第99話 女たちの争い


 前方で二人の娘が罵り合っている。


 狂乱する作用がある薬でも打ち込まれたのだろうか……と疑いたくなるような暴れっぷりだった。


 混ぜるな危険というやつで、普段は大聖堂内に居ながらも、二人は隔離されていたらしい。


 それがヴェールの聖女が選定を請け負うとなり、この場に呼ばれたもので、一気に着火してしまったようだ。


 顔を合わせた途端すぐさま、『アバズレ』だの『ブス』だの『クソ馬鹿女』だの『死んじまえ』だの、聞くに堪えない罵り合いが始まったのだった。


 二人はまだ着席すらしておらず、向こうのほうの開けたスペースで向き合い、一歩も引かぬ口喧嘩を繰り広げている。


 ずっとキンキン声で喚き続けているので、結構な距離が開いているのに、耳がおかしくなってきた。


 飛びかからないよう、修道女が数名かかりで娘の腰を抱きかかえ、後ろに引っ張っているのだが、それはなんとも滑稽な光景だった。


 ロッドが騒ぎを止めようとして足を進め、娘が弾き飛ばした陶器の花瓶が直撃しかけたので、慌てて姿勢を低くした。――それ以降、彼の前進しようという気持ちはなくなってしまったらしく、微動だにしていない。


 ラング准将はといえば、娘たちを呼び込む前にソファから立ち上がり、祐奈の背後に控えていたのだが、二人の娘が青筋を立てて罵り合いを始めてからは、ソファの後ろから祐奈をすっぽりとハグして、前方の騒動に注意を払っていた。すっかり静観の構えだ。


 祐奈は祐奈で騒動にビビってソファの背にぴったりと背を押し付けていたので、意図せず、ラング准将の背後からのハグに協力するような姿勢になっていた。


 彼からするとこの馬鹿馬鹿しくも愚かしい騒ぎは、最大限の警戒を払う必要もないようである。何かが飛んできたとしても片手間で対処できるので、そう緊張はしていないのが、後ろから包み込まれている状態の祐奈にも伝わって来た。


 ……というかこの体勢、妙に気恥ずかしい……祐奈はしばらくたってからやっとそう考える余裕が出てきた。


 彼は肘を祐奈の肩に軽く乗せて、手のひらを鎖骨あたりに添えている。腕が襟巻みたいに巻き付いているけれど、窮屈ではない。……だけど心は乱れる。


 不意に彼が上半身をかがめ、祐奈の耳元に顔を近付けて囁きかけた。


「……もう退室しませんか?」


 祐奈は驚き、そのまま右側に振り返ろうとして――彼があまりに近い位置にいたので、さらに仰天してしまった。ヴェールが彼の髪にこすれている。紗がなければ祐奈の頬に彼の髪や、下手をすればこめかみ、頬が当たっていたかもしれない。彼の端正な横顔――アングル的には何度も見たことがあるはずなのに、距離感が常にないことと、二人の体勢が考えられないくらいに絡み合っていることで、頭が混乱してきた。


「ラング准将、でも、あの」


「たとえ花瓶がこちらに飛んで来たとしても簡単に防げますが、この騒ぎは聞くにたえない。――賓客にこのような恥ずべき場面を見せてしまったのはベイヴィア側の手落ちですから、こちらばかりが礼儀を気にする必要はないですよ」


 女たちのえげつない罵り声をBGMに、ここで彼と顔を近付けて囁き声で会話を交わしているというのは、なんとも奇妙な状況ではある。


「ですが、ロッドさんが困っているようですし……」


「祐奈。――彼のこと、気に入っているでしょう」


 ロッドのことを先に話題に上げたのは確かに祐奈である。しかしラング准将がそこにこだわり、気に入っているかどうかをあえて尋ねてきたことは、少々不可解だった。


 しかし話題を逸らすのも変なので、祐奈らしく生真面目に答えることにした。


「気に入っているというか、いい人だと思います。常識人ですし」


「……考えてみると、旅が始まって以来、『若くて誠実な男』というものに初めて遭遇したかもしれませんね」


「あ、そうですね、言われてみると」


 盲点だった。ハリントン神父などの人格者には会ったことがあるけれど、穏やかな気質で、かつ、若い男性というのはこれが初めてかもしれない。食堂の店員などでは居たかもしれないが、こうした拠点でがっつり会話をする相手としては。


「あの、ラング准将……もしかして怒っていますか?」


「怒っているように見えますか?」


「いえ、そうは見えないのですが、なんだか」


「躊躇わなくていいですよ。はっきり言ってください」


「言語化が難しくて……ちょっとあの……貴族的な態度というか」


「なんです、それ」


 彼が淡く笑み――それで本来ならばホッと空気が弛緩するはずなのに、そうはなっていない。


 今の彼はどこか気まぐれで、しなやかだった。彼は視線ひとつで祐奈をがんじがらめにできるし、望むまま、どうとだってできるのだと祐奈は理解することができた。


 すぐ近くを、美しい豹が優雅に歩いているような……ただそこに居られるだけで、こちらは指先一本動かせなくなる。


「……そうやって格の違いを見せつけて、私に圧をかけないで」


 とうとう祐奈は弱々しい声音で懇願していた。


 ラング准将は不意を突かれたのだろうか。彼の纏う空気が和らぐのが分かった。


「怖いですか?」


「怖いです。……あなたが、というより、あなたのそばにいる自分自身が怖くて……だって私、どんどんおかしくなっちゃうから」


 今度こそ彼が笑った。俯くようにして、微かに眉根を寄せ、まいったなというように。


「――祐奈が私のご機嫌を取ることに成功したので、このくらいでやめておきます」


 囁き声は不思議なことに、どこか甘やかに響いた。耳の奥がジンとする。


 何がどう成功したのか、本人がまるで分かっていない。これが一番の問題であるように祐奈には思えた。


 しかしこの劣勢な状況では、異を唱える気はしなかったのだ。


 退いてくれてありがたいとしか思えなくて、こくこくと何度か頷いてみせた。



***



 怒鳴り合いが止むまでかなりの時間がかかった。一応罵り合いはストップしたのだが、二人の朗読係候補が和解したわけでもなかった。単に大声を出しすぎて疲れただけだろう。


「一人ずつお話しましょう」


 祐奈が声を掛けると、小柄なほうの候補者がこちらをじっくり眺め回しながらソファのほうに近寄って来た。チンピラが因縁をつける時のような、煽るような歩き方だと祐奈は思った。


「あなたからにしますか?」


「――私、グロリア」


 彼女が名乗る。フレンドリーとは到底いえない口調であるが、少し前向きに進みそうなので、祐奈はホッと息を吐いた。


 グロリアの姿形を眺め、祐奈は彼女が『顔はいまいちだが、とびきり賢い娘』だろうかと考えていた。


 顔のパーツのどこもかしこも丸い。ただ、『顔はいまいち』といっても、グロリアはぱっちりとした瞳を持つキュートなタイプで、なかなか魅力的な子だと祐奈は思った。


 ただし世間一般が思い描く、いわゆる典型的な美人とは異なるので、もう一人と比較する上で、顔を揶揄されてしまったのだろう。


「私は祐奈です」


「ヴェールの聖女でしょ――ああ、噂どおり。黒くて陰気臭いヴェールをしているのね」


 嘲るような笑み。王都からの噂が届いているのか、はたまた、先日滞在したアリス隊の護衛騎士が何かを言ったのか。童顔の女の子がこういった人を小馬鹿にしたような顔をすると、なんともいえない小生意気な感じがするものだ。


 祐奈は気にしなかったが、斜め後ろに控えているラング准将の存在は強く意識していた。このような言動が続くと非常にまずい。祐奈としては目の前の候補者二名よりも、ラング准将が気分を害した場合のほうがリスキーだと感じていた。


 彼は候補者同士が罵り合おうが、掴み合いをしようが気にしまいが、祐奈が侮られるのは許さないだろう。


 祐奈はラング准将のほうを振り返り、『大丈夫です』という意志を込めて頷いてみせた。


 彼のアンバーの瞳は凍るように冷たく、怒りの気配を纏っていた。しかし祐奈の視線を感じたのか、こちらを見おろした瞬間、それが少し和らいだ。


 ……これで少し時間が稼げる。あとはもう、娘二人がこれ以上に羽目を外さないよう祈るだけだ。


 ラング准将がこの場を制圧した場合、彼女たちは恐れを抱いて一時静かになるかもしれないが、祐奈たちが去ったあと、また傍若無人な振舞いを再開するだろう。


 しかし祐奈はそれが嫌なのだった。――どうせ選定に関わらなくてはならないのだから、問題が残らないよう処理をして、きちんとした状態でここを出たい。


 しっかり仕事をしても、手抜きをしても、拘束される時間がさして変わらないならば、できることは全てやったほうがいい――祐奈はそう思っていた。


「グロリアさん、おかけください」


 ソファの向こう側に佇んでいる彼女に席を勧めると、後ろにいたもう一人の候補者が食ってかかってきた。


「ちょっと待ってよ。そいつが最初? 納得いかないわね」


「あなたは?」


「私はバーバラ」


 バーバラは日本人の感覚からすると面長(おもなが)すぎて、祐奈としてはそんなに美しいとは感じなかった。瞳もよくよく見ると綺麗な形をしているが、強い輝きを秘めているわけでもなく、特別印象的でもない。


 しかし鼻梁が長く、唇の形はセクシーで、ゴージャスな雰囲気の女性ではあった。背も高く、大人びている。こちらがきっと『顔は美しいが、とびきり馬鹿な娘』だろうと祐奈は見当をつけた。


 おそらくこちらの世界の基準でいうと、典型的な美人なのだと思われる。


「――バーバラさんはとても良い声をしていますね」


 彼女の声は少し低めで独特の艶があり、耳に心地よかった。そして声に力がある。喉だけではなく、お腹から発声しているのかもしれない。これならば広い場所でもきっとよく通るだろう。


 祐奈がそう言うと、バーバラは眉根をきつく寄せて、睨みつけてくる。


「何それ。あんた私を馬鹿にしているの?」


「こちらの世界では、声を褒めると侮辱したことになるのですか?」


 落ち着いた声音で祐奈が尋ねると、バーバラは毒気を抜かれたような顔をしてこちらを見つめ返してきた。――そして急に馬鹿馬鹿しくなったという様子で、煙でも払うかのように右手を持ち上げて振ってみせた。


「ああ、もういいわ。そいつが先で。私は部屋に戻っているから、あとで呼んで頂戴」


「ええ、そうします」


 バーバラはラング准将のほうを意味ありげな視線で眺めてから踵を返した。彼女のゴージャスな見た目で男性をこんなふうに見据えると、とてもさまになるなと祐奈は感心してしまった。『挨拶代わりよ』というような軽さで、祐奈には到底真似できない大人っぽさがある。


 ……ただまぁ、初対面のイケメンにあれをしたいか? と問われると、正直したくはないというか、それをしてなんになるのか? という気はしたのだけれど……。


 バーバラが去るのをなんとなく目で追っていると、部屋の扉横に控えていたロッド修道士にあえてぶつかるような動きをして、彼の手の甲をお触りしているのが確認できた。


 ロッドのほうは視線を俯け、耐え忍ぶという風情である。美人にいやらしく触れられても、そんなに嬉しそうでもない。――まるで『この昆虫を生で食べなさいよ』と得体の知れないものを勧められた人みたいな顔だ。


 ふと居残ったグロリアのほうに視線を転じてみると、彼らの戯れをじっとりと睨みつけ、小さく舌打ちを漏らした気配があった。


 祐奈はなるほど……と思った。彼女たちは二人ともロッドが好きなのだ。恋敵でもあるから、余計に揉めているのだろう。


 そうなると話がだいぶ変わってくる。彼の存在が鍵だろう。


 選定期間中、ロッドが大聖堂に居たほうがいいのか、あるいはしばらくどこかに行ってもらったほうがいいのか、これからよくよく考えてみなければならない。


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