第96話 ラング准将の姉の話


 少し落ち着いてから話を戻す。


「――お姉様はあなたに親切でしたか?」


「ええ、とても」彼が微かに笑みを漏らした。「私はどうしようもない悪たれ坊主でしたが、姉と一緒にいる時だけは、妙にかしこまっていましたよ」


「可愛い」


 祐奈はつい、ふふ……と笑みを漏らしてしまった。先日彼の姿を見たから、当時の家庭の様子が想像できる気がしたのだ。


 お姉さんはたぶん、彼のことが可愛くて仕方なかったんじゃないかな。弟に嫌われたくなくて、お淑やかぶっていたのだろうか……。


「四つ年上の女性が、私のように単純な子供を騙すのは、赤子の手をひねるがごとしだったでしょうね」


「お姉様はどうして自分の性格を隠していたのですか?」


「姉には意中の男性がいました。その人に好かれたかったようで」


「彼の前だけでなく、日常でもずっと演じていたんですね」


「よほど好きだったのでしょうね。本性が露呈しないよう、細心の注意を払っていたようです」


「好きな人によく思われたくて、大人しいフリをするなんて、可愛い人ですね」


「全然、可愛さとは無縁の人ですよ。会えば分かりますが」


 彼が当たり前のように『会えば分かる』と言ったので、祐奈は驚いてしまった。たぶん、なんというつもりもなく口にしただけなのだろう。……だって祐奈がラング准将の家族に会うようなことは、おそらく一生ないと思うから。


「どんなきっかけで本当の姿を知ることとなったのですか?」


「姉はある令嬢とライバル関係にあったのですが、そのえげつないやり取りを偶然目撃してしまいまして」


「ショックでしたか?」


「そりゃあもう……口は悪いわ、下品だわ、酒乱だわ……とんでもない欠陥人間だと思ったものです。当時の品行方正ではなかった私が引くぐらいだから、相当なものでしたよ」


 祐奈は我慢できずに、ふふと声を立てて笑ってしまった。ラング准将はボロクソに言っているけれど、聞いている祐奈が彼の姉を好きになってきているということは、語り口のそこかしこに、姉に対する深い愛情が滲み出ているからだろう。


 祐奈は一人っ子なので、そういった姉弟間の絆は羨ましく感じられるのだった。


「きっとその令嬢は恋敵だったのですね」


「そのようです。相手も相手でものすごかった。……私は姉の想い人を尊敬していましたので、彼女たちに騙されないよう、彼に真実を告げることにしたんです」


「えっ、ひどいです」


 悲鳴に似た声が出てしまった。ラング准将は正しいことをしようとしたのかもしれないけれど、それはちょっと残酷なのではないだろうか。


「確かにひどいかもしれません。でもその時は、彼が姉の毒牙にかかってはいけないと、そればかりを考えていました。自分なりの正義感に突き動かされていたのだと思います」


「お相手の方はなんとおっしゃいました?」


「彼は穏やかな声でこう答えました――『彼女がどういう女性かは知っている』と。姉を思い出していたのでしょうか……彼の視線はとても柔らかで、満ち足りていて、幸せそうに見えました。――その時、私はとても不可解だと思ったのです」


「それは……あなたが恋を知らなかったから?」


「そうですね。当時は」


 当時は……では今は? 祐奈の心が揺れた。彼は『不可解だ』と語ったけれど、今は違うのかもしれない。


 だってラング准将も時々――今の話に出て来た男性と同じように、柔らかな瞳をしている時があるから。


「そして私は女性そのものに対しても、『不可解だ』という思いを抱いたのです」


「その思いは解消されましたか?」


「長らくその感覚を忘れていたのですが、あなたと会って、またそれを思い出しました」


 彼の語り口は落ち着いていて、祐奈はバイオリンの音色に耳を澄ませるような心地でいたのだが、ここで想定外の驚愕を味わうこととなった。


 他人事のように考えていたら、この流れでまさか自分自身が登場するとは!


「え、あの……自分で言うのもなんですが、私は後ろ向きで少し面倒くさいところはありますが、わりと単純なので、不可解さとは無縁かと……」


「そうでしょうか。あなたは私が知る限り、最も不可解な女性かと思いますが」


 彼の言うことに疑問を感じることはあまりない。けれど今は全然納得できなかった。


 ――ラング准将は人生経験を積みすぎて、物事の見方が非常に独特になっているのではないだろうか? 裏の裏を読みすぎて、単純なものに、複雑な影を見出してしまっているのかも……。


「うーん……」


「納得がいきませんか?」


「かなり。どこが不可解なのでしょう?」


「私はここまで女性に振り回された経験がありません。私に大きな影響を与えた女性の一人は、今お話しした四つ年上の姉です。けれどその姉でさえ、あなた以上に私を振り回したりはしませんでした」


「あなたは私を護衛しているから、そう感じるだけだと思います。職務上そうなってしまった――ただそれだけの話で」


 祐奈は語りながら、なんだか言い訳めいて聞こえると感じていた。『私はあなたにそんなひどいことしていません、これは不可抗力なんです』と慌てて弁明しているみたい。


「あなたは私のあるじでありながら、庇護すべき対象でもある。複雑な関係ではありますが、でも――やはり対等なのかな、と思うんです。私は誰かに対して対等だと感じることがあまりない」


「対等に感じることがあまりないのは、ラング准将ができすぎているから」


 これは本心だった。……ただ、どうして祐奈に対しては対等なのかはよく分からなかったけれど。


「あまり私のことを褒めないほうがいい」


「どうして?」


「あなたは私のことを、少し遠くに感じているから、そんなふうに手放しに敬愛できるのではないですか?」


「よく分かりません。でも……もしそうだとしたら、嫌なのですか?」


 祐奈は彼の真意が知りたいと思った。彼がこうした複雑怪奇ともいえる心の内をさらすのは、たぶん初めてかもしれない。彼は難しい要求をしているように感じられた。どちらかといえば、解決を求めているというよりも、祐奈と分かち合いたがっているようにも思えた。


 そして祐奈もそうしたかった。


 よく分からないのならば、ちゃんと知りたい。彼に関することならば、なんでも。


 以前は他者との付き合いで『よく分からないもの』があったとしても、それにこだわってこなかった。さらっと水に流すように、執着せずにいた。それは今もあまり変わっていないのだけれど、それでもたぶん――祐奈は心の中に『特別』を作ったのだ。


 ――祐奈の中でラング准将は『特別』。


「良いか悪いかではなく、私が対処しきれなくなっている。以前は受け流していましたが、これからはあまり手加減してあげられなくなるかもしれません。あなたが私に対し、意地悪だと感じることも増えるんじゃないかな」


「それは、あなたと私が対等になったから?」


「あるいは――私のほうが劣勢になってきているから」


「あなたが? 劣勢?」


 思わず眉根が寄る。


「ええ、そうですよ」


「ありえません。私からすると、あなたがずっと勝ち続けている」


「それは勘違いです」


「勘違いだとしたら……ものすごく不可解」


 祐奈は胸が詰まった。彼こそ不可解。自身の今の状態も不可解。


 この謎はいつか解けるの? ……分からない。


 あなたのことを知り尽くしたとしても、十年後も『不可解』だと言っていそうだ。知った上で、『なお不可解』だと。


「いつか私は、あなたに助けられる気がしています。あなたを護り、こちらが助けているようでいて、実際のところは真逆なのかも」


「だとしたら嬉しいのですが……」


「本当にそう思いますか?」


「あなたに頼られたい。いつか私――……一度でいいので、ラング准将に何かを懇願されてみたいです」


 祐奈は瞳を和らげ、口元に笑みを乗せていた。口に出してみて、彼に頼られたらどんなに嬉しいだろうかと考える。自分が何かを懇願している場面は思い付くけれど、逆は想像もできないから、余計に。


 祐奈は本心から語っていたのだが、内心では『ありえないだろう』と分かってもいたので、『懇願されてみたい』というのは冗談半分の発言だった。けれど彼は……


「私が全面的に屈服し、乞い願うさまを、あなたはそう遠くない未来に見ることになるでしょうね」


 その語り口には妙に実感が込められており、なんだか予言めいた響きすらあったのだった。


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