10.変身薬
第89話 ラング准将の自己評価は70点
祐奈とラング准将は一路バノンを目指していた。
ラング准将が国境の町ローダーを出る際に、馬を一頭手に入れてくれたので、祐奈はまた彼に抱え込まれて同乗している。
馬で進むのは快適だった。
二度目なので慣れたというよりも、ラング准将が手綱を取っている限り、怖い思いをすることはない。思い返してみれば、初めて馬に乗った時だって、彼に体を預けてしまえばなんの不安もなかったのだ。
――以降は『バノン』→『ベイヴィア』とアリス隊が辿って来たルートを逆に進んで行く計画だ。
ソーヤ大聖堂の女司教ビューラに『回り道が吉』と言われたことも念頭にあったし、ラング准将としてはカナンで国境を越える前に、赤い扉を越えるためのヒントを掴みたいということだった。
――とはいえ、たとえ急ごうと考えたとしても、地図を確認してみると、真っ直ぐ北上するルートは存在しないようである。地形的に、北側に険しい山々があり、それを背にして街道が東西(横)に伸びているので、ローダーを出たあとは、西にある都市『バノン』に出るしかない。
そうなると『急いで戻らなければ』という焦りを抱いても、なんにもならないのだと祐奈は考えるようになった。
……なるようになる、だ。ラング准将も言っていたけれど、悪いことばかりじゃない。祐奈としては、彼が側に居てくれるだけでありがたく、それ以上に望むことはないのだった。
――ローダーを出る前に、ラング准将がリスキンドあてに『カナンで待機せよ』と手紙を投函しておいてくれたので、リスキンドはリスキンドで気楽に過ごして待つだろう。同じく、カルメリータも。そしてルークも。
祐奈は馬上でラング准将に抱え込まれながら、今日もヴェールを外していた。彼の胸に寄りかかる様にして、前方の景色を眺める。開放感があり、とても気分が良かった。
――ただ、非常に無防備な格好でもあった。このまま振り返るだけで、彼と素顔で対面することになるからだ。
祐奈はふと、それを試したいような気持にもなってきた。前向きな気持ちからというよりも、それは『振り返ったら、一体どうなるだろう』という、ちょっとした好奇心に近かったのだけれど。
ラング准将は気にならないのだろうか……祐奈は疑問に感じた。
王都シルヴァースで彼と初めて会った際に、『護衛する都合上、素顔を知っておく必要があるから、ヴェールを外して欲しい』と頼まれたことがあった。あの時は結局、祐奈があまりに不安になっていたため、彼は『外さなくていい』と言ってくれた。しかし彼は職務上、『見ておく必要がある』という考えではあるのだ。
今、彼がそれを望み、強引に叶えようと思ったなら――祐奈の顎を掴んで、微かに力を入れて顔の向きを変えさせるだけで、こと足りる。
けれど彼はそうしない。
「ラング准将は……昔からそんなふうに人間ができていたのですか?」
祐奈はラング准将の左肩に、左の頬をつけていた。けれど声をかける際は、その体勢のままだと相手に届かないような気がして、微かに振り返り、彼の鎖骨の上に口を近付け、声が届くようにした。馬の蹄が地を蹴る音や、風の音、それらが祐奈の小さな声を遮らないように、彼に近付く必要があったから。
祐奈が身じろぎしたせいか、ラング准将は彼女が滑り落ちないよう、体をさらに深く抱え込む必要があった。それは下心のあるような不適切な触れ方ではなかったけれど、彼の物腰が端正であるあまり、かえって艶っぽい絡みのようにも感じられた。
祐奈は上半身を少し捻っていたので、華奢なウエストから女性らしい腰のラインが強調されてしまっている。しかし当の祐奈はそのことにまるで気付いていなかった。
ラング准将がいつもどおりの落ち着いた声音で答える。
「今現在、人間ができているとも思えませんが」
これに祐奈は驚かされてしまった。
彼はどれだけ自分に厳しいのだろう? それでいて他者には寛容で、同様の厳しさを求めない所が、またすごい。
「理想が百だとすると、今どのくらいなんですか?」
「うーん……七十くらいですかね」
「自己評価が低いです!」
「そんなものですよ」
「私から言わせれば、今、百だと思いますよ。まだ人間力を高めるつもりなのですか?」
祐奈がつい本気で説教(?)すると、左耳に触れた彼の肩が微かに揺れた。ラング准将が笑みを漏らしたようだった。
「……十代前半の私を、あなたが知らなくて良かった」
彼がぽつりとそんな呟きを漏らす。彼は確か祐奈よりも五つ上の、二十四歳だったはずだ。だから懐古するほど昔でもないと思うのだが……。
「ラング准将はラング准将でしょう?」
「当時の私は傲慢な人間でした。若気の至りで、自分はなんでもできると過信していたのです。……もしもあの頃にあなたと出会っていたら、優しくできていたかどうかわからない」
彼の告白は祐奈を少し戸惑わせた。あまりにイメージとかけ離れている。
彼はなんというか……昔から『ラング准将』そのままだと思っていた。親切で、大人で、謙虚で――ずっとそうだったのだと。
けれど考えてみれば、彼は生まれが良く、スペックも高い。頭も良く、武芸に秀で、おまけにこの綺麗な顔立ちだ。怖いもの知らずであっても不思議はない。
お育ちが良く恵まれている人は、悪気なく傲慢であることがある。けれどそれが悪いことだとも言い切れない。裏表なく、素直で、捻じ曲がっていないからこそ、直接的であるともいえるからだ。
「優しくできなかったかもしれないというのは、ええと……でも、ぶったりはしないでしょう?」
「それはさすがに」
「では、私を罰していたと思いますか? もしも私たちが同い年で――もっと前に出会っていたら」
「なぜあなたを罰するのです?」
「たまにラング准将の言うことを聞かないから」
「自覚はあるのですね」
「……ごめんなさい」
「ああ、参ったな」
彼が少しだけ早口になったように感じた。ほんの少しだけ。
「あなたのことを軸にして考えてみると、やはり、変わったとはいえ、私は私なのかもしれないと思う。確かに今は、昔と違う。けれど十代の時にあなたと会っていたとしても、ぶったりしなかったのは確かだし、尊厳を奪うようなひどいことをして、苦しめたりすることも絶対になかったと言い切れる。――でも、確実にデリカシーはなかったから、女の子として丁重に扱わずに、ものすごく振り回していたのではないかな……。おそらくあなたは私を嫌ったはずです」
少しヤンチャだったということかな……? と祐奈は思った。でも、イケイケの悪戯っ子なラング准将も、ちょっと見てみたいと思う。
それにしても、当時は無邪気だったエドワード・ラング少年の身に、一体何が起こったのだろうか……。
「私は嫌わなかったと思いますよ」
「……そうかな」
まるで信じていないという口調。
「むしろラング准将が私を嫌ったんじゃないかなぁ。変なところで逆らうし、面倒だなって」
「私は面倒くさがりなタイプだったので、口喧嘩にはなっていたかもしれませんね」
「なんかちょっと……想像するとドキドキします」
祐奈は本当にドキドキしてきた。今の大人なラング准将を知っているからこそ、少年らしい容貌の彼にぞんざいに扱われている場面を想像すると、不思議とトキメキすら覚える。
「――恐怖を感じますか?」
彼は祐奈の言う『ドキドキ』を別の意味に受け取ったらしい。
「いえ、胸の高鳴りを感じるという意味です」
「なぜそうなるんだ……時々祐奈のことが分からなくなる」
「ギャップ萌えなんですが……なんて説明したらいいんだろう……。ええと、好きな人の意外な一面って、なんだかドキドキしませんか?」
祐奈は説明することに気を取られていて、うっかりラング准将のことを『好きな人』と言ってしまったことに気付いていなかった。
一生懸命説明したつもりなのに、なぜか彼が黙ってしまったので、祐奈は『やっぱりギャップ萌えの概念を伝えるのは難しいな』と考えていた。
――そのまましばらく街道の景色を楽しんでいたのだが、祐奈がまた口を開いた。
「変わるきっかけがあったのですか?」
「自分が決して万能ではないことを知ったから、かな。それを知る前の私は、慢心していて、ただただ愚かだった。自分がてっぺんにいると信じ込んでいたら、さらに高みを目指そうとは思わないでしょう? でもそれでは成長しない。私は無力さを思い知って――叩きのめされて、這い上がった」
こんなにすごい人でも過去に挫折を味わっているのか、と祐奈は驚きを覚えていた。もちろん祐奈のような凡人とは、次元の違う話なのだろうけれど、それでも人それぞれにドラマがある。
――彼は負けを知ったことで、強くなった。この上なく。
それは祐奈を勇気付けた。……きっと自分も……あがいて、あがいて、精一杯やるだけやったら、あとで過去を振り返った時に、自分が成長していることに気付けるかもしれない。
「だからラング准将は、私に優しくできるのですね。自分が負けたことがあるから」
「かもしれません。でも、それだけではないのかも」
「他に何かあるのですか?」
「私はそこまで親切で善良な人間ではありませんよ。あなたは少し……私の下心を疑うべきかもしれませんね」
彼の冗談は高度すぎて、たまに意図が上手く解釈できないことがある。今もそうだった。
笑ったほうがいいのだろうかと思ったけれど、理解できていないのにそんなことをすると、大火傷しそうな気もしてそれもできない。
祐奈は結局、つっかえながら、冗談で返すのがやっとだった。
「ら……ラング准将こそ、私の下心を疑ったほうがいいかもしれません」
言ってはみたものの、外した感が強くて、顔がかぁっと赤くなるのが自分でも分かった。言わなきゃ良かったとすぐに後悔する。
耐えきれずに、手のひらで顔を押さえた。……今はヴェールを外しているから、ものすごく心許ない。後頭部しか見られていないのだけれど、それでもすごく居たたまれなかった。
そうしたらびっくりなことに、彼は楽しそうに笑ったのだ! こちらのジョークは確かに滑ったかもしれないけれど、なにも笑うことないのに……。
「顔を伏せないで、祐奈」
「駄目です」
「耳が赤い」
髪は下ろしていたものの、耳にかけていたから、赤くなったそれが、後ろにいるラング准将にも見えているらしい。
「見ないで」
「……可愛い」
笑み交じりの彼の言葉。たぶん……親戚の小さな子でも眺めているような、優しい目をしているんだろうな。
祐奈は少しだけ彼を恨めしく思った。彼ばかり余裕でずるい。こちらはいっぱいいっぱいなのに。
祐奈はもう顔も上げられないのだった。
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