第109話 『祟りの宿』の噂
――ところでこの時、室内には祐奈、ラング准将の他にベイヴィア大聖堂の修道女が一名いた。彼女は先日バーバラに蹴飛ばされ尻もちをついていた、老齢の女性である。
あの二人から虐げられていた彼女は、祐奈に対して好意的だった。手紙を届けたあともここに残り、お茶の用意をしてくれていたのだ。
カップをお湯で温めながら、彼女が物言いたげにこちらを見ていることに祐奈は気付いた。
「どうかなさいましたか?」
不思議に思って尋ねると、修道女は慎み深く躊躇いをみせたあと、思い切った様子で口を開いた。
「お話の邪魔をしてしまって申し訳ございません。――聖女祐奈様はこれから北上なさるのですね? そのルートを通行する際の決まりはご存知でしょうか?」
祐奈は何も知らない。ざっくりした地図が頭に入っているだけだ。ラング准将のほうを見遣ると、彼が会話を引き受けてくれた。
「予定になかったルートなので、詳しいことを知らないのです。何か注意したほうがいいことがあるのでしょうか?」
ラング准将の語り口は穏やかで丁寧だった。修道女に対する気遣いが見て取れる。
社会的立場では圧倒的にラング准将のほうが高位であるのだが、相手が老齢であることや、神職に就いているということで、敬意を払っているのだろう。
たとえば「ありがとう」だとかの、ちょっとしたお礼を言う際などは、比較的フランクに接することが多いのだが、彼の態度はいつも柔軟だと感じる。変な意地を張らずに、場面に応じて適切な対応を選べる人だ。
そっくり返って威張らなくても、目下の者に丁寧に接していても、ラング准将はとても立派に見える。そのような態度がかえって彼の価値を高めているように祐奈には思えるのだった。
親切であることでラング准将が誰かから侮られることはないはずだし、万が一そんなことで彼を舐めてかかる人間がいるとするならば、その人物は救いようのない愚か者ということになるだろう。
修道女はラング准将の振舞いが温かかったので、安心した様子だった。
「北に抜けるには山間の道を進むことになります。北といっても、正確にいうと『北西』の方角に抜ける形ですね。――地図で見ると道幅がそこそこ広く感じられるのですが、道中何か所か隙間をすり抜けるような小道になっている部分があり、馬車では通り抜けることができません」
「我々は馬で進むつもりです」
「祐奈様はお一人で馬に乗れますか?」
「いいえ。私の馬に彼女も同乗する形ですね」
「それは困りました……」
修道女が案ずるような顔つきになった。
「馬は最低でも二頭、通常ならば三頭は必要です」
「なぜですか?」
「どんなに急いでも、一日でカナンまで辿り着くのは不可能です。途中で一泊する必要がございます。ちょうど中間地点に小さな宿があるのですが、そこを経営している老婆が少し変わっておりまして、金銭は受け取りません。泊めてもらうには、小麦やワインなど、かさばって重い食料を納めないといけないのです」
「その宿は女性一人で切り盛りしているのですか?」
「ええ。私が知る限り、ずっと彼女一人で。最近では目も大分悪くなってきているようで、かなり不自由しているのではないかと思いますが」
「老齢の女性だと馬に乗るのも難しいでしょうから、自分で町に出て食料品を調達するのを諦めて、旅人から宿代として貰うことにしたのかな」
「そのようです。ワインは彼女が飲むわけではなく、宿に泊まった人に出すために欲しいらしいです」
『宿泊客に振舞うため、宿泊客から納めてもらう』というルールはなかなかユニークだと祐奈は思った。
ラング准将は少し考えてから、
「事情はよく分かりました。しかし馬二頭で進むのは状況的に難しいですね。なんとか一頭に積めるだけ積んで進むしかなさそうです。それでも足りないと宿泊を断られたら、野宿を選ぶしかない」
彼の口調に微かに躊躇いがあるのは、祐奈を気遣ってのことだろう。彼は野営も慣れているだろうし、自分だけなら全く気にしないだろうから。
祐奈はそっと口を挟んだ。
「あの、私も大丈夫です。慣れていませんけど、ラング准将がいらっしゃるなら」
これで解決かと思いきや、修道女の顔は晴れない。
「それがその……宿にはお泊まりになったほうがよろしいかと思います」
「外は物騒ということですか?」
「いえ……その老婆を怒らせないほうがよいということです。老婆には不思議な力があり、彼女に敬意を払わぬ者がいれば、その身に恐ろしいことが降りかかると言い伝えられております。『北に抜けるには、宿に泊まり、老婆に捧げものをし、祝福を受けてから進む』というのが、山道のルールです。それを破り、祝福を受けずに進んだことで、事故に遭って亡くなった者も多いのです」
山の神のような扱いなのだろうか。祐奈はこの世界に来てから魔法も習得したこともあり、スピリチュアルな概念はかなり身近なものになっている。
しかしこれに関してはどうなのだろうという気もしなくもなかった。『祟り』だという思い込みで、実体のないものを恐れているだけではないか?
というのも、老婆が祝福を授けないと死ぬというのなら、『その老婆が住み着く以前はどうだったのか?』『あるいはその老婆が亡くなったあとはどうなるのか?』という点が疑問になってくるからだ。
たまたま何人かが彼女の宿に泊まらずに亡くなったことで、噂に尾ひれがついてしまったということではないのだろうか。
ラング准将も基本的には祐奈と同じ考えを抱いたようだ。ただし彼は慎重だった。
「私はその手の話を鵜吞みにはしません。しかしこのケースでは従ったほうがいいとも思っています。というのもその女性は高齢で一人暮らし、目も悪いというのでは、旅人が運んでくる物資が命綱なのでしょう。法外な報酬を要求しているわけでもなく、金銭のかわりに食料を欲しているだけだ。例外を作って、『彼女を無視しても通れた』となってしまうと、少し気の毒な気もしますので」
確かにラング准将の言うとおりだった。
とはいえ、馬一頭では積み切れないくらいの食料を求めているので、グレーというか、一泊の相場よりも高いような気もしている。
修道女は地元の人間であるせいか、老婆に対して好意的だった。
「老婆を無視すると事故に遭うというのは怖いことですが、逆に考えれば、ルールを守りさえすれば身の安全は保証されるのですから、従っておいたほうが無難だというのが皆の見解です。――求められる食料の量が多いという声もありますが、冬のあいだは通りが封鎖されて行き来ができなくなるため、通行できる期間に食料を備蓄しておきたいという、切羽詰まった理由もあるようですね」
「なるほど」
ラング准将は納得できたようだ。祐奈もまた、冬のあいだのぶんを備蓄しておきたいという事情が知れたので、すっきりした気分だった。
彼がこちらに視線を移し、告げた。
「馬のことはあとで考えましょう。とりあえず魔法を先に」
「そうですね」
なんの魔法を入れるか――そちらのほうが先に考えなければならない問題である。
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