第130話 嘘にゃん


「祐奈。そのヴェールはなんなんだ」


 陽介からそう問われ、祐奈は右手でヴェールの端に触れていた。


 そういえば、ヴェールにより顔が隠されているにも関わらず、陽介はよく祐奈のことが分かったものである。


 さして考えることもなく、気付いた。――リスキンドのせいか。彼が大声で「おーい! ラング准将と祐奈っちー!」と叫んだので、それが陽介の注意を引いたのかもしれない。


 『あれは祐奈なのか?』と疑った状態でよくよく眺めたので、骨格や佇まいから、判別することができたのではないか。


「この世界に来てすぐ、ハリントン神父という方がくださったんです。ヴェールをしたほうがいいと」


「それに従ったのか?」


「親切で言ってくださっているようだったので」


「いつも着けているのか」


 なんでそんなことを気にするのだろうと祐奈は不思議に思った。祐奈がヴェールをしていようがいまいが、彼にはどうでもいいことではないだろうか。


「あの、そうですね」


「彼の前でも?」


 陽介の視線がチラリと祐奈の斜め後ろに向く。ラング准将のことを指しているようだ。


「……はい」


「それで『可愛い』ね。……ヴェールが、か?」


 彼のこういった物言いには慣れているつもりだったけれど、久しぶりにされると、やはり良い気分にはならなかった。――ラング准将の前で顔を露出したことがあったなら、到底『可愛い』なんて台詞、もらえなかったよなと言わんばかりだ。


「祐奈はその男と旅をしているのか」


 陽介に低い声で尋ねられ、祐奈は彼のほうに向き直った。陽介は見たこともないほど暗い顔をしている。


「はい、そうです」


「親しいのか?」


「えっと……」


 祐奈は困ってしまった。なんと答えたものだろうか。


 祐奈はラング准将を頼っているし、すごく好きなのだけれど、『親しいのか?』と問われると、それは相手も関係してくることだから、簡単に肯定してしまっていいのか分からなくて……。


 するとラング准将が口を挟んだ。


「――君に二人の関係性を説明する義理はない。これは祐奈と私の問題だ」


 こういう流れで彼が入って来るのは珍しいかもしれない。今の質問は陽介が祐奈に対してしたものだから、普段ならばラング准将は静観していたはずだ。


「祐奈とあんたの問題? そうは思えないね。僕の問題でもある」


「では答えるが――祐奈と私は親密な関係にある」


 ラング准将がなんてことないというようにそう言ったので、聞いていた祐奈はビクリと肩を揺らしてしまった。


 あ、でも、そうか――私がラング准将に懐いているから、彼はその想いを汲んでくれたのだろうか? 祐奈はそう解釈し、彼の心遣いをありがたく思った。


「そんなわけない」


 ところが陽介のほうはまるで信じていない様子である。彼は怒り狂っているようにも見えた。


 ラング准将は肝が据わっているので、陽介が気分を害していようがいまいが、気にも留めていない様子である。


「君自身はどうなんだ? 祐奈とは親しい?」


「親しいに決まっている。日本に居た時は一緒に住んでいたのだから」


「ただの同居人だったと聞いているが」


「僕たちは分かり合っている。同居人よりもっと深い関係だ」


「――キスをしたことすらないのに?」


 爆弾が落とされた。


「え」


 そんな呟きを漏らしたのは、この場にいた全員だったかもしれない。皆一様に不意を突かれ、動きが一瞬止まった。


 祐奈は『なぜそんなプライベートなことを知っているの?』と軽いパニックに陥っていた。そして陽介もほぼ同じく『なぜ知っているんだ』と考えていた。


 リスキンドは『おっと、面白くなってきた』と考えていた。


 カルメリータは驚きのあと、『あらまぁ』という感嘆交じりのため息を漏らした。


「な、な、なんで……」


 祐奈は混乱しすぎて二の句が継げずにいる。ラング准将の美しいアンバーの瞳が祐奈を眺めおろした。


「以前あなたがキスの話をした時に、そうおっしゃっていたかと」


『嘘にゃん!』――間髪入れず、祐奈は心の中でそう叫んでいた。驚きのあまり『嘘でしょ』と『言ってないじゃん』が混沌と混ざり合い、『嘘にゃん』という謎言語を作り出してしまう始末だった。


「そんな、え?」


「ミリアムと三人で話していた時です」


 言われて少し記憶が蘇ってきた。そういえばミリアムに『キスをしたことがあるか?』としつこく尋ねられ、『ない』と答えたあれか?


 その後オズボーンに無理矢理されたという話になったが、それ以外に経験がないということは伝わってしまったようなので、ラング准将は『ならば従兄ともしたことがないはず』と判断したのかもしれない。


 祐奈がすっかり挙動不審になっているのを眺め、陽介は破壊的衝動が込み上げてくるのを抑えるのが大変だった。


 ――なんだよ、クソ!


 オズボーンという奇怪な美少年が、『祐奈は今、ハイパーイケメンなラング准将という人物に護衛され、旅をしている』と言っていたのが思い出される。さらには『頭の中でハイパーイケメンを想像してみて? ――OK――本物はその五百倍、イケメンだ』とか馬鹿げたことを言っていたような気がするのだが、実際に会ってみたら、オズボーンがそんなに話を盛っていないことが判明したわけだ。


 ――屈辱だった。


 オズボーンのあの話しぶりを聞いて、一体誰がそれを本気にするだろう? それに、だ。たとえかなりのイケメンが一緒に旅をしているのだとしても、そんな立派な男ならば、大人の女になりきれていない祐奈のことなど、相手にしないと思うではないか。


 相手にしないどころか……


 相手にしないどころか、だ!


「だけど――あんただって祐奈とキスはしていないだろ」


 陽介は自分が道化めいた台詞を吐いている自覚があったが、どうしても止めることができなかった。キスをしていないという確信はなかったものの、『どうか、していませんように』という願望があり、言葉に出ていたのだ。


 焦る気持ちで返事を待つ。しかしラング准将は明確な答えを口にしなかった。


 もしかすると彼は淡く笑んでいるのだろうか? そう感じられる程度に、ほんの僅か口角が上がっている――ただそれだけ。


 ひたすら優美で、それでいて棘のある表情だった。瞳は涼しげで、気まぐれ。到底太刀打ちできないというような格の違いがそこにはあった。


 祐奈が振り返ると、ラング准将の笑みが柔らかく、甘くなる。……ところが彼女はこれに安心を覚えるどころか、かえって心を乱してしまった。


「――あの、ラング准将」


「なんですか、祐奈。そんなに心配しなくても、私は口が堅いので、大丈夫」


 ……それだと何かあったように聞こえる。祐奈は目が回ってきた。


「でも、だって、そんな」


「むしろ言って欲しいのですか? それならそうしますが」


 嘘にゃん……祐奈はもう訳が分からなくなってきて、椅子の上に膝立ちになり、反転してラング准将の上着を掴んでしまう。


「言って欲しいことは何もありません」


「本当に?」


「ないの。ない」


「そうですか」


「そうです……え、もう、なんなの……?」


 祐奈には心当たりがない。ラング准将とキスはしていない。していないはずだ。していないはずだよね……?


「夜のとばりが下りた世界で、あなたは見事に私を説得してみせたので、あのことを皆の前で振り返りたいのかと思って」


 ラング准将が優しく瞳を細めてそう告げてくる。祐奈は「あれか!」と叫び出しそうになった。


 ――おやすみのキス! わーん、してた! 私たち、してたよぉ! ……唇にじゃないけど。


 祐奈は申し訳なさと居たたまれなさから、ラング准将にさらにしっかりとしがみついてしまった。


「……ご、ごめんなさい」


「謝らなくても」


「お願いです、あのことは言わないでください。皆に知られたら、恥ずかしくて死んでしまいます」


「今の返しで、言ったも同然なんですけどね」


 二人のやり取りを眺めていた陽介は茫然自失。


 そしてリスキンドはニヤニヤ笑いが止まらなくなっていた。


「……おいおい、マジかよ。楽しすぎるぜ」


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