12.氷の女王

第113話 眼鏡


 カナンを目指す北上ルートは、これまで通過してきたどの道よりも、変化に富んだ自然豊かな景色を楽しむことができた。


 たとえばある場所では、垂直に切り立った崖に左右を挟まれ、曲がりくねった小道が続いた。崖の表面には苔が生え、蔦が絡まり、上部より射し込む陽光を淡く反射して、瑞々しい輝きを放っていた。


 またある場所では、小川に沿った道が続き、遠くのほうに見事な滝を眺めることができた。


 断続的に鳥の鳴き声がどこかから響いてくるのだが、それはハミングのように感じられ、聞いているだけで心が安らいだ。


 危なげなく手綱を操っていたラング准将が、青い花が咲き乱れる木立のあいだで馬を止めた。昼休憩の時間だった。


 倒木の上にブランケットを敷き、ラング准将と並んで腰かける。辺り一面、同じ種類の花が咲いているさまは幻想的で、青い絨毯が広がっているようである。


 祐奈は膝の上にバスケットを置き、蓋を開けた。中にはベイヴィアの町を出る前に買っておいた軽食が入っている。


 購入した際に店主から聞いた内容から判断するに、どうやらブリトーのような食べものらしい。薄い生地の中に色々な具が挟まっており、綺麗に巻いてある。具はベーコン、フライドビーンズ、チーズで、スパイシーなソースも一緒に入っているのだそう。


 バスケットの中からラング准将のぶんを取り出そうとして、祐奈は少し躊躇った。


 外見のおさまりは良いが、気をつけて食べないと、齧った拍子に中身を零してしまいそうである。そのため食事に集中したいところなのだが、祐奈はその前に、どうしてもラング准将にお願いしたいことがあったのだ。


「――食べる前に、二十二個目の質問をしてもいいですか?」


 例の百問答に絡めれば、いくらか言い出しやすいかもしれない。


「構いませんよ」


 優しいラング准将は案の定、拒んだりはしなかった。


「すみません……これは質問というか、お願いというか……」


「どうぞ、おっしゃってみてください」


 祐奈はバスケットの蓋を一旦閉じて、ポケットから小袋を取り出した。


 そして袋から中身を出してから彼のほうに差し出す。緊張しすぎて少し手が震えてしまった。


「こ、これを……着けていただけないかと」


 ラング准将に着用を望んだものは、眼鏡だった。


 ――これは二つ前の拠点であるバノンの町で見つけ、祐奈が購入しておいたものである。度は入っておらず、ただの薄いガラスが嵌っている。バノンは変身薬を売りにしているくらいだから、文化的に、外見を変えることには並々ならぬ関心を払っているようで、このようなものも売っていたのだと思われる。


 フレームは大き目で、黒っぽい。わりと洒落ているというか、デザイン的には、現代日本でも見慣れている形に近かった。


 ――ところで祐奈がそれを購入した際、ラング准将は十三歳当時の姿に変身するために薬を飲んでおり、常ならぬ状態だった。副作用で精神にも影響が出てしまい、不覚にも幼い言動を晒してしまったようである。彼にはバノンで過ごした時間についての記憶がなんとなくは残っているものの、かなり頑張って思い出さないと、表に出てこないという状態だった。


 眼鏡を見て薄ぼんやりと――彼女が町歩きの際にこれを買っていた場面が浮かんできた。そして思い出すと同時に、『あれは彼女が使うために買ったのではなかったのか』と、ラング准将はちょっとした衝撃を受けたわけである。


 とりあえず無言で受け取ったあと、ラング准将はそれを指で弄び、たっぷり十秒ほど経過してから、静かな声で尋ねた。


「あの……なんのために?」


「なんのためと問われると、答えが非常に難しいです」


「私がこれを着けると、祐奈に何か得があるのですか?」


「あります」


「いや、ないでしょう」


「ありますってば」


「……謎が深まるばかりです」


 ラング准将は途方に暮れているのか、伏し目がちなまま、なかなか祐奈のほうを見ようとしない。


 もしかして、断られるのだろうか……。


 祐奈は彼のつれない態度に心がくじけそうになった。自分でも馬鹿げた頼みだと薄々分かってはいたのだ。だからバノンで買ったあと、ベイヴィアでも頼めずに、ここまで来てしまった。


 しかし祐奈は思ったのだ。もっと今を楽しむべきじゃないか、と。


 自分にはクリアしなければならない課題が山積みで、命の危険も去っていない。もしかしたら予想していないタイミングで死が訪れるかもしれない。


 ――だから常に気を張っているべきか? そう自分に問うてみれば、それは違うという気がした。


 いつも顰め面で、深刻になって考えごとばかりして過ごしていたら、生きている意味もない。笑ったり、胸を弾ませたり、心が安らぐ相手と馬鹿げたことを話したり……それは生きているあいだにしかできないことだ。だったらなるべく多くのことを経験しておきたい。お迎えがきたときに、後悔しないように。


 それにいつも優しいラング准将のことだ、眼鏡の着用を頼んだら、きっとフランクに「いいですよ」と、二つ返事で了承してくれるのでは? という期待もあったのだが……。


「嫌ですか?」


「嫌というか、祐奈が何を求めているのか、本当に分からなくて」


「単にラング准将の眼鏡姿を見たいだけなんです。お願いです。かけてくださったら、代わりに私を奴隷のように扱ってくださっても結構ですから」


 彼がやっとこちらに顔を向けた。


 微かに瞳を細め、考えの読めない表情で、じっと祐奈を見つめてくる。品が良く、物静かであるのに、どこか棘があるような不思議な圧を感じた。


「祐奈。――たった今、自らドツボに嵌まりに行ったことに気付いていますか」


「そんな馬鹿な。私は今、人生で何度かしか訪れないであろう、ビッグチャンスを掴みかけています」


「正気に戻れ、と声を大にして言いたい。あなたはものすごく奇妙なことを口走っていますよ」


「なんとでもおっしゃってください。とにかく私が熱烈にそれを求めていることを、ラング准将には知っていただきたいのです」


 普段弱腰な祐奈のくせに、今日ばかりはグイグイくる。


 ラング准将は諦め混じりに小さく息を吐いていた。


「そんなに見たいのですか……。理解に苦しむ。私が眼鏡をかけたところで、面白くもなんともないと思うのですが」


「面白いとか、面白くないとかじゃないんです」


「じゃあなんなんだ」


「私はラング准将が眼鏡をかけたところを見たい! 他の人がかけたところは興味がないんです。ラング准将だから見たいんです」


 ここまで熱心に言われると、いよいよ断れなくなってしまった。


 ラング准将は気が進まないながらも、眼鏡をかけてみた。……これでいいのか? 彼女のほうに顔を向けると、なぜか胸の前で手を組み合わせ、カチコチに固まっているではないか。


「……祐奈?」


 一方の祐奈は悶絶しそうになっていた。


 はぁ~、格好いい~……


 美形は眼鏡も似合うな。


「理系顔……ストイック、その上、華やか……どうなってんの……」


「祐奈が壊れた」


 怪訝そうな顔をしたラング准将がもう眼鏡を外そうとするので、祐奈は悲鳴に似た呻き声を上げていた。ええ~と、ああ~が混ざったような、謎の言語だった。


 それでラング准将は眼鏡を取るに取れなくなってしまったようだ。彼が躊躇いを見せたので、祐奈はさらにもっと押してみることにした。


「一生のお願いです。せめて昼食が終わるまで……」


「分かりました。……辱(はずかし)めを受けている気分ですね」


 ラング准将が淡々とした口調でそう返す。


 しかし祐奈のほうは頭がポワポワしていて、聞いちゃいないのだった。



***



 そしてだめもとで……


「できれば……『あなたは馬鹿ですね』と言ってもらえませんでしょうか」


 祐奈がおずおずと申し出ると(謙虚な態度だが、口に出している内容は結構なものである)、ラング准将が凪いだ瞳で見返してきた。


「祐奈。あなたは異性から冷たくされるのが好きなのですか?」


「いえ、違います」


「馬鹿だと言われるのは、かなり屈辱的だと思うのですが」


「普通はそうですね。だけどギャップでトキメキます」


「またギャップですか。前もそんなことを言っていましたね」


「ラング准将が普段親切なので、フィクションとして楽しめるのです」


「祐奈は私に罵られたい願望があるということですか」


 ……なんだろう。はっきりと言語化されると、変態的趣向を持っている事実を突き付けられた心地になる……。


「恥を忍んで認めるなら、そういうことになりますかね」


 祐奈の答えを聞いて、ラング准将は考えを巡らせているようだった。祐奈は彼の端正な横顔を眺めながら、『眼鏡をかけて考え込むラング准将』を心に刻んだ。


「今……私は心の中で、あなたにリクエストされた内容を呟いていたのですが……」


 ラング准将が結構な爆弾を落としてきた。


「それなら思うだけでなく、口に出してくださいませんと」


「いえ、口に出したら何かが終わる気がして」


 何も終わりはしない。ラング准将は真面目がすぎると思う。


 祐奈が納得していない気配を感じたのか、彼が小首を傾げて尋ねてきた。


「――相互理解のため、逆の立場になって考えてみましょうか」


「なるほど、いいですね」


「普段祐奈がしないような突飛な言動を目撃した場合、私の胸が弾むということですか」


「えっ……どうでしょう。そこは人それぞれなので……」


「あなたが普段しないようなことをすれば、びっくりはしそうですね」


「私の普段のイメージってどんな感じですか?」


「控え目で……まぁ今は違いますが……真面目。馴れ馴れしくしてこない」


「じゃあ反対となると、図々しくて、不真面目で、ふしだら」


 祐奈がそう言うと、彼が悪戯に瞳を細める。彼のやり口はなんとも優雅だった。――退路を塞ぎつつ、獲物を袋小路に追い詰めていくかのよう。


「ねぇ祐奈。私が頼んだら、そう振舞っていただけるのですか?」


「え? なぜ?」


「だってあなたも私に反対の言動を取ることを望みました」


「でも、たった一言ですし」


「こうして眼鏡もかけてあげたので、結構な負担を強いられていますよ」


「う……そう言われてしまうと……」


「図々しくて、ふしだら。――さぁどうぞ。やってみて」


「む、無理です」


「おや、やってもみないうちから弱音を吐くのですか」


「……ラング准将、本当に私のふしだらな姿を見たいのですか?」


 絶対見たくないだろう、なんなんだ貴族の遊びか、と責める気持ちで尋ねれば、


「本当に見たいですよ。人生で何度か訪れるであろう、ビッグチャンスを掴みかけているかもしれません」


 と先ほど祐奈が口にした台詞を引用されてしまった。


 祐奈は言葉もなかった。彼がいたぶるように優美に祐奈を流し見る。


「――『エド。跪き、私の足にキスしなさい』――ほら、言ってみて?」


 祐奈は土下座したい気持ちになってきた。


「あの、ラング准将。数々の無礼、申し訳ございませんでした」


「祐奈ってほんと……馬鹿ですね」


 眼鏡をかけた彼がくすりと笑みを漏らす。


 それで……想像していた以上にキュンとさせられた祐奈であった。



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