第165話 誠実に向き合ってきた過去が、今に繋がっている


「来てくれてありがとう、アニエルカ」


 そんなふうに素敵なラング准将から感謝の意を告げられたもので、アニエルカはふふ、と含み笑いを漏らした。そして悪戯に祐奈のほうを流し見て、肘で横腹を突いて来る。


「彼、やっぱり格好良いわね。……あなた、やるじゃない」


「もう、何言っているの」


「精霊から人間になると、好みも若干変化するみたい。でもあたしは、ダーリン一筋だけれどね」


 そういえばアニエルカは元々、不健康で痩せている、暗い感じの男性が好みだった。『ダーリン一筋』と言っているくらいだから、結婚生活は上手くいっているようで、良かった。


 ブロニスラヴァが頭を掻きながら近寄って来る。


「まったく、うちの奥さんはお転婆で言うこと聞きやしないんだから。戦場に出るのはだめだとあれほど言ってきかせたのに、だめだった」


 筋骨隆々なブロニスラヴァであるが、やっぱり彼は『アイダホ州のジャガイモ農家の頼れる長男』というような、純朴な雰囲気があるのだった。


 とはいえ自ら肩に乗せて運んで来たくらいなのだから、だめと言いつつ、アニエルカのことを護れる自信があってのことだろう。


 アニエルカが精霊だった時の名残りで、肩乗せが癖になっているのか、はたまた仲が良いだけなのか、祐奈にはよく分からなかった。とにかくブロニスラヴァがマッチョなので、そういうことをしても絵になる二人なのであるが……。


 アニエルカが微かに顎を上げ、ツンとして言い返す。


「戦場で運がどれだけ大事になるか、分かっているでしょう? あたしは祝福の精霊よ。今は人間になっているけれど、性質はちゃんと残っている。あたしは味方を誰一人として、死なせはしないわよ。だからここに来たの。――大切な人を護るために」


 戦いであるから当然敵はいて、味方は死ななくても、敵は死ぬ。


 しかし大きな濁流の中に放り込まれたも同然の祐奈たちは、綺麗事など言ってはいられないし、歯を食いしばって戦い、生き抜くしかない。


 アニエルカは精霊でありながら、他の誰よりも生き抜こうという逞しさを持っているようだった。


 ――そうこうしているうちに、小屋の陸屋根から、体硬い族のロメロが飛び降り、リスキンドの元へ駆け寄って来た。


「リスキンド殿!」


「おーい、まじで助かったよ」


「あなたが我々にしてくれたことを思えば、恩返しはまだ足りないくらいですよ。ブロニスラヴァ殿から、あなた方のピンチを聞かされまして、こうして助けに来た次第です」


「芸は身を助く、ってほんとだな……」


 リスキンドが感慨深げに謎の呟きを漏らしているのだが、もしかすると『芸』というのは、彼の女遊びのスキルを指しているのだろうか……。


 なんというか他者から見ると変な交流であるのだが、本人たちの絆は固いらしく、こうして遠路をいとわず助けに来てくれたわけだから、人の縁というものはなんとも不思議であるなと祐奈は思った。


 ラング准将がブロニスラヴァに尋ねる。


「味方の総勢は?」


「五百ちょっと」


 力強い族、体硬い族、そしてラング准将の人脈により集まってくれた精鋭部隊――急場にしては五百以上とはよく集まったものだ。しかしそれでも……


「敵は千を超えるが、やれそうか?」


 この問いにはアニエルカが答えた。


「任せておいて。こちらで食い止めるから、あなたたちは決戦の地へ。――祐奈」


「アニエルカ」


「死ぬんじゃないわよ」


「あなたこそ」


 こちらをじっと見つめるアニエルカの眉間には皴の跡がある。モレット大聖堂でずっと顰めつらで過ごしていたので、その時についた跡が残ってしまっているのだろう。


 彼女が改まった調子で告げてきた。


「あなたには現状、色々なものが足りていないかもしれない。魔力も、この状況も、圧倒的にあなたが不利。聖典は向こうを贔屓している。――だけどね、私はこう思うの。あなたには信念があるわ。それが何よりも強みになる。不安になることがあったら、あたしたちがここに助けに現れたことを思い出して。――あなたは地道に、誠実に、親切に、沢山の人に向き合って来た。それが今に繋がっている。各拠点でも、情報収集や移動経路の確保で、ずいぶん協力してくれたのよ。だからこうしてギリギリ間に合うことができた。――あなたは一人じゃない。あなたなら必ずやれる」


 これ以上ない激励だった。祐奈は感極まり、もう一度アニエルカに抱き着いていた。


「ありがとう、アニエルカ」


「ポッパーウェルで、私たちの故郷を護るため、狂信的な連中をなんとか止めようと、すごく頑張ってくれたことも知っているよ。――あなたに神のご加護を」


 アニエルカの呼びかけに応えるように、祐奈の全身が淡く光った。


 名残惜しい気持ちで彼女と離れる。


 リスキンドがラング准将に告げた。


「俺はここに残って戦います」


「あとは頼む」


「任せてください。――祐奈っち」


 彼の瞳がこちらに向く。いつもながらの彼らしく、軽やかであるのに、なんだか深みがあった。


「はい」


「君は生まれて初めて俺にできた、女の子の友達だ」


「初めてなんですか?」


 女の子の友達は、いっぱいいそうなのに……。


「つまり――下心なしで、人として尊敬しているってこと」


 彼が歩み寄って来て、手を差し出してきた。祐奈はリスキンドと初めての握手を交わした。


「――さぁ行こう」


 ラング准将に促され、束の間の穏やかな時間は終わった。



***



 祐奈たちは教会の西壁沿いで話していたので、東側の様子は建物に遮られて目視できない状況だった。


 ラング准将に手を取られて前に飛び出すと、広大な丘陵の東側ではすでに大規模な戦闘が始まっていた。


 ――東から勢い良く騎馬で攻め上がって来る、藍、黒、白を身に纏った騎士たちは勇猛果敢で、遠目にもかなりの手練れであることが見て取れた。それでも敵は二倍の数だ。


 西の端から突破をかけている祐奈たちの周囲を、少数の部隊が囲い、援護してくれる。ブロニスラヴァの仲間や、体硬い族の部隊だ。


 東から足の速い敵が迫っていて、五月雨のように突撃を仕かけて来る。そうされれば食い止める形で、一人抜け、二人抜け……祐奈の周囲から護衛の数が減って行く。


 ブロニスラヴァは凄まじい勢いで敵陣の真っただ中に突っ込んで行った。アニエルカも一緒だ。ブロニスラヴァは少し前にアニエルカを残して行こうとしたのだが、


「――絶対に私は大丈夫。たとえ千の矢が降って来たとしても、私には当たらない」


 と言い張り、夫の側を離れようとしなかった。


 けれどまぁたとえアニエルカが祝福の精霊ではなかったとしても、ブロニスラヴァは相当な手練れなので、彼女を護り切ることもできるだろう。そう思わせるくらい、彼の戦いぶりは凄まじかった。


 リスキンドは味方と連携しながら、指揮官のような役割を話していた。少し前方に斬り込んでいるので、すでに祐奈の側からは離れている。


 ――今、周囲には、ラング准将の他に二名の護衛がついてくれている。森まではあと二百メートルほどある。


 一人が応戦し、抜けた。東から大量の矢が飛んで来る。距離があるので弧を描くように上空から落ちて来るのが見えた。


 ラング准将は目が後ろにも付いているのかと思うほどに、状況を正確に把握していた。ずっと上を仰ぎ見ているわけでもないのに、剣先で鮮やかに矢を払い落としている。


 今は東からの攻めを警戒しているので、祐奈を左に置き、利き手である右手に剣を握っていた。


 ――祐奈は横目で、一本の矢が護衛してくれている青年に当たりそうになっていることに気付いた。それは0コンマ何秒かのあいだに起きた出来事だった。『あ』と思ったのと、魔力が漏れ出たのが同時だった。ほぼ無意識だった。


 ――護衛の頭上に小さな氷壁が作られ、降って来た矢を防いだ。


 ラング准将がチラリとこちらを流し見たので、祐奈は恐縮し、思わず肩を縮こませてしまった。


「……ごめんなさい、無意識です」


 彼は別に叱るつもりもなかったらしく、微かに瞳を細めてから視線を外す。


 祐奈は肝が冷えたような心地だった。あれだけ『魔法を使わない』と約束させられ、自分で腹も括ったつもりだったのに、無意識に出てしまうとは……。


 けれど小さな氷壁でほとんど魔力も消耗していないし、あの青年が助かって良かったとは思った。


 命拾いした青年は、剣で敵を薙ぎ倒しながら、感謝の滲んだ瞳をこちらに向けてきた。――祐奈は小さく頷いてみせ、その後は懸命に走ることだけに集中した。


 二人きり。森はすぐ目の前に迫っている。ゴールは近い。


 ――不意にラング准将が振り返り、剣で矢を叩き落とした。その隙に一人飛び込んで来る。


 ラング准将は半身捻っており、しかも運が悪いことに、突撃を仕かけてきたのは巨漢の兵士だった。この体型で先陣を切る形でここまで迫ってこれたのだ。見かけによらず足も速いのだろうし、運動能力もかなり高いのだろう。この上ない脅威だった。


 矢を落としたことで剣先が下に向いてしまっているラング准将と、万全の体勢で前傾気味に突進してくる敵。


 ――巨漢の兵士が殺気を全開に放ち、獣のような咆哮を上げた。ビリビリと空気が震える。その怒号の迫力に祐奈は恐怖を覚え、意図せず体が固まってしまった。


 しかしラング准将の動きは常人離れした速さだった。おそらくその前の段階――半身捻り矢を迎撃しようとした段階で、敵が死角から接近していることにもちゃんと気付いていたのだ。


 彼は振り返りかけていた勢いを殺さぬまま、左の軸足は残して、滑らかに右回し蹴りを放った。速すぎて祐奈には回転も打撃も目視できなかった。


 気付けば敵が吹っ飛ばされていて、視界から消えている。


「――百年早い」


 ラング准将は仰向けに倒された敵を一瞥してから、ふたたび祐奈の手を取り、森の中にへといざなった。


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