第107話 今、ヴェールを取りたい、と祐奈が言い……


「あれ……クロスに不思議な模様が……」


 ダイニングテーブルには白いクロスがかけられていた。そこに黒い幾何学模様が浮かんでいるように見えて、祐奈は指を伸ばして布の表面をなぞった。


 テーブル上には花瓶やら燭台やらの飾りが何も乗っていなかったので、祐奈が擦るとクロスがそのままよじれて動く。――布が動いているのに、模様は同じ位置からまるで動かない。奇妙だった。


 ラング准将が落ち着いた声音で指摘する。


「それはヴェールの影ですよ」


「なるほど……」


 祐奈は感心してしまった。俯きながらヴェールに触れると、確かに影も動く。そうしているうちに、なんだか意識がはっきりしてきた。


「祐奈、相当酔っていますね」


「酔ってはいたのですが……でも、だいぶ醒めたようです」


「信じがたいな。ちょっと前まで馬鹿なやり取りをしていたのに」


 ラング准将が結構な毒を吐いた。


「本当に醒めてきています。やり取りの大部分は覚えていませんが、直近の記憶はほんのちょっとありますよ。ラング准将ができもしない口約束をしたこととか」


「ああ良かった。そこは覚えていたのですね」


「良かった、ですって? 全然良くないけど……」


「あのやり取りを魂に刻んで、忘れないでください。将来、あれをネタにして、あなたをからかうことにしますので」


 ……ネタにされて困るのはラング准将のほうでは? と祐奈は思った。できもない口約束をしたのは、彼のほうなのに。


 納得はいっていない祐奈であったが、酒が切れかけた状態では、憎まれ口も出てこなかった。


「……本当に酔いが醒めてきている?」


 ラング准将に改めて尋ねられ、祐奈は頷いてみせた。


「本当ですとも!」


「受け答えが、どうにもらしくない」


「ちょっとまだ余韻が」


「じゃあ、壁まで歩いて、戻って来てください」


 祐奈は言われたとおりにしてみた。――少しゆっくりではあったけれど、蛇行もしていないし、普段の歩き方にかなり近かったので、ラング准将もやっと信じる気になったようだ。


「疑ってすみませんでした」


「いえ。私、なんだか……変な気分で」


「祐奈?」


「しらふに戻りかけているけれど、でもまだお酒が少し残っているせいかな。……ねぇ、ラング准将。あなたと約束しましたね。私から百個質問をして、あなたが答える。全部終わったら、私はヴェールを取ると」


「ええ」


「まだ百個、終わっていないのですが……」


「そうですね。まだあと九十個くらい残っています」


「でも私、今――ヴェールを取りたい。グロリアさんとバーバラさんを見ていて思ったんです。顔の美醜なんて本当に些細なことだなって。それよりも他人に迷惑をかけないで、思い遣りを持って生きていくほうが、人としてうんと大事なことだって。……約束の条件が満たされていないのに、私がここでヴェールを取ったら、軽蔑しますか?」


「しません。あなたが決めたことなら」


 祐奈は深呼吸してからヴェールの端に手をかけた。


 心臓がドキドキしてきた。


 やはり常ならぬ状態ではあるのだろう。意識はしっかりしているように自分では感じられるのだけれど、あとになってみたら、『あの時は酔っていたな』と思うのかもしれない。


 けれどこんなふうに勢いで進めてみるのも、いいのかも。堅苦しいことは抜きにして。


 祐奈が思い切ってヴェールを外したのとほぼ同時に、ロッドが部屋に入って来た。


 彼はノックをしたあと、こちらの返事を待たずに部屋の扉を開けたようである。


 ラング准将から水と食事を頼まれていたロッドは、『待っているだろうから、早く』と考えていたのかもしれない。


 祐奈たちにあてがわれた部屋は、扉を開けるとすぐにリビングに出られる造りになっていた。つまりカートを押して入室して来たロッドは、視線を向けるだけで、佇んでいる祐奈の姿を見ることができるのだ。


 彼が手元のカートに落としていた視線を上げる。


 ――視界から黒の紗が取り払われた瞬間、祐奈は激しく混乱してしまった。というのも、一瞬で目の前が真っ白になったからだ。


 清水の舞台から飛び降りるくらいのつもりでヴェールを取り払った祐奈は、ふと気付けば、なぜか頭から白いテーブルクロスをかぶせられていた。


 祐奈がこれをしたわけではないから、やったのは当然、近くにいたラング准将だろう。


 クロスに四方を覆われている祐奈は、突っ立ったまま動けずにいた。そして布越しに、遠くのほうで、ロッドが驚きの声を上げるのを聞いていた。


「え……オバケの仮装でもしているのですか?」


 祐奈は目の前の白を眺めながら、段々と冷静になってきた。


 世界が狭まったことで、一気に客観性を取り戻せたのかもしれない。


「ちょっと、ひどくないでしょうか……?」


 小さく呟きを漏らす。ラング准将は『あなたが決めたことなら』と言ったのに、こんな形で前言を撤回するなんて。


 ……けれどまぁ、こうなってみるとなんだか、これはこれで良かったかなという気もしてきた。やっぱり約束は約束だから、ヴェールを外すのは、百個終わってからのほうがいい。


 ラング准将もそう伝えたかったから、こうしたのだろう……。


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