、枢機卿、そしてオズボーンの姿もあった。


 ここからは少し距離がある。アンが数歩ほど進み出た気配があった。しかし東屋から出ては来ない。


 祐奈は瞳を細め、気配を辿った。あれは……結界だろうか? あの建物周辺を強固なエネルギーが覆い尽くしている。


 あちらが先に着いたから恩恵を受けているというよりも、聖典がすでにアンを選んでいるため、彼女を受けれた段階で、硬く殻を閉ざしたのだということが祐奈には分かった。


 ――挨拶も抜きだった。アンはせっかちな性分なのだろう。


 彼女が右手を上げる。以前左手につけていた義手は外してしまっているらしく、ドレスの左袖がペシャンと潰れて風にはためいているのが見えた。


「――来ます」


 祐奈も魔力を練り上げながら、傍らにいるラング准将にそう警告した。



***



 青く澄んだ空を背景に、暴力的で慈悲もない圧倒的な魔力が渦巻いていた。


 アンが操っているのは炎というよりも、この星を焼き尽くそうとしているのではないかと訝るくらいの、禍々しい狂気だった。


 空を覆い尽くさんばかりの高熱が、うねり、炎龍のように伸び伸びと舞い、やがてそれが中央に集まって来て、一気に降下し始めた。


 天の裁きだ……祐奈は原始的な恐怖を感じた。


 力の差がありすぎる。現時点で圧倒されているのに、それでいてアンが実力の十分の一も出していないであろうことが伝わり、心を折られそうになる。


『――氷雪(ひょうせつ)――』


 どこまでしのげるか分からない。


 分厚いコンクリート壁を築くように、氷の壁を上空に作り、もう一つ、さらにもう一つ、さらに……と重ね掛けして、上に押し上げていく。気の遠くなるような作業だった。


 重ね掛けに関しては、『氷雪』魔法と『回復』魔法の組み合わせで、もっと楽に展開できれば良かったのだが、それはできないことが既に分かっている。事前に検証してみて、どうにも上手くいかなかったのだ。『回復』魔法は時間の流れを戻すものであるから、矢印の向きを少しいじってループさせるような使い方をしたなら、氷魔法を半永久的に自動で展開できるのではないかと期待したのだけれど、駄目だった。魔法により、組み合わせの相性があるのかもしれない。


 よって、地道に氷雪魔法を作成し続けるしかない。


 もっと、もっと、さらに強く、厚く――そうしているうちに一番上の氷壁に天から降りて来た炎龍の牙が触れた。


 瞬きする間すら持ちこたえられず、幻のように防壁が消し飛ぶ。


 消耗するのは覚悟していたが、これほどとは。――それでも祐奈は防壁を作り続けるしかなかった。諦めた瞬間、死に呑み込まれる。


 生産と消費のスピードが明らかに釣り合っていない。


 炎獄が目と鼻の先まで迫って来ていた。最後の防壁が溶かされる。


 手のひらに全神経を集中し、氷雪魔法を直接叩きつけ、ねじ込む。


「――祐奈」


 戦闘が始まって以来、極大魔法を展開中の祐奈は、目には見えない壁のようなものに囲われてしまっていた。障壁により、魔法行使者には誰も近寄ることができない。いや、近寄れるはずがない――そう祐奈は思っていた。


 ところがラング准将は感覚的に魔法空間を把握できているようで、まるでカーテンのひだでも手繰るように、ふとした呼吸の間を縫って、距離を詰めて来たのだ。


 そのまま彼が手を伸ばし、こちらの体を支えてくれようとしたので、祐奈は捩るようにしてそれを避け、彼に懇願した。


「下がってください、力をコントロールできない! あなたを傷付けてしまう――お願い――」


 しかしこのままではどのみち彼を巻き込んでしまうだろう。アンの極大魔法は周辺一帯を焼き尽くしてしまうはずだ。


 思い切って対処する必要があった。回転扉の中にいつまでも居られないのと一緒だ。タイミングを計って、なんとかして外に出なくては。外に出るというのはつまり、向かってくる炎を弾き飛ばすことだ。


 祐奈は正面から受け止めていた炎を、思い切って斜め横にいなした。


 しかしこれにより一瞬隙を作ってしまった。アンはそれを見逃さない。炎の龍は祐奈の右腕一本を食らい尽くしてから、かき消えた。


 祐奈は自身に回復魔法をかけた。腕があった場所に黒い光が宿り、やがてその色が淡く神々しいものに変わり、ドレスの袖ごと腕が復元されて行く。しかし魔力、体力は回復しない。


 絶叫したくなるほどの痛みが、一拍遅れて知覚され、神経をさいなむ。


 祐奈は全身に滝のような汗をかいていた。



***



 手足に痺れを感じていた。ガクリと膝を折りそうになる。


 まだ始めたばかりだというのに、すでに限界がそこに見え始めている。


 祐奈は霞む瞳で上空を見上げた。


「……すぐに次が来ます」


 言い終るかどうかというところで、先ほどよりもさらに威力を増した炎の龍が、天空から急降下してきた。


 一撃目はなんとか応戦することができたが、もうあのやり方では持ちこたえられそうにない。


 それでも泣き言は言っていられなかった。祐奈は自身を鞭打つように氷の壁を作った。首を真綿で絞められ続けているような苦しさだった。


 祐奈の腰に力強い腕が回される。――ラング准将だ。


 ――いけない、と思った。魔力の揺り返しが来ている。これは薬の副作用のようなもので、本来意図しているものとは違う負の反応がどうしても出てきてしまうのだ。


 極大魔法の行使時は特にそうだ。アンのほうは聖典に下駄を履かせてもらっているようなものだから、余力があり余っていて、揺り返しが来ない程度に力をセーブできているようだ。――それでいてあの威力。


 祐奈のほうは瞬殺されないよう食らいつくしかないから、自身のケアなどはあと回しにせざるを得ない。そして祐奈の体に触れれば、彼にもそれが波及してしまう。


 ――祐奈の場合は自身で魔力を練り上げているので、これでもまだマシなのだ。なんとか順応することができる。


 しかし彼は違う。おそらく気が狂いそうなほどの苦痛に苛まれているはずだった。


「――大丈夫だ、祐奈」


 彼の落ち着いた声音。大丈夫なわけがないのに……。


 彼を巻き込むわけにはいかない。祐奈は自らの状態に初めて気を配った。それで気付いた。――この状態はやはり正しくない。苦痛を感じているということは、最良ではない方法を選んでいるからだ。


 祐奈は彼の安全を第一に考えたことで、冷静さを取り戻すことができた。


 そして――冷静になることと相反するようだが、より感覚的に突き抜けてしまうことで、新たな境地に達することとなった。


 心地良いほうに流されるようにして、コンディションを整える。これは逃げではない。正しい解は、自然で調和された状態の中にこそあるはずだ。


 ――意図して、魔力の一部を自己補修に回した。自身に回復魔法をかけることで、滞っていた循環が始まる。


 無理矢理圧迫して止めていた血液が巡り始めたかのような心地だった。


「それでいい」


 ラング准将が祐奈を背後から抱きかかえたまま、落ち着いた声音でそう励ましてくれる。


 今でもまだ揺り返しは来ているから、彼は自分よりもよほどつらいはずなのに……それはいつもどおり、余裕のあるラング准将で。


 祐奈が大好きなあの声。――心が満たされる。


 ふと思いついて、ごくごく微弱な氷雪魔法を自分自身に向けた。中へ。


 体内で一旦緩和してから、緩やかに外に向けて行く。ラング准将も包み、さらに外へ。内側は心地良い涼やかさ、距離が離れるに従い、どんどん温度が下がっていくというふうに、グラデーションで変化をつける。


 高速で循環する氷雪魔法が、遠心力で外側に膨らみながら、美しく旋回を始めた。


 遠くで迎え撃つのは止めだ。炎が上から迫って来た。こちらを食らい尽くそうとしている。世界が赤く染まった。


 しかし祐奈の周囲を取り巻く氷の渦が、淡い光を放ちながら、凶悪な熱を遠ざけていた。


 加速。――さらにもっと。もっと。もっと。向こうが根負けするまで。


 ラング准将から指示が来た。


「一定間隔で右側に僅かな歪みが生じている。それが発生した瞬間、力を放てば、弾き飛ばせる」


 なぜ彼が目視できているのか分からない。魔法行使者の祐奈ですら、歪みなど知覚できていないというのに。


 しかし祐奈は全面的に彼を信じ、委ねた。


「分かりました。タイミングを教えてください」


 目視確認していると、無意識のうちに躊躇いが生じてズレそうなので、目を閉じてその時を待った。


「――三、二、一、」


 ポン、と軽く腕を叩かれる。祐奈は右に向けて全力で氷雪を押し出した。周囲から圧が急に消し飛んだせいか、耳がおかしくなった。


「成功した」


 彼にそう告げられ、ほっと息を吐く。良かった。なんとか二撃目をしのぐことができた。


 しかしすぐに追撃が来るだろう。大地が啼くようなうねりを感じていた。アンは残量を残さず全て空にするつもりで、魔力を練り上げている。


 膝を折り、屈したくなるほどの圧力を感じた。


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