第114話 キスの件で揉める
【前書き】
【前回まで】
≪『1.旅立ち』-『もう一人の聖女』より抜粋≫
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この人――ええとそうだ――この人も枢機卿の側近だ。
どういう訳か今の彼は、危険な領域を彷徨っているような感じがした。
爛々と瞳を輝かせて、祐奈の側頭部をガシッと両手で掴んでくる。
恐怖で息が止まる。
美形すぎて怖いし、彼のメンタルも色々心配だった。何しろ目の焦点が完全に飛んでいる。
「また会おう、祐奈」
「は?」
「やっぱり今日はヴェールを取らない。お楽しみは今度だ」
むちゅーと柔らかい感触がして、気付けばヴェール越しにキスされていた。
色っぽさは皆無で、犬にベロンと舐められたみたいな、そんな感じだった。
情緒もへったくれもない。
「じゃあね!」
……この人、変な薬でもキメているんじゃなかろうか……。
祐奈をその場に放置して、人騒がせな美少年はあっと言う間に走り去ってしまった。
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≪『1.旅立ち』-『あなたをお護りします』より抜粋≫
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オズボーンの整った意地悪顔が、無遠慮にこちらに近付いてくる。声にならない悲鳴が喉から零れた。
思わず身体を捻った時、ふっと頭部の圧迫が消えてなくなった。
――ああ、ラング准将! 助かった!
彼がオズボーンの首根っこを捕まえ、祐奈から引きはがしてくれたのだった。
オズボーンは半目になり、反り返りながら、背後を取っているラング准将の端正な顔を見上げた。
「祐奈とのスキンシップを、邪魔しないでくれますかね」
「彼女に触れるな、と言っている」
「でも僕と祐奈は良い仲だから。ちゅーもした仲だから」
「馬鹿馬鹿しい」
ラング准将はまるで取り合わなかった。
祐奈は気まずさに身の置き所もない心地だった。
……いえあの、それが嘘ではないのです……。
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【本文】
日も落ちかけてきた頃、小道の先を歩く人影を発見した。後ろ姿なので顔は確認できないのだが、白髪を簡素に纏めているし、背を丸めてのんびりと歩いている様子を見るに、年老いた女性だろう。彼女は竹で編んだ大きな籠に紐をつけ、華奢な背に担いでいた。
祐奈は背後のラング准将に話しかけた。
「あれはもしかして、宿の方でしょうか?」
「そうですね。――旅人には見えませんし、そろそろ宿に着いてもよい頃合いかと思いますので」
減速しながら近寄り、通行人の少し手前でラング准将が馬から下りた。手綱をキープしながら、祐奈を馬の背から危なげなく下ろしてくれる。
ちなみに祐奈はずっとヴェールを外していたのだが、減速している過程で膝に置いていたそれを手に取り、きちんと装着しておいた。
老婆が足を止めて振り返り、微かに口を開けて、祐奈が馬から下ろされる場面を眺めていた。
着地した祐奈は彼女に話しかけた。
「こんにちは」
「こんにちは。若い方だねぇ」
肩の凝らない、のんびりした話し方だ。少し上向いた鼻と、受け口ぎみの造形が、なんともキュートに感じられる。虹彩が小さいために少々神経質な印象を与えるものの、佇まいが自然で邪気がない。
祟り云々の話を先に聞いていた祐奈であるが、実際に対面してみて、緊張や恐れが解けてなくなるのを感じていた。
「あなたは宿の方ですか?」
「そうだよ。泊りなさるかね?」
「お願いしたいのですが、大丈夫でしょうか」
老婆はチラリと馬の背を眺めている。……あ、と祐奈は気付いた。
「あの、荷物が少ないように見えますが、ええと――食べものは用意してきました」
「ああ、そう。まぁ別にいいよ」
「別にいいのですか?」
「いいさね。いらっしゃいよ」
老婆が手を差し出してくるので、戸惑いつつも祐奈は彼女の手を握った。
彼女はとても小柄な女性で、腰を曲げていることもあり、祐奈の肩くらいまでしか身長がない。
ラング准将が丁重に声をかけた。
「荷物をお持ちしますよ」
老婆が背負っている籠の中には、野草らしきものが入っている。籠自体の重量も合わせると、彼女の体格からして、とても重く感じられるのではないだろうか。
「いや、結構」
「しかし……」
「もうこんな年なもんでね。重いもんでも背負ってないと、お迎えが来て簡単に連れて行かれちまうからね」
こう言われて、ラング准将は一瞬黙り込んでしまった。彼は巧みにポーカーフェイスを保っていたが、『なんと答えたものか』とその瞳には微かな困惑が滲んでいる。
「冗談だよ。笑いなさいよ」
「冗談に聞こえなくて」
『確かにそろそろお迎えが来そうですよね』と言わんばかりの、ラング准将にしては辛辣な(?)返しだった。(……実は少し動揺している?)
すると老婆がまじまじと彼を見上げ、面白そうに笑い飛ばした。
「あんたはちょっと見かけないほどのいい男だね。あたしは目が悪いけどもね、そのくらいは分かるよ」
「恐れ入ります」
「お嬢ちゃんと旅をするのは、色々大変そうだねぇ」
「え、やっぱり?」
思わず祐奈は言葉を挟んでしまった。『ラング准将は絶対に認めないけれど、やっぱり負担なんだ』と思ったため、声が出てしまったのだ。
老婆が今度は祐奈のほうに視線を転ずる。
「お嬢ちゃん。彼を逃してはいけないよ。これ以上の男はいない」
「逃す逃さないではなく、護衛をしてくださっているのです」
「じゃあ早いとこ、押し倒すこったね。既成事実を作って、責任を取ってもらうんだよ」
「……人格者と見せかけ、結構ズルい方法を……」
「あんたは体も出るところは出ているんだから、十分さね。誘惑の仕方くらい心得ているだろう?」
「いえ、心得ていないし、絶対無理です」
「無理なもんかね。あと一押しだよ。彼は結構ぐらついているからね。――ほらこう、跨(またが)ってからドレスの裾を太腿のところまでまくってさ」
「――悪戯がすぎますよ」
老婆の軽口をラング准将が制した。不快に感じているというよりも、少々呆れているような口調だった。彼の視線にもそれが滲んでいる。
「ちょっとからかっただけじゃないか」
「祐奈には刺激が強すぎます」
「馬鹿言っちゃいけないよぉ。今のはお嬢ちゃんをからかったんじゃないからね。間接的にお前さんをからかったんだよ」
老婆はつんと前を向いて、「さぁもう行こうよ」と祐奈の手を引いた。
***
小道を進みながら、老婆はミリアムと名乗った。
祐奈とラング准将も名前を伝えたのだが、彼女が「ユウナ・ラング……」と二人の名前を続けて言ったので、そういう意図はないのだろうけれど、祐奈はなんだか『結婚して苗字が変わった』というのをうっかり想像してしまい、居たたまれない心地になった。
「響き的には悪くないね」
「どちらの名前がですか?」
「だからユウナ・ラングが」
……あれこれ、やっぱりそういう意図で言っている? 祐奈が絶句していると、ミリアムが口元に笑みを浮かべる。してやったりの顔だ。
「キスはもうしたかい?」
「え、誰と?」
「彼と」
「してるわけないでしょ」
「本当にないの?」
「ないです」
「他の男とは?」
「……ないです」
なんでラング准将の前でこんなことを答えなければならないのか……。
否定したあとでふと、オズボーンのことを思い出していた。――そういえば王都で、悪戯されたことがあったな、と。犬が舐めてきたような情緒のなさだったから、忘れていたのだけれど。
「今の躊躇いはなんだい?」
「あ、いえ、ちょっと」
「ちょっとって何。誰かとキスしたの?」
「してな――ていうかあれは」
「無理矢理された?」
「えっと、顔を掴まれて、ヴェール越しに」
「――祐奈」
ラング准将がヒヤリとした声音で名前を呼んだ。びっくりして彼のほうに視線を転じると、微かに眉根を寄せている。
「もしかしてそれはオズボーンですか」
「どうして分かったのですか?」
「王都を出る前に、彼がそんな軽口を叩いていましたよね。あの時は冗談かと」
「いえあの、冗談みたいなキスだったのです」
「キスに冗談もクソもない」
彼の語調が少し乱れる。珍しくピリついているようなので、祐奈はたじろいでしまった。なんだろう……背中に氷の塊を入れられたみたいな心地……。
「お嬢ちゃん、どうするね? 彼氏が怒っているよ」
「彼氏じゃありません」
「とにかくあんたは、彼が怒っていないと思っているのかい? それは認識が甘いんじゃないかい?」
……ラング准将は怒っているだろうか……? 祐奈はこわごわ彼の様子を窺ってみた。
ラング准将がどこか棘のある視線でこちらを流し見て言う。
「――ミリアムの言うとおり、あなたの認識は甘い」
「ごめんなさい」
「どうして謝るのですか」
「それはええと、私に隙があったから」
「私はあなたを責めているわけではありません。オズボーンにムカついているだけです」
「そ、そうでしたか……」
「無理矢理するなんて、ありえない」
「そうだよねぇ」ミリアムがしたり顔で口を挟んだ。「お嬢ちゃんの気持ちが固まるまでお行儀良く待ってあげている人間からしたらさぁ、やってられないよねぇ」
……何が……
ミリアムの謎の当てこすりは、その場を地獄の空気に変えたのだった。
***
しばらく黙って歩いていたのだが、ミリアムがまたキスの話を蒸し返してきた。
というか宿はまだだろうか……祐奈は気が遠くなってきた。
そしてミリアム老女は悪魔の落とし子か何かなの?
「オズボーンとやらとキスしたならさ、ラング准将ともしたらいいじゃない」
「なんなんですか。頭でも打ったんですか、ミリアムさん」
「なんでしないのか、あたしからすると不思議で仕方ないよ。あんた、恥ずかしいのかい?」
「恥ずかしいに決まっているでしょ」
「何が恥ずかしいんだい。試してみりゃあいい。彼の頬っぺたにキスしてごらんよ。拒否されなければ勢いがつくだろう? 拒まれなければこっちのもんさ。次は口にするんだよ」
「なんでそんな度胸試しみたいなやり方で進めるんですか」
「お前さんがキスしてきたら、彼は引っ叩(ばた)くと思うかね?」
「え?」
「彼はあんたの頬を引っ叩いて拒否するかい? どう?」
祐奈はチラリとラング准将のほうを見遣り、彼の凪いだ瞳を見つめてしまって、とても後悔した。この時の彼がもっと呆れ顔か、怒りを滲ませていれば良かったのに。
先ほどオズボーンのことを話題にした時の彼は感情的になっていたようだけれど、今はもう違う。佇まいはいつものように穏やかで、それでいてなんとも気まぐれに見えた。
祐奈は体温が上がって来て、手のひらにじんわりと汗をかいてきた。手を繋いでいるミリアム老女はそれに気付いたのだろう。彼女のニヤニヤ笑いが深まった。
……どうしてラング准将はこの馬鹿話を制止してくれないのだろう? 祐奈はそのことをちょっとだけ恨めしく思った。初めの頃は確かに止めてくれたのに……
「か、彼は……引っ叩きはしないと思いますが」
「なんでそう思うんだね?」
「だって……優しいから、そういうひどいことはしないかと……」
「彼が優しいったってさぁ、無礼なことをされれば、さすがに引っ叩いてやめさせるんじゃないかい?」
「えっと、そうかもしれないけど」
「だけどあんたは彼が引っ叩かないって知っているんだね。つまりそれが無礼な行為に当たらないと考えている」
「頭が混乱してきました。……違います、無礼な行為ではあるけれど」
「でも彼はお前さんにキスされても、許すんだろう?」
「……分かりません」
「ていうかさ、キスくらいしてやりなよぉ。薄情な子だね! この男はあんたにこんなに尽くしてくれているのに、感謝はないのかい」
こんなに尽くしてくれているって、出会ってまだ数分なのに、自分とラング准将の何を知っているというのか。祐奈は眉尻を下げて老婆を眺める。
「キスは感謝の印になりません」
「なるよぉ。してみりゃ分かるよ」
「しません」
「しなよ」
「断固しません」
祐奈は『もう絶対にラング准将のほうは見ないぞ』と心に決めた。ミリアムにセクハラをされているあいだは、絶対に。
かたくなになる祐奈に対し、ミリアムは対照的だった。彼女は上機嫌で鼻歌を歌いながら、
「……こりゃあ、今夜は相当楽しめそうだね」
とぞっとするような呟きを漏らしたのだ。
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