第132話 終わりの始まり


「……あのネックレス、今もしているのか?」


 突然話題が変わった。


「え、何?」


「僕があげたネックレスだよ。二人の思い出の品だ」


 これもまた微妙な話題だった。祐奈はただただ困惑してしまう。正直なところ、あまり良い思い出ではない。


 それに『僕があげた』と彼は言ったけれど、正確に言うとあれは、彼の母親――祐奈の伯母のものである。確かに手渡して来たのは陽介なので、そういう表現になったのかもしれなかったが……。


「お祖母(ばあ)様の形見の……」


「そうだ。大切なものだろう?」


『親を亡くして可哀想だから、あげる。お守りとして肌身離さず着けるように』と陽介から言われた。『母からの厚意だから断らないように』と。


 高価なものではあるのは見て分かった。けれどデザイン的に祐奈の好みには合わなくて、とても困った記憶がある。……ただ、そうであっても、大切な人からもらったものなら、きっと愛着が持てたのではないだろうか。けれどあの頃の祐奈にとっては、陽介も、伯母も、心を開けない相手だったから、二人から贈られたあのネックレスが、とにかく重く感じられたものだ。


『いらない』と拒絶することもできなかった。


 陽介は粘着質なところがあるので、祐奈がちゃんとネックレスをしているか、毎日確認してきた。けれど服のデザインに合わない場合も多かったし、とにかく身に着けるのが苦痛で……。


 祐奈にはあれが『首輪』に見えていた。――陽介が祐奈という駄犬を飼いならすための、首輪なのだと。


 当時の祐奈は『ネックレスは服の下に着けている』といつも答えていた。そのせいで襟のある服しか着られなくなって、妙に苛立った記憶がある。


 陽介は先ほど『服を着崩していなかった』と言っていたけれど、それはネックレスのせいなのだ。


 『服の下に着けている』という設定なのに、ネックレスを部屋に置いておくと、陽介はどうしてかそれを嗅ぎ付けて『本当は着けていないだろう』と指摘してきた。――それが面倒で、祐奈はネックレスをスエードの袋に入れ、鞄に入れて持ち歩く癖がついた。


 だからたぶん今も荷物のどこかにあるはず。転移した際に鞄を持っていたから、その中に入っているのではないか。今、陽介に言われるまで、思い出しもしなかったのだが……。


「見せてくれ、服の下のネックレスを。というかヴェールも取れよ。顔を見せろ。こんなまどろっこしいのは、もう沢山だ」


 陽介が苛立った様子で手を伸ばしてきた。


 ――ラング准将は優秀な護衛であるから、そんな安易な接触を許すはずもない。いつの間にかベンチの前に回り込んでいて、祐奈の傍らに佇み、危なげなく陽介の腕を拘束してしまった。


「彼女に触れるな」


 警告は端的で、冷ややかに響いた。


 陽介は対面のベンチに腰を下ろしたまま、上半身を祐奈のほうに乗り出しているような状態で、右腕はラング准将に押さえられている。陽介は怒りを滲ませながら立ち上がろうとして、よろけた。殴られたことで頭がクラクラしていたのかもしれない。


 転ぶ……と思った祐奈が慌てて立ち上がろうとした気配に、ラング准将が気を取られた。この時は祐奈の動きが少々迂闊であったのだろう。慌てて起き上がったので、ラング准将の左肘に勢い良く肩をぶつける形になったのだ。


 ラング准将は大抵のことでは動じないが、祐奈がぶつかってきたので、彼女が怪我をしなかったかと必要以上に案じてしまった。それで陽介から視線を外した。


 立ち上がりかけた陽介はガクリと膝から力が抜けるのを感じた。長いあいだ座っていたせいで上手く踏ん張ることができなかったのだ。


 それでラング准将に拘束されていないほうの左手を伸ばしたところ、運悪く(もしくは運良く?)それが祐奈の体に触れてしまった。場所は胸の膨らみの上だった。フニャリ……と信じられないくらいの柔らかな弾力が返ってくる。


「え……」


 日本に居た頃は、うっかり暴走しないようにと、祐奈への接触を厳しく禁じていたので、おそらくこれが初めて彼女の体にしっかりと触れた瞬間だった。


「わぁ……ちょ……」


 突然胸を触られた祐奈は情けない声を出した。陽介に胸を鷲掴みにされ、よろけるようにふたたびベンチに腰を落とす。


 この出来事が衝撃すぎて視界がぐらぐら揺れた。――とにかく早く手を離して欲しい。事故でこうなったのは明らかであったので、乱暴に振り払うのも躊躇われたのだが、ものすごく嫌だ。


 早く手をどけて……と懇願を込めて陽介を見上げるが、彼のほうは自分の左手と、その下にある祐奈の胸しか見ていない。


 ラング准将が珍しく固まっている。しかしそれも一瞬のことだった。


 全員が等しく同時にフリーズし、そしてすぐに活動を再開した。それもほぼ同時のことだった。


 陽介は手を離そうとはせず、魔が差したかのように、さらに力を込めて祐奈の胸を揉んだ。離さなければ、離さなければ……と思うのに、逆に催眠術にでもかけられたかのように、離れがたくなる。好きな子の胸には魔力が秘められていると彼は感じた。なんと素晴らしい感触なのだろう……


 実はこの時、ラング准将はちょっと洒落にならないレベルでブチ切れていたのだが、彼が何かするよりも、祐奈が防御反応を示すほうがいくぶん速かった。(……ラング准将は陽介の殺し方を百通りほど思い付いてしまったために、選択肢が多すぎて、初動が遅れてしまったのかもしれない……)


 祐奈は鳥肌を立たせ、悲鳴を上げていた。悲鳴を上げている自覚すらなかった。どこか遠くから「きゃああああああああああああああ!」というけたたましい叫びが聞こえるな、と思ったくらい、本人は訳が分かっていなかった。


 ――そして彼女の魔力が暴走した。


 これまで使ったことのなかった『雷撃』の『強』を発動――それは外には展開されずに、合間を縫って断続的に発動させた『圧縮』魔法により、内へ内へと収縮を続けた。その超高密度のエネルギーは、祐奈の膝の上に置いてあったキューブが貪欲に吸収していく。


 キューブは摩訶不思議な聖具である。三次元世界に存在していながら、その在り方は高次元の影のような実体のないものだ。


 祐奈は同時に『回復』――本質的な意味での『繰り返し』を実行した。戻り、別の時間軸を進むいつもの使い方ではなく、完全にループさせる新たな力の使い方だった。


 無限ループ――膨大なエネルギーが圧縮を続けていく。それがキューブへと絶え間なく流れ込む。


 常識ではありえない、いくつかの条件が加わり、次元が歪んだ。凶悪なほどの高エネルギーが移動しているのに、完璧に構成された数式のように、秩序正しく流れて行った。


 空間が軋み、空気の層が歪んだ。歪みながらも激しくブレて、重なる。重ならなければ破綻するからだ。世界はあるべき姿に戻ろうと反発していた。


 ラング准将はそこに深い闇を見た。祐奈を起点に終わりが始まりつつある。彼は祐奈の肩を抱き込み、互いの体が垣根を越えて溶け合うような不思議な感覚に身を委ねた。


 星々が瞬く無限の空間が垣間見えた瞬間――世界に穴が開いた。


 それは陽介の背後に存在していた。暗から明へ。穴がさらに大きくなった。


 ――不意にクラクションの音が響いた。穴は直径三メートル以上もあっただろうか。


 祐奈は呆気に取られて、目の前に出現した青い空を眺めていた。――空の下に存在するのは、どこか懐かしいビル群、看板、通りを行き交う車――こちらの地面と地続きに、アスファルトの道路と、歩道が伸びて――……


 祐奈が魔力の放出を止めても力はすぐには収束しなかった。その残滓は猫の尾のようにしなり、目の前の陽介を弾き飛ばした。――向こう側へ。


 境界を挟んでこちらとあちら――留まった者と、弾かれた者。


 ラング准将は祐奈の体をさらに自身のほうへ引き寄せていた。


 飛ばされた陽介は滑るように背中から歩道に着地し、風に煽られた木の葉のように転がった。


 向こうから歩いて来ていた会社員ふうの女性が目を丸くしている。彼女は地面に蹲っている陽介を見おろし、そして視線を穴のほうに移した。


 祐奈は彼女と目が合った気がした。その女性が目を見開き、何か言おうとして口を開き――


 その瞬間、ホールが閉じた。ブツリと、なんの余韻もなく。


 ――祐奈たちはしばしのあいだ言葉を失っていた。



***



 同時刻、カナン。付近の食堂にて。


 オズボーンは麺をすすっていた。スープタイプのエスニックな料理だ。箸を器用に動かしていた彼は不意に顔を上げ、中空を見据えた。


 彼の瞳は驚愕に見開かれ、完全に虚を衝かれていた。


「馬鹿な……世界に穴が開いた」


 こんなことはありえない。理論的に起こるはずのない現象が起こっている。――キューブと回復魔法の併用では、天地が引っくり返っても、こうなるはずではなかった。


「祐奈、何をしたんだ……?」


 オズボーンは思い切り顔を顰めていた。


 ――あるいは、ラング准将か?


 どのみちこれは望ましい事態ではなかった。今この瞬間を境に、大きくバランスが崩れた。祐奈はついに禁断の扉を開いてしまったのだ。


 こうなってはもう、世界の維持を望む聖典と、破滅をもたらす祐奈との全面戦争だ。決着にはより大きな犠牲が必要となってくる。――祐奈はツケを払わされることになるだろう。


 オズボーンは箸を放り出し、不機嫌な顔付きで考え込んでしまった。





 14.過去との決別(終)


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