第138話 過ぎ去りし日々/聖女来訪① アリス
四か月前、早川アンはまだ日本にいた。
二十九歳の彼女は美容師として働いていたので、同年齢の事務職の女性と比べれば、ヘアカラーやメイクは派手なほうだった。職場のドレスコードが緩いので、かなりのことをしても叱られないから、好きにさせてもらっていた。
その日は久しぶりの休日で、買いものに出かけた。派手なカラーコンタクトをまとめ買いしたあと、お気に入りのアクセサリーショップに行く前に、トイレに寄ろうとして……ふと顔を上げたら、林道の中に佇んでいることに気付いたのだ。
訳が分からなかったが、アンは現実的な性格をしていた。考えても仕方のないことは、くよくよと考えたりしない。まず行動してみる。
アンが立っていたのは、林の中とはいえ、わりと広い踏み慣らされた通りだった。少し先で道が交差しているのか、右手のほうにいくつかの人影が見えた。三……四人くらい? 木の幹に遮られ、正確なところはよく分からない。
アンは「すみません!」と呼びかけながら、まるで警戒することなくそちらに近寄って行った。日本に住んでいると、歩いていていきなり暴力を振るわれることもなかったから、この時も特に怖いとも思っていなかった。
――数分後、アンは土に背中をつけ、顎を鷲掴みにされていた。着ていた服は今現在、どこまで身に纏えているのか、自分では把握できていなかった。
逆光になった男たちのシルエット。深い木々の陰。湿った土の匂い。
遠い空。曇っていて薄暗かった。あるいはもう夕刻で日が落ちかけているのだろうか? 何も分からない。
蹂躙された。かなり殴られたと思うが、そんなことはどうだっていい。尊厳も何もなく、人間として扱われなかった。とにかくアンに抗う術はなかった。
――長い長い時間が流れた。早く終われと彼女はただそれだけを願った。
男たちの喋る言葉は、初めの一瞬だけ耳慣れない感じがしたのだが、すぐに理解できるようになった。
頭上で交わされる会話は直接的な表現が多かった。アンの体を揶揄するような、頭の悪そうな台詞。
彼らはアンの体を味わい尽くしたあと、左手首に嵌められた腕時計に目を留めた。――スマホがあるからと腕時計をしない人も多いようだが、アンはせっかちな性分ですぐに時間を確認したくなるため、いつも身に着けていたのだ。
『――珍しい腕輪だ。高く売れるんじゃないか?』
日本語ではないどこかの言語で、一人が言う。
『どうやって外すんだ? 金属で、腕にピッタリ嵌っているが』
『分からん。面倒だから、斬っちまうか?』
アンはゾッとした。彼らが何をしようとしているかを悟ったからだ。――アンは懇願した。こんなやつらに媚びるのは業腹だったが、背に腹は代えられない。
「あげる! ――簡単に外せるの、外すから、待って、お願い」
うるせえな、と問答無用で殴られ、一瞬意識が飛んだ。
そして――
ナタを振り上げているシルエットがぼんやりと瞳に映り――アンは絶叫した。離れた場所に、少し前まで自分の体にくっついていたはずの左手首が見えた。それは血に塗れていた。――叫び、泣き、痛みで気が狂いそうになりながら、こいつら全員死んじまえ、と思った。
***
目を覚ますと小屋の中で寝かされていた。
この時は訳が分からなかったのだが、あとで知ったところによると、この場所はこの辺りを根城にしているゴロツキであるサンダースの治める集落だった。
――アンを襲った狼藉者たちは、サンダースとは敵対関係にあるらしい。最近縄張りを荒らされて、サンダースは煮え湯を飲まされていたようだ。そんな経緯もあり、被害に遭ったアンを保護したのかもしれなかった。
サンダースの情婦であるアリスという女が時折顔を見せ、なんだかんだとお喋りしていく。
アリスはなんというか、『今時の女』という感じだった。年齢は二十八だそうだから、もう立派な大人なわけだが、実年齢は関係なく、彼女自身の在り方がそう感じさせたのだ。いつの時代でも『最近の若いやつは』と年上から言われるような、そんなタイプ。
気まぐれで、楽しいことが好きで、掴みどころがなくて。男から軽く扱われることがあっても、意外と逞しい。それでいて根っこの部分には鬱屈したものを抱えていた。
アンは生きるためにアリスに取り入ることにした。あからさまにへりくだったり、お世辞を言ったりということはしなかったが、彼女が喜ぶようなことをしてやった。――もちろん親切心からじゃない。ギブ・アンド・テイクだ。
彼女にメイクを教えてやるかわりに、痛み止めの薬をもらう。
腕の治療はアンからすると適当以外の何ものでもなく、現代日本の医療水準と比べると、雲泥の差があった。切り口を焼いて止血し、強い酒で消毒――あとは本人の治癒力次第といった感じ。
とにかく気が狂いそうなほどに痛む。この痛みをなんとかしないと眠れない。眠れなければ、体が衰弱していくのは分かり切っていた。
アリスが横流ししてくれたのは、元の世界でいうところの大麻のようなものだろうか。それも煙を吸うのではなく、葉を干したものを噛んで呑み込むタイプだった。これが効いている内は、痛みも感じなくなる。
スマホの電池がそろそろ切れる頃だから、最後に写真を見ておくことにした。
これはカバンの中に入っていので、狼藉者に持って行かれずに済んだ。カバン自体が盗まれなかった理由は、やつらと顔を合わせたあと、様子がおかしいことに気付いて逃げていた時間があって、その際に崖の下に荷物を落としてしまったからだ。あとでサンダースの部下が回収し、届けてくれた。
アリスが入って来て、スマートフォンに目を留め、夢中になった。……考えてみれば、それはそうだった。この文明レベルでは、驚異的な代物だろうから。
――アリスはすぐにサンダースを呼びに行った。サンダースはアンを保護したものの、この時まで一切の関心を示していなかったので、顔を出したことすらなかったのだ。
サンダースはスマートフォンを見た瞬間、笑えることに、天啓にうたれたと感じたらしいのだ。彼がアンを眺める視線はうっとりと陶酔しているようだった。
彼はアンのことを『女神だ』と讃えた。
アンは男の扱いを心得ていた。荒くれ者のサンダースは、弟に少し似たところがあったので、それでうまく対処することできたというのもある。
こういうタイプには弱く出てはいけない。最初から上に立つのだ。
初めの関係性がずっとあとあとまで響く。アンは世話になっている身であるが、そういう強弱関係を態度に出してはいけない。
あくまでも『世話をされて当たり前、私にはその価値がある』という顔をする。そうして相手から一目置かせるのだ。
――数時間後、アンは集落の一番上等な客室に移されていた。
例の痛み止めも、倍の量、貢がれた。
アンが『別の世界で生きていた』という身の上話をすると、サンダースが『あなたは神の使いだ』と言い出した。彼は顔役であるので、聖女のお務めのことも、なんとなく知っていたようである。とはいえゴロツキなので、しっかりした情報は得ていなかった。
しかし彼は勉強熱心な男であったので、聖女について情報を集めてくれた。
サンダースから必要な情報が得られるまで少し時間もかかったし、斬られた腕の傷がなんとか回復して(手が生えはしなかったが)、日常生活が送れるようになるまで、結構な日数がかかっていた。
――やがて彼女は決心した。
こんな集落で燻(くす)ぶっていても仕方ない。王都へ行こうではないか、と。
アンはこの世界を憎悪していたから、誰かのためという気持ちはゼロだった。自分のために、そうするのだ。
サンダースに王都に向かう旨伝えると、どこまでもお供しますという返事が来た。アンは恐縮するでもなく、許可するという立場でそれを受け入れた。
アンは賢くも、サンダースとは決して寝なかった。必要ならば寝ても構わなかったが、直接的な接触を許さないほうが、この男を強く引っ張れると計算したためだ。
――王都に行くというので、サンダースの情婦・アリスも一緒について来ることになった。彼女は賑やかなことが大好きなので、都会に行くチャンスを逃すはずもない。
アリスはアンから日本流のメイクや髪のセット方法を学び、以前とは比べものにならないほど洗練されてきていた。
アンは彼女の顔を眺めながら、『日本人に極めて近い骨格だわ』と考えていた。ある意味では、自分よりもよほど日本の女性らしい。アリスの可愛いもの好きなところとか、そういった内面も含めて、そう感じていた。
その夜眠りについたアンは、ある光景を夢で見た。神の啓示か何かだったのだろうか。いまだによく分からない。
龍にまたがり槍を掲げる巨人の像――彫像の躍動感は見事なもので、目を覚ましたあとも頭の中に強い印象を残した。
翌日サンダースに夢で見た内容を話すと、その場所に心当たりがあるという。
現在地はガーナーの東で、このまま南下すると王都シルヴァースに出られる。巨人の像があるのはタンディという町で、そこはシルヴァースの手前に位置するらしい。アンたちは王都に出るため南下するつもりだったので、タンディはちょうど通り道であることが分かった。
ちなみにここから真っ直ぐ西に向かうと、ポッパーウェルという交易上重要な拠点に行き着くらしいのだが、アンはそちらには用がなかった。
数日後――アン、サンダース、アリスの一行は、タンディの中央広場に足を踏み入れていた。
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