第100話 お触りは禁止


 ――グロリアが対面の席に腰をおろし、嫌な目付きでこちらを眺め回し始めた。


 彼女は本当になんというか、絵に描いたようないじめっ子の気配を漂わせている。嘲り、マウントし、なんとか相手の上に立ってやろうというようなところがあった。


 万が一にも他の誰かが自分より優れているなんて、絶対に許せない人なのだろう。だから他者の欠点を探す癖がついている。


 ……そんなに『あなたはすごい』『一番優れている』『他はクズ』と称賛されたいものだろうか? 祐奈にはその感覚がよく分からない。世の中、上には上がいるのだから、凡人のスペックで勝ち続けることなど、到底不可能でしょうに……と思ってしまうのだ。


「ねぇあなた、あの馬鹿女を選んだりしないでしょうね? バーバラは文字もまともに読めないのよ」


「それは信じがたいです。彼女は名家の出身だと伺っています。幼い頃から教育係がついていたのでは?」


「先生に教わってきたとしても、馬鹿は馬鹿」


「さすがに読み書きが一切できないとは考えられないのですが」


「まぁ簡単なものなら読めるんじゃない? でも朗読係には教養がないとね。古語まではいかないけれど、典礼で読み上げるものは、現代的な言い回しとは違うんだから。お馬鹿ちゃんが朗読係になってさ――変な発音をしたり、言い間違いをしたり、ってことがあったら、大聖堂の恥になるでしょ」


「けれど、彼女は声がいい」


「はぁ? あんた馬鹿なの?」


 グロリアが鼻のつけ根に皴を寄せて吼える。


「声質だけで選ぶならさ、楽器でも鳴らしておけばいいよ! 意味も分からず聖書を音読してさ、意味ある? ありがたくもなんともないじゃん。あの女はね――『朗読係をしたい』って言い張るなら、もっとまじめに勉強すべきなんだよ。マジで馬鹿すぎ」


 ところでグロリアの声質であるが、バーバラと比べるとかなり劣ると感じられた。舌足らずであるし、変な抑揚をつけているせいもあり、聞き取りづらい。時々『今なんて言った?』と戸惑いを覚えてしまうくらいだった。祐奈は前後の文脈から、彼女の言わんとしていることを推測しなければならなかった。


 それから、グロリアは『とびきり賢い娘』とのことであったが、語り口から判断するに、それとは反対の印象を受ける。


 おそらく『勉強ができる』という意味で、世間から『賢い』と言われているのだろう。しかし勉強ができるのと、頭が良いのは別だと祐奈は思っている。学がなくても賢い人は沢山いるからだ。


「朗読係を選定するのですから、私は『声』を重要視したいと思います。キツいことを言うようですが、あなたの話は聞き取りづらいです」


「ちょっとふざけないでよ! 私は聖書の意味を誰よりも深く理解しているのよ。それが一番大事でしょ。声がどうとか、頭悪いこと言わないで。読み間違いの多いあの馬鹿女を選ぶようなら、私も黙っていないからね」


 そもそも出会ってこのかた彼女が賢く黙っていたことがあっただろうか……。彼女の身勝手な言動に、フラストレーションが溜まってきた。


 この世界に迷い込んだあと王都シルヴァースまでの道程で、ショーたちに好き放題されるのを許してしまったのは、祐奈のほうに脅えがあったからだ。お金もなく、生活の基盤も整っていなかったし、この状態で彼らの機嫌を損ねたらどうなるだろうかと、そんな心配ばかりしていた。そういった根源的な恐れが、過剰な怯えに繋がったのだと思う。


 それに大柄な男たちに囲まれていたから、単純に脅威を感じていたというのもある。自身の生殺与奪の権利を握られているように感じられて、反撃する勇気が持てなかった。一度口を閉ざしてしまうと挫折感が強まり、祐奈がオドオドするのでさらに軽く扱われてしまうという悪循環に陥ってしまった。


 ――しかしもう違う。


 祐奈にはすべきことがあるし、支えてくれる旅の仲間もいる。


 そして何よりラング准将がそばにいる。彼の存在を意識すれば、勇気が出た。


 特別立派である必要はない。当たり前のことを、当たり前にできればそれでいい。とにかく必要なことなら臆さずに言うべきだった。意思表示をするのは大事なことだから。


「あなたは読み間違いをしないかもしれませんが、聞いているほうは、あなたの言語を正しく聞き取れないのです。――朗読係に選ばれたいのなら、発音を直す努力をしていただきたいです。発声の仕方を見直すとか、聞き手を意識してゆっくり喋るとか、いくらでもやれることはありますよね?」


「する必要はないね。――ていうか、ヴェールの聖女ごときにウダウダ言われたくないんだわ。あんたみたいなどうしようもない半人前にさ! 胸糞悪い、っての。あんたって、私とバーバラの欠点を足して出来上がったような、つまらない存在じゃん。そんなやつにつべこべ言わる筋合いはないから」


「私が選定係なのですよ、よく考えてみて」


 祐奈は腹が立っていたので、語調が厳しくなっていた。


「権限を持つ者を馬鹿にするのは、賢い行為なのですか」


「だけどあんたに権限なんて――」


「私は司教から選定を一任されています。私に関する良からぬ評判を聞いて、そのような態度を取られているようですが、現状でも、あなたよりは私のほうが社会的立場は上のはずです。あなたが攻撃的な態度を改めないようなら、あなたが朗読係に選ばれることはないですよ」


 沈黙が流れた。グロリアは相変わらず油断ならない目つきをしていたが、彼女の口元は微かに強張っており、『しまった』という後悔のようなものが滲んでいるのが祐奈には分かった。


 ――やはりグロリアは評判よりも賢くはない。


 一度口から飛び出してしまった言葉は、どうあっても戻すことができないということを、彼女は会談前に肝に銘じておくべきだっただろう。これまでの彼女の言動は致命的である。


 とはいえ祐奈のほうは、先ほどまでの無礼な言動を根に持つつもりもなかった。これから心を入れ替えてくれるのなら、水に流しても構わない。全てはグロリアの態度次第だ。


「……分かりました。発音を直すよう、努力します。すみませんでした」


 彼女が硬い声でそう返してきたので、祐奈は小さく息を吐いていた。


「ありがとうございます。もう結構です」


 退室を促すと、グロリアはしおらしくお辞儀をしてソファから腰を上げた。初めからこの態度だったなら、印象がかなり違っただろうと祐奈は考えていた。


 少し良いほうに向かったかと思ったのだが、そう上手くいくはずもなかった。人の本質というものは簡単には変わらないものだからだ。


 グロリアは権限を有しているヴェールの聖女に対しては、一応の気遣いを見せたものの、他の人間に対しては相変わらずであることがすぐに判明した。


 彼女は室内にいた下働きの若い修道女を怒鳴りつけたのだ。


「ちょっとあなた、この応接間のソファの向きを、以前注意しておいたわよね! 直ってないじゃないの、グズ!」


 おそらく祐奈にやり込められたことで、どこかにはけ口を求めていたのだろう。


 可哀想な修道女は一方的に罵られ、怯えている。


「……以前、国王陛下がいらした際にお褒めいただいた部屋なので、そういった変更はできないとのことでございます」


 彼女としても口答えしたかったわけでもないだろう。変更が不可なので、また怒鳴られても困るから、事情を説明しただけのようだ。


 しかしグロリアはこれを『生意気にも反論してきた』と解釈したようだった。


「へぇ、じゃあ、あんたはこう言いたいわけね――国王陛下がいらした日以降、この部屋の調度類は一切いじっていないし、一切変更していないと」


「あの、そんなことは……」


「仕事ができないくせに口ばかり達者で、すぐに言い訳する、どうしようもないやつっているわよね。見苦しいわ。父様に言いつけて、お前をクビにしてやるから覚悟なさい」


 グロリアが肩を怒らせて部屋から出て行くのを眺め、祐奈は思わず額を押さえていた。ヴェール越しに触れたので、手のひらに押された紗がクシャリと歪む。


 ……あの修道女がクビにならないよう、あとで手を回してやらなければならない。


 面倒事が減るどころか増えていっている。自分たちが去ったあとどうなるか、想像するだけでも頭が痛くなってきた。



***



 ――修道女がバーバラを呼びに行っているあいだに、ロッドがこちらに近寄って来た。


 彼は祐奈が腰かけているソファの傍にはべり、膝を折って頭を下げた。


「聖女祐奈様、グロリア嬢が大変失礼をいたしました」


 声音は誠実で、彼が心から申し訳なく思っていることが伝わってくる。祐奈はロッドの気苦労を察し、気の毒に感じた。


「ロッドさんが悪いわけではないのですから、頭を上げてください」


「しかし……」


 彼が顔を上げようとしないばかりか、跪いたまま立ち上がってもくれないので、祐奈は困り果ててしまう。


「そんなふうに私に対して膝を折らないでください。どうしていいのか分かりません」


 祐奈の声音が切羽詰まっていたせいか、ロッドがおずおずと顔を上げた。そうして窺うようにじっと見つめてくる。それはヴェールの奥を見通そうとしているかのような仕草だった。


「お優しいのですね」


「いえ、普通だと思います」


 これは謙遜ではなく、心から出た台詞だった。


「けれど私は女性の穏やかな声を久しぶりに聞きました」


 感じ入ったように呟きを漏らすロッドを前にして、祐奈は少々辛辣なことを考えていた。――『彼は正常な判断力を失っているのではないか』と。


 なぜならここに仕えている修道女たちは皆、道理をわきまえているように感じられたからだ。ロッドの頭の中では、彼女たちの存在が綺麗さっぱり抹消されてしまったらしい。


 それって共に働いている同僚に対して、わりとひどいんじゃないかな……と思わなくもなかった。


「ロッドさんは候補者二名が罵り合っているのを聞かされて、神経が参ってしまっているのではないですか? きっとこれが済めば、心穏やかに過ごせますよ」


「そうだといいのですが」


「さぁ、立ち上がってください」


 これ以上はキリがない。促すようにロッドの肩に手を触れると、何を思ったのか彼が祐奈の手を掬い、ありがたがるように握りしめてきた。


 これに祐奈はかなりびっくりしたのだが、何かを考える暇はなかった。――なぜなら間髪入れずに背後から声が降ってきたからだ。


「――ロッド。お触りは禁止だ」


 ラング准将の声音には、言われた側が『従わねばならぬ』と感じるような何かがあった。


 しかし不思議なことに語調が荒いわけでもない。


 なんというか、犬を躾けしているような声音。険しいわけでも、怒りに満ちているわけでもないが、抗いがたいものがある。


「あの、大変失礼を」


 ハッと我に返ったロッドが祐奈の手を放し、もう一度頭を下げた。彼は自らの行動を恥じているらしく、すっかり赤面していた。


 そして祐奈もまたロッドに負けず劣らず体を縮こませていた。


 ラング准将のことは尊敬しているけれど、それでも『お触り禁止』という注意の仕方は、ちょっとどうなのだろうと思った。ロッドからすると、『感謝したかっただけで、別に触りたかったわけじゃない』と言いたいところだろう。


「いえ、あの、なんだかごめんなさい……」


 誰に対してということもなく、頭を下げる。


 これって地獄の空気だなと祐奈は考えていた。


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