第116話 パニック!
夕食前にミリアムの希望を聞き、二人はいくつかの雑用をこなした。
ラング准将は名家の子息であるけれど、任務で色々こなしてきたせいか、棚の調整だの、扉の建付けの修理だの、なんでもできるのだなと祐奈は感心してしまった。
祐奈のほうはおもに食事の準備を手伝った。ものすごく料理上手というわけではないのだけれど、やろうと思えば一通りのことはできる。
ミリアムは宿を経営しているだけあって、手際がとても良かった。目が悪いとのことだが、ほとんど手助けは必要ないくらいに達者である。そこで祐奈は洗いものや片付けなど、比較的面倒そうな雑事を引き受けることにした。
食事の準備が七割ほど進んだところで、ミリアムが言った。
「先にお風呂に入っておいで」
「お湯を沸かすのはどうやったらいいですか?」
「必要ないよ。どうしてここに宿を作ったと思う? 温泉が湧き出ているからだよ」
「そうなんですか! すごい」
「建物の裏手――北側に浴場があるからさ。ラング准将と一緒に入っておいでよ」
しれっとものすごいことを言うもので、祐奈はぎょっとしてしまった。
「ラング准将とは一緒に入らないですよ」
「なんでだい、いいじゃないか、体を洗ってもらえばさぁ。あの男は部下なんだろ。上司の体を気遣わないといけない立場だよ」
「こんなこと言いたくないですが、ミリアムさんて価値観イカレてますよね。そもそも体を洗わせようとするなんて、ろくでもない上司でしょ。そんなことしません」
「ろくでもないっていうか、ご褒美じゃないか」
「どちらにとってもご褒美にはなりませんから」
「呆れた子だね。ご褒美でしかないじゃないか」
ミリアムが本当に呆れている様子なので、それが祐奈からするともう、びっくり仰天なのである。
「とにかく一緒には入りません。――私は入浴に時間がかかるので、ラング准将に先に入ってくださいと言ってきますね」
「その必要はないよ。男湯と女湯で別れているから。同時に入れる」
「あ、そうなんですか。時間的な意味での『一緒に入れ』だったの?」
「違う。そういう意味なら『体を洗ってもらえ』なんて言わんわ」
……なんでちょっと逆ギレしているんですか……
祐奈は納得がいかなかった。こっちがキレたいくらいなんですが……。
祐奈の反抗心を見抜いたのか、ミリアムがへの字口で言い募る。
「お前さんが頑固だから、『じゃあ男湯と女湯で別れて入れば?』って、こっちは妥協してやったんじゃないか。あたしは納得してないけどね」
「なんでミリアムさんを納得させないといけないんですか。ミリアムさんって見た目は賢そうなおばあちゃんですけど、精神年齢六歳ですよね」
「……おいおい、ずいぶん言うじゃないかい、娘っ子……」
「ここへ来て、少し鍛えられたんですかね? これからは相手に合わせた対応をしていくことにします」
祐奈がそう言ってやると、ミリアムは鍋をかき混ぜていた手を止めて、顰めツラになってしまった。
***
ラング准将を誘って、一階北側の浴場に向かった。
体を拭くリネンテリーや着替えを左腕に抱え、右手にはカンテラを提げている。ラング准将も同様だった。
説明されていたとおり、一度裏口から出て、外に出た。――いわゆる露天風呂というやつだなと祐奈は思った。
外は月が出ていて思ったよりも明るい。見上げると、黒い雲がものすごい速さで動いているのが見えた。
「ではここで」
ラング准将がそう告げる。祐奈は小さく頷いてみせた。
「私は時間がかかると思います。先に戻っていただいて大丈夫ですので」
「分かりました」
ラング准将はあっさりと了承したのだが、祐奈が入浴を終えるまで待つつもりでいた。ここで「待ちます」と言い張ると祐奈が気を遣うだけなので、表向きは彼女の提案を呑むふりをしたのだ。現に祐奈は『先に戻ってくれるなら、待たせないで済む』とホッとした様子である。
――浴場は左が男湯、右が女湯という具合に分かれていた。
性善説に基づいた造りであるというか、あまりに簡素な分け方だと祐奈は思った。
高さ二メートルくらいの壁で仕切られているだけ。入浴しているあいだ壁の向こうが見えないというだけで、周囲をちゃんと囲ってはいないので、あちこちから覗こうと思えば覗ける。たとえば祐奈が壁を回り込んでしまえば、男湯が丸見えになってしまうのだ。
皆の良心を信じた危うい造りである。
しかし祐奈は覗きをするつもりもなかったし、ラング准将がそうするはずもない。今夜は他の宿泊客もいないので、特に危険は感じていなかった。
壁のすぐそばには休憩用の椅子や、竹で編まれた籠が置いてあった。
足元にカンテラを置き、持ってきた着替えを籠の中に入れる。ヴェールを外し、服を脱いでいった。
衣擦れの音が響き……自身が裸になり、ラング准将も壁の向こう側でお風呂に入っているんだなぁと考えると、なんだか変な感じがした。
カンテラと月明かりのせいでかなり明るい。読書をするとなると少し不便かもしれないが、見おろしてみると、薄暗い背景から浮き上がるように、白い裸体がはっきりと見えた。
祐奈はカンテラを右手に持ち、冷たい石床を踏んで奥へと進んだ。途中で数十センチ幅の水路が横向きに掘ってあり、綺麗な湯が流れて来ていた。視線を辿ってみると、左側――男湯のほうから伸びている。祐奈が確認できたのは壁のところまでで、その向こうがどうなっているかは分からなかった。
どうやら泉源はあちら側にあり、東に向けて水路を掘り進め、男湯へ、次いで女湯へ……という具合に分岐させてあるのだろう。
浴槽部分は穴を掘ってタイルを敷き詰めてあった。水路からそこへ湯が流れ込み、反対側の少し低くなった別の水路から流れ出て行く。源泉掛け流しスタイルのようだ。長い水路は湯を冷ます目的もあるはずなので、源泉の温度は四十度よりももっと高いのだろう。
浴槽のそばにカンテラを置き、洗い場で体と髪を洗った。
ちなみにこちらの世界にはシャンプーのたぐいはなく、固形の石鹸で髪と体の両方を洗う。石鹸で洗いっぱなしだとアルカリ性に傾いた髪がキシキシいうので、大抵の浴場にはリンスの役目を果たす液体が置かれていことが多い。瓶に入っている液を湯で割って希釈し、髪にかけて櫛でとかす。一、二分待ってから湯でしっかり洗い流すと、驚くほど滑らかな手触りになる。
このリンス液は何かの植物から抽出しているらしいのだが(以前聞いたのだが忘れてしまった)、口に入ると酸味を感じるので、クエン酸リンスと同じ仕組みなのかもしれなかった。石鹸でアルカリ性に傾いた髪を、この液体で中和するのだろう。
体を清め終わったので、足からそっと湯の中に入る。肩まで湯に浸かった祐奈は瞳を細め、
「極楽……」
という呟きを漏らしていた。ミリアムはなんでこんな辺鄙な場所に一人で暮らしているのだろうと思っていたのだが、こんな素敵な温泉があるなら納得である。
建物を見てもあちこちに彼女のこだわりが感じられるので、ミリアムはここでの暮らしを大事にしているのだなと祐奈は思った。丁寧に暮らして、旅人を受け入れて、お喋りを楽しみ、少々ごうつくばりに食べものを要求し、それをまた客に還元して生活している。
ミリアムは『自分には不思議な力があるから、ベイヴィアから手伝いの人間が来てくれる』と言っていたが、祐奈は本当にそれだけが理由だろうかと思っていた。――彼女に失せもの探しの力がなかったとしても、誰かしら、なんらかの用を見つけては、ここを訪ねて来ていたのではないだろうか。それは温泉が目当てかもしれないし、ミリアムとの馬鹿げたお喋りが目的であるかもしれない。
ぼんやりと考えを巡らせていた祐奈は、体が十分に温まったのを感じた。のぼせてしまうのでそろそろ出よう。
立ち上がり、浴槽から出ようとした、その時――
茂みのほうでガサガサと音がした。振り返り目を凝らすが、雲が月を覆ってしまったので、暗くてよく分からない。祐奈はカンテラを手に取り、それを頭上に掲げて茂みのほうを眺めた。
――すると暗がりに熊の頭が浮き上がった。
祐奈は悲鳴を上げ、仰天した拍子にカンテラを湯の中に落としてしまった。
――ところでラング准将はといえば、少し前に入浴を終え、服も身に着け終わっていた。祐奈はまだ時間がかかるだろうと、壁際に置かれた椅子に腰かけていたのだが……
遠くのほうでガサガサと茂みが揺れる音がしてから、祐奈の悲鳴が響いた。
「祐奈? ――今からそちらに行きます」
椅子から立ち上がりながら声をかける。「今からそちらに行きます」とあえて断ったのは、祐奈が拒否する余地を与えるためだった。緊急事態ではなく、うっかり叫んだだけという場合には、「なんでもない」等のリアクションがあるだろう。
現状ではラング准将は脅威を感じていなかった。賊のたぐいが近寄っていれば、とっくのとうに気付いていたはずだ。ここに居るべきでない者の気配は察知していない。だからこの時はまだ比較的鷹揚に構えていたわけだが……
向こうから、
「ラング准将、危ないから来てはだめです! 逃げて!」
と声がかかったので、切羽詰まった状況らしいと察して壁の向こうに行くことにした。
いつの間にか月が隠れていて、ひどく見通しが悪い。ラング准将が壁を回って女湯に足を踏み入れた瞬間、視覚が仕事をするよりも先に、祐奈が懐に飛び込んで来た。
普段何があっても動じない冷静沈着なラング准将であるが、おそらくこの時ほど気を散らしたことはないだろう。彼は並行していくつかのタスクをこなせるので、周囲の様子は一瞬で見て取れる。しかし今は注意力が恐ろしく散漫になっていた。
――湯から出たばかりの祐奈の体はあたたかく、濡れていて、しなやかだった。
焦っている彼女を転ばせないため、腰に手を回して抱き留めるしかない。手が水気で滑って彼女がズリ落ちそうになり、思い切ってさらに深く引き寄せなければならないという悪循環に陥っていた。
彼女は首、肩、ウエストは華奢であるのに、あきらかに着痩せするタイプだった。
抱き留めた瞬間、体の前面に瑞々しい弾力が返り、彼が本来備えていたはずの冷静さは全てどこかに吹き飛びそうになった。
絡みつくように互いの体が密着したことで、いよいよ眩暈がしてきた。
……これはなんの拷問だ? ラングは呻き声を漏らしそうになる。いっそ靴の先で思い切り肝臓でも蹴られたほうが、まだ耐えられる。
視線が下に向きそうになるのを、意識して外に逸らさなければならなかった。
「祐奈――」
「熊が出ました! 逃げて!」
そんな馬鹿なとラング准将は思っていた。そしてこの状況全てが、そんな馬鹿な、なのだった。
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