第94話 100


 ウェイトレスに、「次はどこの町に行くの?」と訊かれ、


「ベイヴィアです」


 と祐奈は素直に答えた。すると彼女が『うわ』というように眉を顰めたので、なんだか気になってしまった。


「あの、何か?」


「いやあの……ベイヴィアかぁ。あそこってちょっとね」


「問題がありますか?」


「……でもまぁ、大聖堂に近寄らなければ大丈夫。気にしないで」


 彼女が手を振ってそそくさと去って行ったので、祐奈は思わず対面のエドのほうに視線を移していた。彼も少し陰鬱そうな様子である。


「……アリスはなんにもしていないんだろうなぁ……ちょっと気が重い」


「ベイヴィアで何かあるの?」


「まぁ、行けば分かるよ。今から憂鬱になることもない」


 エドにも何か心当たりがあるらしい。


 しかし聖女の旅というのは、拠点での問題を解決していくものだと祐奈は思い込んでいた。


 一宿一飯の恩という言葉もある。泊まるだけ泊まって、甲斐甲斐しく世話をしてもらったのに、困りごとの相談にも乗らずに『じゃあもう行きますね』とあしらえてしまえるのも、なかなかに肝が据わっているなと感じた。


 その問題に囚われてあまりにも時間を浪費し、『ウトナまで辿り着けませんでした』となったら本末転倒ではあるけれど、時間がそうかからないものなら、力になったとしても大した手間ではないと思うのだが……。


 でも彼女のように国民のスターになってしまうと、気軽に何かしてあげるのも難しくなってくるのかな。他者から高い期待を寄せられる立場というのも、気苦労が多そうだと祐奈は感じた。


 死のルートという物騒な条件さえなければ、祐奈からすると、少人数で旅をする今のスタイルのほうが良かった。祐奈にアリスの代わりは務まらなかっただろう。


「……どうかした?」


 祐奈が考え込んでしまったので、エドはベイヴィアへの旅が不安だと解釈したようだ。心配そうにこちらを見つめてくるので、祐奈は彼を安心させるように微笑んでみせた。


「――あなたと旅ができて、良かったなと思っていたの。どうもありがとう」


「僕が気品のある悪い詐欺師でも?」


 どうしたのだろう。エドは先程のことをまた持ち出してきた。


 なんとなくしんみりした表情になっているのだが、いかんせん台詞が面白いので、本気なのか冗談なのか、祐奈にはよく分からなかった。


「あなたが気品のある悪い詐欺師でも、だよ」


「でも祐奈は正直な人が好きだろう?」


「……とはいえ、私自身が正直じゃないからなぁ」


「そう? 君はとても正直だ」


「そんなことない。だってヴェールを取っていないでしょう?」


「今は取っている」


「そうじゃなくて……変身薬の力を借りずに、素顔を見せるべきってこと」


 視線が絡む。ふと、彼の瞳に包容力や、いつもの穏やかさが戻ったような気がした。――過去の彼と、現在の彼がリンクする。


「――祐奈に正直さを求めるなら、僕も」


「え?」


「ねぇ、こうしないか? ヴェールを外す条件をあらかじめ決めておくんだ。達成されるのは、明日かもしれないし、一月後かもしれない。でもその時が来たら、必ず外す」


「条件は何?」


「質問百個――君が僕に訊きたいことを尋ねて、僕が正直に答える。全て答え終わったら、君はヴェールを外す」


「質問、百個も?」


「そんなに訊きたいことはない?」


「いえ、あります」


 祐奈は彼を眺め、微笑もうとした。けれど胸がきゅっと苦しくなって。小さく息を吐いていた。


 彼のアンバーの瞳は色合いが深く、優しかった。


 ……大好きな人。彼以上に、誰かのことを好きになることは、きっともうない。


「――約束ですね、エド」


「約束だ」



***



 ――身一つで生き抜いていかなければならない時に、一番必要なものはなんだろう。


 力? あるいは特殊技能? ――確かにあれば助かる。しかしそれがなかったら?


 人間力? 善良さ? ――そんなものはなんの役にも立たない。


 少なくとも、若槻陽介の考えではそうだった。


 ただし、『善良そう』で『まともそう』な人間だと思わせておくのは大抵のケースで有効だ。相手を油断させることができるから。


 陽介が考える『最も必要なもの』は、『相手を出し抜く覚悟』。


 騙すスキルよりも、躊躇わない気持ちが重要になってくる。――やるか、やらないか。やると決めたなら、徹底的にやるべきだ。


 そして相手を上手く騙すためには、こちらの見た目も重要な要素の一つになってくる。とにかく顔が綺麗に越したことはない。


 見目麗しい悪党と、醜い善人――どちらが他者の信用を得られやすいかといえば、大抵の場合は前者である。残酷ではあるが、それが真実だ。


 それからちょっとの『運』も必要になってくるだろう。


 幸いなことに、若槻陽介はその全てを持っていた。


 彼はこちらの世界に迷い込んだ際、無一文であったので――(財布に日本円は入っていたが、こちらでは使いようがない)――そこらで野垂れ死んでいても不思議はなかった。


 しかし言語が通じるのは本当に助かった。日本語ではないのに、なぜか初めから言葉が理解できたし、喋ることもできたのだ。ツイている……彼はそう思った。きっと神様が『祐奈をお前のものにせよ』と告げているのだ。そうに違いない。


 ――彼はまず、町外れで暮らしていた善良な女性を騙した。


 相手の人の良さにつけ込み、家に泊めてもらい、彼女が病弱な母のために貯めていた薬代を盗んで、朝が来る前にそこを去った。


 彼は前夜のあいだに、ここから一番近い大都市の場所を聞き出しておいた。


 少し北へ向かうと、『バノン』という都市に出られるらしい。そこは不思議な町で、姿形が美しくなれる妙薬を売っているのだとか。薬は町の外ではただの水になってしまうので、そこへ行って楽しむしかない。そのため観光地として有名な場所なのだとか。


 大きな街道上の都市だというので、若槻陽介はまずそこに行こうと決めた。


 女から奪った金は雀の涙ほどのもので、何度か食事をしたらすぐになくなってしまった。


 北に向かいながら、寂しい女の相手をして、宿代を浮かせたり、食べさせてもらったりした。


 彼は綺麗な顔を利用して、さして苦労らしい苦労もせずに、バノンに辿り着いた。美人局(つつもたせ)だとかの、危険そうな女には近寄らなかった。彼はとても鼻が利いたから。


 ――迷い込んだ際、大学からの帰り道だったので、スマートフォンを所持していた。もちろん電話もかけられないし、インターネットも閲覧できない。しかし写真は見ることができた。


 祐奈が写っている画像をいくつも保存してあった。彼女はレンズを向けると、いつも少し困ったような顔をしていたっけ。……彼がどうして自分を写すのか、彼女は理解していなかったから、からかわれているのだと思っていたのかもしれない。


 陽介は彼女の困った顔が好きだった。泣きそうな顔ならなおいいが、祐奈は意外と頑固なところがあり、彼に泣き顔を見せたことがなかった。彼女の両親が事故死した際は、たぶん一人で沢山泣いたのだろう。彼はそれを想像するだけで、いつも悶えるような興奮を覚えていた。


 いつか……いつかきっと。


 彼女を泣かせてやる。目の前で。僕の言葉で、僕が傷付けて、泣かせてやるのだ。


 ずっとそう思っていた。僕の体の下に閉じ込めて、泣かせてやる。許してと懇願しても、聞いてやらない。


 それをずっと楽しみにしていたのだ。もうずっと長いあいだ。


 その願いはもうすぐ叶うはずだった。待つのもそれなりに楽しかったから、高校卒業までは手を出さずにいてやったのに……彼女が大学生になり、そろそろ収穫の時期だと考えていたところで、なんの断りもなく勝手に消えたのだ。


 体つきも華奢な中に、女らしい艶めかしさを纏いつつあったから、色々予定を立てていたところだった。それなのに――


 許しがたい罪だ。早く再会して、思い知らせてやらねばならない。


 ――バノンのレストランで、スクエア型の特徴的なイヤリングをしたウェイトレスの接客を受けた。人の良さそうな顔をしているから、彼女は信用できそうだ。


 陽介は料理をオーダーしたあとで、彼女にスマートフォンの画像を見せて尋ねた。


「この娘を知らない? 従妹(いとこ)なんだ」


「ああ、この子……昨日見たばかりよ」


 それを聞き、陽介の心臓が大きく撥ねる。ウェイトレスは軽く眉根を寄せて、窺うようにこちらを見つめてきた。


「ねぇ、これなんなの? 板の中に、人間が入っているみたい……」


「肖像画の一種なんだけど、変わっているよね」


「そうね。これ、聖具?」


 言われたことはよく分からなかったのだが、彼はじっと黙ったまま、肯定の意志を乗せて彼女を見上げた。下手なことは喋らないほうが、ボロも出ない。


 ウェイトレスは芯から気の良い性分のようで、こちらを心配してくれた。


「……こういう珍しいもの、あまり他人に見せないほうがいいわ。力ずくで奪われるかもしれない」


「気をつけるよ」


 彼女の言うことなど、百も承知だった。陽介は無害そうな相手にしか、この写真を見せてこなかった。高価そうな代物を見せるのはリスキーではあるけれど、祐奈を探さねばならないから、相手を選んで見せるようにしていた。


 しかし危険な橋を渡った甲斐はあったようだ。とうとう手がかりを掴んだ。


「――この子、祐奈っていうんだ」


「ああ、そうね。名前、そんなだったわ」


 ウェイトレスの言葉に眉根を寄せる。


「彼女が名乗ったの?」


「いいえ、一緒にいた子が、彼女をそう呼んでいたみたい」


「一緒にいた子……どんな人だった?」


「可愛い男の子ね」


 男と一緒なのか……若槻陽介の胸に仄暗い炎が灯った。


「そう……」


「あなたは親戚なのね? 言われてみれば、似ているかもね」


 陽介は感情と真逆の顔を取り繕うのに慣れていた。いかにも無害そうな、清潔感のある眼差しで彼女を見返す。


「彼女の親が先日亡くなったから、急いで知らせないといけなくて」


「そうだったの。お気の毒ね」


「祐奈はどこへ向かったんだろう? 何か聞いていない?」


「ベイヴィアを目指していると言っていたわね」


「ちょっと地理に疎くて……」


「街道を東に向かうと、ベイヴィアに出られるわ」


「ありがとう。助かったよ」


「いいえ。じゃあ食事を楽しんで」


 食事を楽しむ気分ではなかった。彼女が男といると聞いて、とても不快な気分だったから。


 けれど彼は帰り際、ウェイトレスへのチップを弾んだ。


 その金額は、この世界に迷い込んですぐに、善良な女性の家から奪った金額と同じ額だった。――あの貧しい女性が真面目に働き、節約して、病弱な母のために貯めていた薬代と同額を、気前よく払ってやった。





 10.変身薬(終)


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