第110話 『古語解析』プラスワン
聖具室に『叡智の鏡』が飾られていた。
立ち会い人として控えていたロッドが伏し目がちに祐奈たちを出迎え、鏡の前にいざなった。
「取り込む魔法についての注意事項がございます。こちらの聖具は選択型ですが、習得できない魔法もいくつかあります。――それは火、水、氷、風、雷、大地の魔法です」
これに祐奈は出鼻をくじかれてしまった。ロッドがどうこうというのではないのだが、ベイヴィア大聖堂の司教に対しては少し思うところがある。
――選択型と聞いていたのに、習得できない種類が多く、後出しがすぎるのではないだろうか。
朗読係の選定を引き受ける前に、このことをちゃんと聞かされていたなら、だいぶ印象も変わったはずだ。あらかじめ『習得できない魔法が結構ある』という条件を通知されていたとしても、おそらくベイヴィア大聖堂からのオファーを引き受けていたと思う。――だからこそ正直でいて欲しかった。こんなふうにされると、残念な気持ちがどうしてもしてしまう。
お喋り好きなあの司教がこの場に居ないのも、隠しごとをしていた後ろめたさがあったからではないか? と勘繰ってしまうのだった。
祐奈はロッドの顔を眺め、彼に言っても仕方ないなと思ったので、この件に関しては口にしないことにした。そして一度口にしないと決めたのなら、あとになって蒸し返すのもナシにしないといけない。
気を取り直してみると、元々『古語解析の魔法を習得したい』と考えていたので、これはこれでちょうどいいのかもしれなかった。もしも制限がなかったならば、『攻撃魔法を習得しておくべき』となっていただろうから。
「――では『古語解析』を習得することにします」
祐奈がそう告げると、ロッドが不意を突かれたような顔付きになった。それで祐奈は躊躇いがちに尋ねた。
「あの……まずかったですか?」
「え、いえ――ですが祐奈様は、本来ならば、その必要はないかと……」
「どうしてですか?」
「レップ大聖堂で習得したはずでは?」
ロッドはすっかり戸惑っている。
――レップ大聖堂で、『古語解析』を? 祐奈はこれに虚を衝かれた。
オズボーンは一体どういうつもりだったのだろう? なぜ古語解析を習得させなかったの?
「ええと……レップ大聖堂では、魔法習得を行いませんでした。ちょっと事情があって」
動揺しつつも祐奈が説明すると、ロッドはなるほどというように頷いてみせた。
「ではこちらで古語解析も習得できます。本来ならば、一つ手前のレップ大聖堂で学べるものですから」
「良かった」
「――そしてその他に、もう一つ」
「え?」
「もう一つ魔法を入れることができます」
そんなことって……。祐奈は呆気に取られたものの、大聖堂側が『可』というのなら、ありがたく受け入れることにした。
どうにも奇妙な成り行きだった。
祐奈は『回り道が吉』という女司教ビューラの言葉を思い出していた。幸運は一つというわけでもないのかもしれない。ここでも良いことがあった。
『――古語解析――』
呪文名を唱えてからブレスレットをはめた左手で鏡に触れる。鏡面が淡く光り、取り込みは呆気なく完了した。
祐奈はラング准将のほうを振り返った。
「遺跡内で見たあの古語ですが、覚えていらっしゃいますか?」
「ええ」
彼が歩み寄って来た。だいぶ日数がたっているのに、さすがの記憶力だ。
「すみません、ロッドさん。何か書くものをお貸しいただけますか?」
魔法をもう一つ習得する前に、疑問を解消しておきたかった。内容によっては、習得魔法を考え直す必要もあるかもしれない。
「書くものをお貸しするのはもちろん構いませんが……遺跡内の古語を調べたいのですか?」
「はい。私たちは事故のような成り行きで、カナン遺跡からローダー遺跡へ転移して、ここへ辿り着きました。ですから遺跡内で見たものの意味を知りたいのです」
「それでしたら、銅板に刻まれた文字は、こちらに写しがありますよ」
「そうなのですか?」
「ベイヴィア大聖堂では、ローダー遺跡、カナン遺跡の両方を管理しているのです。ここはその中間地点に位置しているので。写しは、確か――」
彼は壁際の書棚に向かい、分厚い装丁の本を抜き出した。パラパラとめくり、次の本へ。
「ああ、これだ」
ロッドがそばにあった机に本を置いたので、祐奈とラング准将もそちらに向かった。
「――こちらのページが、ローダー遺跡の赤い扉横に記されたメッセージです」
祐奈は紙面に視線を落とした。
確かに見覚えのある記号の羅列だ……そんなことを考えたあとで、すぐに変化が起きた。まるで炙り出しのように、新しい記述が浮かび上がってきたかのよう。意味が分かる。読める。
『聖女の腕輪で触れよ。とどまるなかれ』
祐奈は音読したあと、ラング准将の顔を見上げた。彼は微かに瞳を細め、祐奈を見つめ返してくる。アンバーの澄んだ瞳。彼は時折、天上に住まうもののように、神秘的な雰囲気を纏うことがある。今がそうだった。
彼は泰然としていたし、どこか謎めいてみえた。
「この文言は、北壁に埋め込まれていた緑の石板にも刻まれていました。そしてカナン遺跡にあった、赤い扉横の銅板にも同じものが」
「ああ、そうでしたね」
ラング准将から整理して伝えられると、そうだったなとぼんやりと思い出せるのだが、記憶が少し曖昧だった。
「……内容が違ったのは、カナン遺跡の南壁にあった、青い石板でしたっけ?」
「そうです。あれだけ違いました」
ロッドがページを何枚かめくり、該当のものを探し出してくれた。
「こちらがそれかと」
祐奈は紙面を見おろし音読した。
『そばに寄るなかれ。接触を聖典が強く禁ずる。接触無効、魔法無効』
なんだか茫然としてしまった。得体の知れない気持ち悪さがある。なぜだろう。
祐奈は文言をまじまじと見つめるうちに、ある理解に至ることとなった。
――ああ、これか――オズボーンがレップ大聖堂で魔法習得しないほうがいいとアドバイスした理由は。
祐奈は古語解析を習得していなかったからこそ、あの青い石板に触れてしまった。もしも読めていたなら、ここまで強く禁じられているのだからと、生真面目な自分は素直に従ったはずだ。
あるいは――触れたとしても、『接触したところで何も起きない』と思い込んでいるから、あのイレギュラーな転移現象は起こらなかった可能性が高い。
無知ゆえの強みというものがある。祐奈は何も知らないことで、かえって実力以上の力を発揮し、異常な事態を引き起こしてしまったのだ。
そして全てが変わった。
祐奈はこうして今もまだ生きている。そして赤い扉の脅威も消え去った。
オズボーンが純粋に親切でそうしたのかは不明である。いや……むしろ逆なのかも。
――というのも彼を見ていると、適度に混乱を引き起こしながら、状況を上手く整えていっているという印象を受けるからだ。
あらかじめしっかりした計画を立ててしまうと、その強固な縛りがネックになってしまう場合がある。だから遊びのような余白の部分を残し、張り詰めすぎて脱線しないように調整しながら、計画をまとめ上げているのではないだろうか。
「――接触を聖典が強く禁ずる――少し違和感のある表現ですね」
ラング准将の言葉を聞き、確かにそうだと思った。――『そばに寄るなかれ。接触を聖典が強く禁ずる。接触無効、魔法無効』
「その前の『そばに寄るなかれ』で意図はすでに伝わっていますよね。さらに『接触を聖典が強く禁ずる』と続けるのは、だぶっていて無駄な記述のような……」
「そばに寄らなければ、触れることは叶わない。そして次の『接触無効』で、触れても意味がないことまで伝えている」
ロッドが口を挟んだ。
「これは重ね掛けですね」
「重ね掛けとはなんですか?」
「まじないや縛りの一種です。聖典は元々、強固な影響力を有しています。世界を支配している。その聖典の名において、ここまで強く禁じているので、魔術的な拘束力が強められているのです。――祐奈様はカナンからローダーに転移したとさっきおっしゃっていましたが、それは禁忌の領域ですね。人の領分を越えている。なぜそれが起きえたのか、とても不思議です。だって聖典が強く禁じているのです。カナンの青い石板は、ただの受け手であるはずで、例外はないと私は習いました。魔術的に強固な代物だから、それ以外の役割を果たすことは絶対にありえないのだと」
祐奈はロッドの話を聞きながら、軽く眉根を寄せていた。
「あの……説明が難しいのですが、私は時間を戻す魔法を習得しています。それが奇妙な形で作用して、空間にも影響を与えたのではないでしょうか? つまり――AからBへ移るところを、BからAへという具合に」
「考えづらいですね。時間を逆行させる魔法で、場所が逆行したことになる。戻る――循環――確かに逆流するようなイメージは受けますが、それにしても違和感は消えません。どのみちあの石板は、聖典がルールを強固に定めていますから、何をしようが外部の力が働くはずはないのです」
「けれど実際に起こっている」
「聖典の意表を突くなんらかの要素が加わったのでしょうか。針の穴を通すように、それが盲点をついた。とにかく――時間を戻すのなら、厳密にいえば、千年前に戻らなければおかしいと思うのです。逆向きに働くならば、986年前、ローダーからカナンに転移したのと同じ聖女がこの地に復活して、その人物がカナンからローダーに戻らなければ辻褄が合わない。すでに亡くなって長い年月を経ているために、それが叶わなかったというのなら、そもそも転移の逆流現象自体が起こらなかったはず。条件を満たさなければ、エラーとして弾かれてそれで終わりになるのが普通ですので。……それにラング准将も一緒に移動されたのですよね?」
「そうです」
「ならば余計にありえないのです。人間二人分を転移させる――聖典の力を借りずに。これは驚くべきことです」
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