第131話 どうでもいい相手
しばらくのあいだギクシャクした空気が流れたのだが、祐奈は心を無にしてやり過ごすことにした。
努めて事務的に陽介に尋ねる。
「その怪我はどうしたのですか?」
陽介の表情があまりに暗いのは怪我のせいかもしれないと祐奈は思った。先ほど怪我について尋ねた時は、『そんなことはどうでもいい』とばかりに流されてしまったのだが、やはり気になる。
陽介からすると日本から転移したことも相当ショックであっただろう。……それでも普通に考えると、異世界で知人に出会えたら、もっと喜びそうなものであるが……。
彼は時間経過と共に、どんどん不機嫌になっていくようだった。
「悪魔にやられた」
陽介の顔が思い切り顰められる。
「悪魔?」
「顔がえらく綺麗なイカレた少年。自分以上のサイコパスに会う機会は滅多にないから、油断した」
『顔がえらく綺麗なイカレた少年』の部分だけで、オズボーンだと祐奈には分かった。冷や汗が出てくる。……あの人、何してくれているんだ……。
「彼は何か言っていました?」
「――祐奈にこれを渡すように、と」
陽介がポケットから黒いキューブを取り出し、こちらに差し出してきた。――手のひらに乗る、小さな四角い物体。漆黒のようでいて、角度を変えると深部に煌めきを発見できる。なんとも摩訶不思議な代物だった。
直肌で触れると、ジンと痺れを感じた。これは聖具なのだと感覚的に分かった。それもこれまで触れてきた聖具とはレベルが違うようだ。強い波動を感じる。
ハンカチを取り出して手のひらに置き、ワンクッション入れるとかなり楽になった。
祐奈はキューブから視線を外し、対面に腰かけている陽介を見遣る。
怪我……オズボーンはもしかすると、祐奈が回復魔法を使うように、陽介をこんな目に遭わせたのだろうか? そうなると安易に治してよいものかどうか分からなくなってくる。
考えを巡らせていると、陽介が少し体を乗り出してきた。
「やっぱり気になる。なんでヴェールをしているんだ? 目的は?」
「……なんででしょうね」
陽介がじっとこちらを覗き込んでくる。ヴェールの奥をなんとかして確認してやろうというような強い視線。
「ここへ来たばかりの頃、神父に勧められたと言っていたよな。……でも違う」
「何が違うと言うんです?」
「祐奈がかぶりたいからかぶっているんだ。そうだろう? 奇妙な身の守り方だ」
以前は彼のこういった値踏みするような視線が苦手だった。だけど……
不意に祐奈は自身の変化を自覚することとなった。――自分はもう、彼の鳥籠の中にはいない。自由だ、と。
「あなたに何が分かるんですか」
「分かるよ。何年一緒に過ごしてきたか」
「――年月じゃない」
「え?」
「付き合いの深さは年月じゃ推し量れない。……確かにこのヴェール、滑稽でしょう? 私はある出来事で深く傷付いて、これを脱げなくなってしまった。でもそうなった原因は、もっと昔にあったのかもしれない」
「どういうことだ?」
「私、たぶん……日本に居た時も、ヴェールをかぶっていた。目に見えないヴェールを。それはあなたが私を傷付けたから」
「僕が君を傷付けようとしたことはない」
「嘘偽りなく、そう言えますか?」
陽介が口を閉ざした。そう……彼自身が一番よく分かっているはずだ。祐奈を追い詰めようとしていたことを。
陽介がしてきたあれらの大人げない行為は、全て彼のほうに問題があった。
彼は本来自分の中で処理すべき鬱屈や怒りを、全て外に向け、手軽に発散することを選んだ。近くにいた祐奈に対して、それらを全てぶつけたのだ。それはとてもズルイ行為だったと思う。
当時の祐奈はその原理を理解できていなかったから、少なからず自分を責めた。――自分が不甲斐ないから、言われてしまうのだ。自分が少し変わっているから、こんなふうに笑われてしまうのだと。
けれど祐奈の内面で、陽介の占める割合はほんの僅かであったから、多少落ち込んだとしても、上手く気分を切り替えることができていた。それでもやはり、少しずつ流し込まれた毒は、消えずに根っこの部分に残っていたのだろう。
――それが異世界にやって来て、身一つで勝負しなければならなくなった時に、最悪な形で表に出てしまった。祐奈は自信を失い、心が折れた。
けれどラング准将が居てくれたから、立ち直ることができた。それで前よりも強くなれたのだと思う。今は陽介が自分にしてきたことの理不尽さに気付いている。
「君がいなくなって、ものすごく心配した。ずっと探していたんだ」
言い訳するでもなく、陽介が口にしたのはそんな台詞だった。声音は切羽詰まっていて嘘がなかったから、祐奈は戸惑いを覚えた。
「どうして……」
「どうして? 本気で言っている? 当たり前だろう。君は従妹で、僕にとっては大切な存在なんだから」
「そんなわけない」
「いいや、君は分かっているはずだ。心の奥のほうでは、ちゃんと理解できている。君は賢い女の子だ。『自分が負けている』で片付けてしまえば、すぐに楽になれるから、そうしていたんだろう? 向き合うことから逃げていたんだ。――それでいて君は呆れるくらい頑固だった。『自分のほうが下』という態度を取っていても、肝心なところでは、決してイニシアティブを取らせない。僕の気持ちをちゃんと分かっていたはずだ。分かっていて、君は受け入れなかった!」
彼は腹を立てているようだけれど、聞いている祐奈だってそうだった。叫び出したかった。
――勝手なことを言わないで! こちらが親を亡くして苦しんでいた時は、遥か高みから見下すような態度を取っていたくせに。そんなふうに冷たくされて、心を開けるわけがない。
どうして全部こちらのせいにできるの? 自分のことを棚に上げないで。
「あなたの気持ちって、何」
「君は気付いている」
「知らない」
「知らないはずはない。ずっと一緒に居たのだから。僕の瞳に熱がこもっていることを、対面していた君は知っていたはずだ。同居していても、君はどこかよそよそしかったよな。夏であっても服を着崩していたことは一度もない。つまりは警戒していたんだ、僕のことを。君は僕を踏み込ませまいとして、必死だった」
「それは――」
「認めろよ。認めるんだ」
彼は確信しているようだが、奇妙なことに祐奈には心当たりがなかった。
あれだけ陽介から『取るに足らない存在』というふうに扱われて、どうして『この人、私に気がある』なんて思えるのだろう? もしかすると引きで眺めていれば、そういった彼の心の機微も理解できたのかもしれない。
しかし個人の視点で眺めてしまうと、どうしてもバイアスがかかるから、客観的に事実を把握するのはとても難しくなってくる。
特に恋愛に関するアレコレは、経験と自信がないと、どうしても勘が掴めないものだ。
そしてこれは陽介にとっては残酷な物言いになるのかもしれなかったが、祐奈にとって彼がそれほどの重要人物でもなかったというのも、気持ちを正しく把握できなかった原因ではあるだろう。彼は祐奈にとっては、『嫌味ばかり言う、気難しい従兄』以上の存在ではなかったのだ。
長い沈黙が流れた。
祐奈は目の前にいる陽介よりも、背後にいるラング准将の存在を意識していた。彼は死角にいるので様子を確認することができない。
――今、彼は何を思っているのだろう?
どういうわけか、以前レップ大聖堂で、アリスとラング准将が二人で話していた場面が頭に浮かんだ。あの時祐奈は心が苦しくなって、孤独を覚えた。だけどそう――感情を排してきちんと思い返してみると、ラング准将のアリスに対する態度は毅然としていた。
だから祐奈もそうすべきだろう。
気持ちがないのなら、ちゃんと伝えるべきだ。あなたのことを好きだったことはない。そしてこれから先も好きになることはない。
「陽介さん。私はあなたに伝えなければならないことがあります」
「……いい話じゃなさそうだ」
彼は自嘲めいた笑みを浮かべた。陽介は祐奈のことをよく知っているので、声の調子だけでなんとなく内容を悟ったらしかった。
「ずっと言えなかったけれど、私、あなたのことが――」
「やめてくれ。もうそれ以上は」
彼は傷付いていた。外も中もボロボロだった。
祐奈はもう彼を恐れてはいなかった。そのことはもしかすると陽介をひどく戸惑わせたかもしれない。
恐れているというのは、相手を強く意識していることでもある。日本に居た頃の祐奈は、陽介に対しいつも注意深く接していた。好いてはいなかったけれど、怒られたくはなかったから。それはある意味では、関心を払っている状態ではあったのだ。ところが今はそれがない。
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