第101話 ついフラっと……


 ゴージャスなバーバラがやって来た。


 彼女はソファの対面に腰を下ろし、長い足を組んだ。彼女の豪奢な金髪にはウェーブがかかっていて、こうして見るとやはり迫力がある。


 バーバラは口元を歪めるようにしてニヤニヤ笑いを浮かべ、祐奈のほうを眺めてくる。


「――ねぇ、あのチンチクリン女のグロリアを選んだりはしないでしょう?」


 そう問われて、祐奈は軽く眉根を寄せてしまった。


「どうして私がグロリアさんを選ばないと思うのです?」


「だってあの子、みすぼらしいじゃない。顔もタヌキみたいだし。見栄えがちょっとね」


「私は顔で選ぶつもりはありませんよ」


「ああ、自分がブスだから?」


 小馬鹿にしている口調でもない。それはサラリとした物言いであったので、彼女の飾らぬ本心が零れ出たという感じだった。


「私の顔は関係ないです」


「だけど顔で選ぶべきよ」


「いえ、上手に朗読できるほうを選ぶつもりです」


「あのさぁ、本気で言っている?」


「何がですか?」


「皆が朗読係に何を期待しているか、分かっていないの? ――娯楽よ、娯楽。典礼なんて退屈なんだからさ、ゴージャスな美女が読み聞かせてくれたほうが、皆楽しめるでしょう?」


「けれどあなたは読み間違いが多いと伺いましたが」


「はぁ? あの女がそんなことを言ったの?」


「事実ですか?」


「事実なもんですか! 私はちゃんと読めるんだから。スラスラ読める」


 ロッドは扉近くの位置に戻っていた。チラリと彼のほうを見遣ると、ロッドが『嘘です』というように小さく首を横に振ってみせた。……やはりバーバラは読み間違いが多いらしい。


 祐奈は視線を戻した。


「バーバラさん。ここで嘘をついても、あとで実技テストもありますから、いずれバレますよ。話がややこしくなるだけですから、欠点は正しく認めて欲しいのです。――読み間違いが多いですよね?」


 バーバラは節を取るようにしばらく貧乏揺すりをしながら、祐奈のほうを眺めていたのだが、やがて奥歯を噛み、渋々それを認めた。


「……まぁ、そうかもね。でも、文字が読めないわけじゃない。たまに読み間違えるだけよ。ごくたまにね」


 バーバラは欠点を認めさせられ、苛立ちを覚えたようだ。


 修道女が彼女にお茶を出してあげたのだが、一口飲んで思い切り顔を顰めたのだ。バーバラはソファの背にふんぞり返るようにして、修道女を険しい顔で睨み上げた。


「なんで砂糖が入っていないのよ、このくそ婆(ばば)あ!」


 バーバラは話に夢中になっていたので、修道女が給仕する様子をまるで見ておらず、口に含んで初めて気付いたようだった。


 シュガーポットは卓上に置いてある。自分で足せばいいんじゃないかと祐奈は思ったのだが、ここでは修道女が給仕の際に入れてあげるという、暗黙のルールでもあるのだろうか。


 注意された修道女は目を丸くし、顔を強張らせている。(ちなみに先ほどグロリアに怒鳴られた修道女とは別の女性だった)


「けれどあの、太るから要らないと以前おっしゃっていたかと……」


「今日は甘いのが欲しかったのに、気が利かないんだから! あんたの薄ぼんやりした幸薄そうな顔を見ていると、ムシャクシャするわ」


 他者を罵っている時のバーバラの顔は、般若のように歪み、どこにも美しさがなかった。悪口を言っているとこういう顔になるのかと、祐奈は頬を叩かれたような衝撃を覚えた。


 ……気をつけよう……


 だけどまぁ、祐奈の性格からして、誰かをこうも悪しざまに罵ることは、おそらく一生ないであろうけれど……。


「――もう結構です。お引き取りを」


 彼女にはこれで退室いただくことにした。怒鳴り声はもう沢山だと思った。



***



 祐奈とラング准将はあてがわれた部屋に入った。二人きりになり、ホッと息を吐く。


 閉じた扉の前で立ち止まり、なんとなく顔を見合わせる。普段端正なラング准将が、なんだかぐったりしているようにも見えた。


 彼は扉に肩をくっつけ、気だるげに祐奈を見おろす。


「……疲れた」


 こんなふうに退廃的な気配を纏われると、ぐっと色気が増すというか、祐奈は心臓がドキドキしてきた。祐奈は彼の整った面差しを見上げながら、気を紛らわせるように口を開いた。


「そうですね。疲れました」


「祐奈はよく頑張りましたよ」


「そうですか?」


「……もうこの騒動には関わりたくないな」


 彼が後ろ向きな台詞を口にするのは珍しい。祐奈はなんだか心配になってしまった。


「あの……大丈夫ですか?」


「普段、祐奈の声を聞いているので、甲高い声に耐性がない」


「私も普段、ラング准将の声を聞いているので、甲高い声に耐性がありません」


 なんとなく可笑しくなって祐奈が微笑むと、彼も同じように柔らかな笑みを浮かべた。ヴェール越しでもちゃんと意思疎通ができていることに、祐奈は安らぎを覚えた。


 王都シルヴァースを出てから、長い時間を一緒に過ごして来た。――時折まだラング准将はミステリアスだなと感じることもあるけれど、彼の話すテンポや、笑みを浮かべる時の静かな間が、自然と馴染んできている。


 祐奈がそう感じているということは、たぶん彼のほうもそうなのだろう。


「あの二人の怒鳴り声が夢に出てくるかもしれません」


「……あなたは今夜、彼女たちの夢を見るの?」


 責める権利などないのに、祐奈が思わず漏らした呟きには、否定的な響きがこもっていただろうか。


 ラング准将がじっとこちらを見おろしてくる。瞳は凪いでいてどこか茫洋としているのに、とても綺麗だった。彼は多くを語らなくても、視線一つでこちらの感情を揺さぶることができる。


 祐奈は自分が小さなイカダに乗って、波間を漂っているような心地になっていた。


「――祐奈」


 彼が呼ぶ名前は、どうしてこんなに甘く響くのだろう。声が消えても、熱が逃げずに、この場に漂っているかのよう。


 彼の手が伸びてきて、腰を引き寄せられる。強引ではなく、気を惹くような滑らかな動きだった。


 祐奈は頭がぼんやりしてきて、フラつくように半歩足を進めていた。勢いがつけば、もう抗えない。適切な距離感だとか、保つべき節度だとか、全てが頭から吹っ飛んでしまいそうだった。


 ああ、もう、何も考えられない――……


 祐奈が彼の懐に飛び込もうとしたその瞬間、無粋なノックの音が響いた。


 二人は扉にほとんど寄りかかっていたので、その音は体の芯のほうまで響いた。


 祐奈は目の前でパチンと手を叩かれたような心地で、ハッと思考がクリアになった。


 今、私、何をしようとした……? 急に素に戻ったことで、一気に羞恥が込み上げてくる。


 対し、ラング准将はまだ退廃モードから抜け出せていないようだった。瞳を伏せ、呟きを漏らす。


「……私も花瓶を放り投げたくなりました」


 なんだろう。真顔だし、平坦なトーンだし、言い方は実感がこもっていたのだが、内容が過激なので、やっぱり冗談なのかな……?


 祐奈が何か言おうとしたところで、ふたたびノックの音がした。


「――今開ける」


 珍しくラング准将が苛立ちを声音に滲ませている。


 少し感情的になっている彼を見ると、先ほどの妙に艶めいた様子が思い出され、祐奈は顔が熱くなり、俯いてしまったのだった。



***



 訪ねて来たのはロッドだった。


 彼を招き入れた際、微妙な空気が流れたような気がする。ギクシャク……というか、なんとも変な感じ。


 ラング准将はすっかり感情を殺しているようで、かえってそれが祐奈からすると不自然に感じられた。彼は普段、寡黙にしていても、こんなに排他的ではない。


 ロッドはロッドで、ラング准将のほうをチラチラと気にしているようだった。


 宿泊用にあてがわれた部屋はスイートタイプで、リビングが中心にあり、寝室が五つもついていた。聖女用に立派な部屋を用意してくれたようだが、ラング准将と二人では広すぎる気もする。――けれどまぁ大は小を兼ねる、だろうか。


 リビングにロッドを通し、ソファに腰かける。私室の中でのことなので、ラング准将も同じ席に着いた。長椅子の隣同士に祐奈とラング准将、ロッドが向かい側の席という配置になった。


「――改めてお詫びいたします。候補者二名が、大変失礼な態度を取り、申し訳ございませんでした」


 ロッドが深々と頭を下げる。


「彼女たちはやりたい放題に見えましたが、指導できる方は誰もいらっしゃらないのですか?」


 祐奈が不思議に思って尋ねると、ロッドの顔に苦悩の色が滲む。


「朗読者候補が決まると、各々に修道士が一名ずつ付き、公私共に指導を行う決まりになっています。――若いご令嬢が朗読係を務めるとなると、敬虔な信徒ではない場合も多々ありますから、指導係が厳しく教え込むというのが慣例だったのです。その形で前回までは上手くいっていたのですが、今回はとにかく候補者が強すぎて。すでに両手の指では足りない数の指導係がクビにされています」


「有力者の娘だから逆らえない?」


「そうですね、確かにそれはあります。でも、それだけでもないのかも」


「どういうことですか?」


「お会いになったのでお分かりかと思いますが、あの二人はとにかく強いのです。私はこれまで生きてきて、あそこまで強情で、我儘で、自己主張の強い女性には会ったことがありません。何か一つ言えば、十返って来るという具合で、手がつけられないのです」


「同じくらい強い指導係はいなかったのですか?」


「クビになった者の中には、気骨があり、厳しく指導しようと考えた者もおりました。しかしあの二人はそんな時ばかりはタッグを組み、卑劣な手練手管を弄して、指導係に汚名を着せてしまいました。――結果、気の毒な指導係は追放です。グロリアもバーバラもなまじ知恵が回るので、どうしようもなくて」


 汚名を着せられる悔しさ、惨めさは祐奈にもよく理解できる。


 そしてそのような経緯で追放されたのなら、他の場所で同じ職に就くのは難しくなるのではないだろうかと、その点も気になった。――人生無茶苦茶、お先真っ暗というやつだろう。


 そんなさまを見せられたら、ベイヴィアの修道士・修道女たちが委縮してしまうのも無理はない。まるで鞭で躾けられた奴隷のようだと祐奈は思った。


「それはひどいですね……」


「もうどうしたものか」


「あの……こんなことを言ってはなんですが」


 祐奈は躊躇ったあとで、思い切って続けた。


「ロッドさんは彼女たちに気に入られているのではないですか? きっとあちらも手加減してくれるでしょうから、あなたが指導に当たられてはいかがでしょう?」


「私が介入すると、二人が大喧嘩を始めるので、余計に手がつけられなくなるのです。――やれ、相手のほうが長く会話しただの、自分をもっと優先しろだの。……私が大人しい性分で怒らないのを見抜いていて、なめてかかっているのです」


 一度なめられてしまうと、印象を変えるのは難しいだろうなと祐奈も思った。


 ロッドがムカつくと拳を振るうようなタイプであれば、男性としては最低であるけれど、彼女たちもああはなっていなかったもしれない。


 ロッドは二人の女性に熱烈に愛されている。贅沢といえば贅沢ではあるけれど、当の本人はこの上なく不幸せそうだった。


「――グロリアさんとバーバラさん、あなたはどちらがお好きなのですか?」


 勉強ができる童顔なグロリアか、読み間違えが多いけれどゴージャスなバーバラか。


 祐奈の問いにロッドの眉間の皴が深くなった。


「どちらも好みではありません。むしろ苦手というか、嫌いなタイプです」


「そうでしたか……」


 考えようによっては、どちらが一方を気に入っているよりも、そのほうがいいのだろうか? ロッドが片方を贔屓した場合、血の雨が降りそうだし……。


「私は彼女たちとは真逆の、心優しい女性が好きなのです。穏やかで情緒が安定していて、少し気弱なくらいがいい。声も可愛くて、華奢で、常識があり――」


 ロッドが少し前のめりになり、声音に熱を込めて好みのタイプを語り始めたのだが、ここまでずっと聞き手に徹してたラング准将が、一言、


「――ロッド」


 と名前を呼んで制止をかけた。ふたたび、犬を躾ける時の言い方だった。


 これを受けてロッドはピタリと口を閉ざし、気まずそうにうなだれてしまった。



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