第117話 ラング准将、貰い事故で傷心……
「祐奈、熊なんていません」
「いるの、私、見た」
「熊はいません」
ラングが言い聞かせるように告げた途端、遠くの茂みがまたガサガサ揺れる。
祐奈は息を呑み、彼の腕の中で体を反転させた。彼の左腕が前に回り、着物帯のように絡みついているが、祐奈のほうはそれどころではない。
どちらかといえば腹部や腰に素手で触れられている感触よりも、鍛え上げられた彼の上腕二頭筋が、祐奈を抱え込んでいる都合上、左横から胸をきつく圧迫している状態になっていて、その息苦しさのほうを強く感じていたかもしれない。
ほとんど無意識のうちに右腕を上げる。
『――雷』
撃、と終わりまで言う前に、右手首を包み込まれる。パチ、と静電気が弾けた。
「いけません。あれはミリアムです」
彼が後ろから有無を言わせず制止をかけた。静かではあるが、それは断固たる口調だった。
「え?」
「ミリアムには軽度の雷撃でも刺激が強い。――こらえて」
茂みをかき分ける音が激しくなり、熊の頭が突き出してくる。いくらか月が出てきたので、毛皮が艶やかに月光を反射して輝いて見えた。次いで人間の腕が茂みから出て来た。
――ラング准将の言うとおり、潜んでいたのは熊の毛皮(頭つき)をすっぽりとかぶったミリアム老女であった。彼女はなんともいえない表情を浮かべていた。真顔といえば真顔であるし、『このくらいで騒ぎすぎだよ』と呆れているようでもあるし、悪戯が成功して少し得意そうでもあった。
ラング准将は大分前から浴場の端っこほうにいるであろうミリアムの気配を感じ取っていたのだが、その時点では何か(野生のハーブだとかの料理に使うもの)を取りに出て来たのだろうかと、さして気に留めてもいなかった。
まさかいい年をした老女が、こんな童子のような悪ふざけを仕掛けるとは思ってもみなかったのだ。
可哀想に祐奈はすっかり取り乱し、熊が襲って来た時に対処できるようにと、魔力を本格的に練り上げてしまった。……けれどまぁ彼女のほうに殺意はなく、ごく弱い電撃で、気絶させられればよいと考えていたのだろう。
ところがこれをラング准将が強制的にストップさせてしまった。祐奈自身のタイミングで引っ込めたわけではなかったので、魔力は行き場を失い、奇妙なうねりを伴って内に還ることとなった。それは通常使用時よりも強い余韻を残した。
彼に握られた手首、腹部に回された腕、密着している背面――全てにじんわりと痺れが走る。感覚を拾うよりも先に、腰が抜けた。
ラング准将は抱え込んでいた彼女の体がガクンと急に落ちたので、焦りを覚えた。これ以上力を込めると彼女の肋骨を痛めてしまうかもしれない。咄嗟に視線を落とした彼は、見てしまったことをすぐに後悔した。
朧な月明かりが、重なり合う彼らの姿を淡く照らし出している。
ラングは膝を折り、重力に従ってゆっくりと彼女の体を下ろしていった。抱き留めて引っ張り上げるよりも、そのまま座らせた方がよいと判断したためだ。
目線はすぐに逸らしていた。少し前方の、何もない床のあたりを眺める。彼女がつけたであろう濡れた足跡が残っていて、それが妙に生々しく感じられた。
おそらくであるが――下心も何もなかったなら、異性とはいえ、ラングは護衛対象の体から視線を逸らさなかったのではないだろうか。床に座らせるにしても、本人の状態を確認しながら対処したほうが、明らかに危険がない。
ところが必要があるにも関わらず、どうしても直視できなかったということは、それだけ彼が揺らいでいたことの表れなのだろう。冷静に対処できるか自分でも分からなかったから、見ていられなかったのだ。
近寄ってきたミリアムが籠から幅広のリネンテリーを取り、広げて祐奈の体にかけてやった。ミリアムは背負っていた熊の毛皮を途中で落としており、浴場の石床に広がる熊の毛皮という、ちょっとしたホラースポットをこしらえていた。
ところでリネンが祐奈の白い肢体を覆い隠したので、これにホッとしたのはおそらく彼女自身ではなく、ラングのほうだっただろう。
「――祐奈。立てますか?」
さりげなくリネンを整えてやり、露出を少なくしながら彼が問う。祐奈はほとんど上の空で、胸の前で布をぎゅっと握り合わせて縮こまっている。
「……ちょっと……無理そうです……」
震え、消え入りそうな声音。その様子を眺めおろしていたミリアムが、片眉を持ち上げ、途方に暮れたように顎を引く。
「おやまぁ。ちょいと脅かしすぎたかね。腰を抜かすほどとは」
「違います、驚いたんじゃなくて」
眉尻を下げた祐奈が、ほとんど半べその状態でミリアムのほうを見上げた。
「とにかく腰がヘン……立てない」
「だからビビっちまったんだろう? 熊はやりすぎたよ」
「そ、じゃな……魔法……使おうとした時、ラング准将が触れていた、から」
「え……私のせいですか?」
ラングはちょっとした衝撃を受けていた。彼女にトドメを刺したのが、まさかの自分だったとは。
祐奈がすん、と鼻をすすり上げる。……泣いているのか? とさらにラングは動揺してしまう。彼女は俯いていて、しかも背を向けているので、表情が窺えなかった。
祐奈が微かにこちらを振り返ったので、ラングは斜め後ろから横顔を眺める形になった。真っ赤な耳。上気した頬。潤んだ瞳。そして唇は微かに震えている。
「うー……魔法を使う時、地肌に触っちゃダメなのにぃ……」
駄々をこねるようにそう言う彼女を眺め、ラングは思った。――気力も全て刈り取られるとは、このことだろう、と。
ああ……呻き声のような吐息が漏れる。『やってしまった』――頭に浮かんだのは、まずそれ。そして同時に、『これって俺のせいなのか?』という恨み節もほんの少し。この状況で、絶対に言えやしないけれど……
「祐奈。……このまま抱きかかえて部屋に連れて行ってもいいですか?」
このままにしておけないのでそう申し出たのだが、なんだか字面だけ追うと、『どさくさ紛れに、鬼畜か』という文言になってしまっている。……というかこの状況では、何を言ってもいかがわしく響いてしまう気がする。
「無理」
祐奈に断られた。結構バッサリいくものだ。
「しかしこのままでは……」
「ラング准将がそばにいるだけで無理です……無理」
「……心が抉られる」
互いに混乱しているせいか、会話が成立しているようで、していない。祐奈がまたぐすんと鼻をすすった。
「あなたは私をおかしくさせる」
「ごめん」
「ラング准将……見た?」
「祐奈?」
「私の裸、見た? 見えてないよね?」
俯き、プルプル肩を震わせているさまを見ると、答えはもう一つしかない。――社交の初歩で習うことは、『相手への気遣い』だ。彼はもちろんそれを習得している。
「暗くて見ていません」
ラングはきっぱりと否定した。
「……だよね? 暗かったよね? 見えてないよね?」
「全く」
「……良かった」
祐奈はほっと肩を落としている。
「……もしも見られていたなら、私もラング准将の裸を見ないといけないところだった。だって見られっぱなしは納得がいかないもの」
「見たいというなら、お見せしますが」
親切心(?)で『あなたの気が済むのなら、従います』という申し出をしてみたのだが、祐奈はそれで立ち直るどころか真逆の反応を見せた。
背を丸め、膝を立てて頭を抱え込んでしまう。
「私って最低……変なこと言っちゃった……もう馬鹿みたい……消えたい……」
くぐもった泣き言が聞こえてきて、ラングは途方に暮れてしまった。彼女が元気になるのなら全財産をはたいても構わないという、切羽詰まった気持ちが込み上げてきて、そんな馬鹿げたことを考えている自分自身に呆れてしまう。熱病にでも侵されて、脳をやられてしまったのか、と。
ミリアムがやれやれというように口を挟んできた。
「お嬢ちゃんが歩けるようになるまで、あたしがここにいるから、あんたはとりあえず中に戻りな」
「しかし……」
「あんたがここにいるとたぶん復旧しないよ、こりゃあ」
確かにそうかもしれない。
ラング准将は相変わらず端正な佇まいであったし、表情からは動揺が見て取れなかったのだが、彼の心中は珍しく嵐だった。
ミリアムはそれを見抜いているのか、見抜いていないのか、まじまじとラング准将の顔を眺めている。
立ち上がった彼に並び、館内に戻ろうとする彼についてくる。
「なぜついてくるのです? 祐奈のそばにいてくれるのでは?」
「ちょいとそこまで送るだけだよ」
「不要です」
断ろうが何をしようが、ミリアムがしたいことをしないわけがない。彼女はチラリとラング准将の綺麗な横顔を見遣った。
「おーい、嘘つき」
「なんですか、人聞きの悪い」
「お前さん、優秀な騎士だろう? 見たものは一瞬で記憶できるだろ? 鮮明に」
「かもしれませんね」
「暗くて見ていません? 本当に? 最後のほう、月は出ていたんじゃないかい?」
「口を閉じてください」
「……しかしさぁ……あんたの自制心にはほとほと感心させられたよ……。普通もっとジロジロ見ちまうもんだよ。あるいはあちこち無意味に触っちまうと思うよ。だってあんなにピチピチしたさぁ――」
「もう黙れ」
「おっと、怖いねぇ。年上に敬意を払いなよ。ずいぶんじゃないか」
「軽口に付き合う気分じゃない」
「あれを前にして、よく我慢できるよ。しっかし、ほんと理不尽だよねぇ。ここまで尽くして、あの子はオズボーンとキスしたってんだから」
「なんだろう……殺したい」
「だよね、分かるよぉ。オズボーンを殺したいだろう」
「いいや、あんたを」
ラング准将は淡々とした口調で呟きを漏らしたのだが、妙に実感がこもっていた。彼は礼儀正しいので、平素の状態ではどんなことがあったとしても、女性に対してこのような物騒な軽口を叩くことはまずない。
しかし彼が最低限の礼節を見失ってしまうほどに、先ほどの出来事とミリアムのからかいは、許容限度を超えたものだったのだ。
「とりあえず強い酒が必要なんじゃない? 食料庫の棚にあるから、勝手に飲んでいいよ」
ラング准将が感情の読み取れない瞳でこちらを流し見たので、その優美さにミリアムは感心してしまった。……あたしもあと四十若かったら、間違いなく寝所に忍び込んでいるんだけどね……などと考えながら、背伸びをしてポンポンと彼の肩を叩く。
「それでさ……意外と見応えがあったよね」
「何が?」
「おっぱい」
ラング准将の自制心はまったく大したものだった。――彼は下品極まりないミリアムの息の根を止めもしなかったし、殴りもしなかったどころか、悪態さえもつかなかった。
極悪人を拷問する時くらいの圧をかけてミリアムを見おろしはしたけれど、そのくらいはまぁ……彼の心中を思いやれば、当然の行動ではあっただろう。
それでも不幸なことに、彼のプレッシャーは大抵の場面で有効に機能するのだが、肝の据わった悪戯老女相手には、これっぽっちも効きはしなかったのだ。それゆえラングの気が晴れることはなかった。
とにかく彼は大人な態度で耐え抜いた。そして頭の片隅で『確かに今の自分には強い酒がいる』と考えていた……。
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