第88話 滅


【前書き】

【前回まで】


≪『7.白黒』-『VSアリス② ――血――』より抜粋≫

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「こちらへいらっしゃい、アン。あなたは枢機卿の側近でしょう。ここは私に敬意を示しておいたほうがいいわよ」

 アンがそばに来ると、アリスは優雅に腕を持ち上げた。そうして情け容赦もなくアンの頬を平手で打ち据えた。

 手加減は一切なかった。肉を叩く激しい音が響き、アンはローテーブルを押しのけながら床に倒れ伏した。

「当然の躾(しつけ)よ。私とヴェールの聖女――どちらの味方につくべきか、分かり切ったことなのに、愚かだわ。彼女にはこれからローダーまでついてきてもらうから、今のうちに思い知らせておかないとね。だけど、これで彼女も理解できたでしょうね」

 アリスがピンヒールでアンの義手を踏みにじる。その美しいおもてには獰猛な笑みが浮かんでいた。

「――ほら、ごめんなさいは? アン・ロージャ――あなた、左手がないだけじゃなくて、口もきけなくなったの? お馬鹿さん」

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【本文】


 ――鉄扉の前で、護衛隊は少し待たされた。神域に足を踏み入れるということで、帯同していた気の毒なアンという聖職者も連れて行かれた。枢機卿の側近で、片腕の女だ。少し筋張った顔立ちで癖があるが、なかなかの美人である。


 ハッチとしては正直なところ、甘ったるいアリスの容貌よりは、アンのほうが好みだった。少し野性味があるというか、独特の色気があると感じられたからだ。


 アリス、サンダース、そして顔色の悪いアンがホールに入って行き、鉄の扉はバタンと閉ざされた。


 ……何も蚊帳(かや)の外に追いやることはないじゃないかと、ハッチは苛立ちを覚えていた。せめて護衛責任者である自分は帯同すべきではないのか。


 『私は聖女様よ』といわんばかりに好き勝手に振舞って、まったく気位の高いことだ。下々の者には、あれこれ知らせる必要もないというのか。


 少したってから、中から何かを倒すような暴力的な音が響いて来た。ハッチは耳が良くないので、はっきりとは聞き取れなかった。それから女の罵声の一部も聞こえた気がするのだが、扉で遮られていたので、ただの『音』としか認識できない。。


 護衛として中に踏み込むべきかで迷ったが、扉の取っ手を掴んだ状態で、ハッチは動きを止めていた。


「――ハッチ准将。行かれないのですか?」


 腹心の部下に尋ねられる。相手もハッチを咎めているわけではない。そのように気骨のある者は直近に置いていない。


 単に部下はハッチに確認を取りたかっただけだ。そして指示を待っている。――自分で責任を取りたくないので、部下は部下で、ハッチに全てを丸投げにするつもりだった。


「……構わん。サンダース殿が一緒にいるのだから問題はない」


「中で何かあったとか……?」


「だったらもっと騒ぐはずだ。国境を前にして、ナーバスになっておられるのだろう。あるいはうっかり何か倒したか……そんなところさ。問題はない」


 ハッチの言い分は護衛としては駄目すぎるものだった。しかし部下たちも一様にサンダースの狂気を恐れていたので、自分から好き好んで危険地帯に足を踏み入れようとも思っていない。ハッチからステイを命令されて、内心はホッとしていたのだ。


 そこからさらに長い時間待たされた。


 ――やがて扉を開けたのは、枢機卿の側近であるアンだった。気の毒な彼女はすっかり顔色を失っていた。血の気のない唇が恐怖のせいか微かに震えている。ハッチは柄にもなく、彼女を慰めてやりたい心地になった。


 横暴なアリスに皆が迷惑している。やはり聖女というのは、クソみたいな女しかいないらしい。期待したのが間違いだった。所詮アリスも顔だけの女だったということ。体も素晴らしいのは服の上からでも推察できるが、ハッチの前で脱いでくれないのなら、彼女がどんなにグラマーでも関係がない。


「……お入りください」


 アンの声は低く、消え入る様に小さかった。微かに声が掠れていたので、ハッチは心配になってしまった。


「おい、大丈夫か」


「申し訳ございません。大丈夫です」


「しかし顔色が」


「問題ないです」


 アンは視線を伏せ、静かにそう繰り返すばかりだ。ハッチは傍若無人な聖女に対して苛立ちを覚えながら扉をくぐり、中に入った。


 アリスは部屋の中央にある、円形のステージ上に立ち尽くしていた。足を開き、少し取り乱しているようだ。なんだか立ち姿が幽鬼めいて見え、ハッチは思わず顔を顰めてしまった。


 しかし我らがあるじだ。内心では渋々であったが、彼女のほうに歩み寄ろうとしたところ、アリスのほうが我に返って、舞台から下りて来た。


 そうして早足に右手の壁面のほうに歩いて行く。


 この頃になると、彼女はいつものとおり堂々とした態度を取り戻しているように感じられたが、彼女がこちらに近寄って来ると、どうもそうでもないということにハッチは気付かされた。


 彼女の目元が微かに引き攣っている。驚き、じっと見つめていると、それに気付いたらしいアリスが、恐ろしい形相で睨み据えてきた。


「ハッチ准将、何か?」


「ああ、いいえ。失礼しました」


 ハッチは詫びを口にした。面倒なヒステリー女め、と口中で呟きを漏らしながら。


「……では、前方の赤い扉より外に出ましょうか」


 そうアリスを促すのだが、彼女からは冷ややかな否定が返された。


「いいから護衛隊全員を、この広間に入れなさい」


「しかし……前が流れて行けば、おっつけ入ってきますよ」


「何度も言わせないで。言うとおりになさい」


 やれやれと何度目かのため息が出る。――ハッチは大声を出し、全員中におさまるようにと指示を下した。あとは腹心の部下がなんだかんだと張り切って、アリス姫の要望どおりにことを運んだ。


 アリス自身は部屋の右手、北側の壁面前に陣取っている。彼女のすぐそばには、緑色の不思議な石板が壁面に埋め込まれていた。


「ここからカナンに転移します」


 このアリスの宣言はハッチの度肝を抜いた。


「失礼――なんですって?」


「赤い扉は通らないの。今回はイレギュラーなルート選択になります」


「どうして?」


「聖女が二人来たからよ。いいこと――今度、無駄な質問をしてごらんなさい。舌を引き抜いてやるから」


 圧をかけられ、ハッチは閉口してしまった。口をきく気にならなかったのは、彼にとっては不幸であったのかも。


 意見を言える機会があるなら、彼はそうしておくべきだった。だって彼にそのチャンスはもう巡ってこないのだから。


 アリスが壁面に埋め込まれた、正体のよく分からない緑の石板に触れた。聖女の眩いブレスレットを嵌めた左手で。


 ――その瞬間、転移が起こった。


 瞬きする間に一行はカナンに移動していた。景色が変わり、全員が啞然として周囲を見回す。


 まず石材の色が違った。鈍色から、黄色へ。そしてローダーではしっとりと湿っていた空気が、こちらではカラリと乾燥していることに気付いた。


 ――ところでこの時、部屋の隅には枢機卿とオズボーンの姿もあったのだが、護衛隊や馬車などでごった返していて、ハッチはその事実に気付くことができなかった。


 最奥に転移したアリスは、赤い扉を見つめた。そうして扉横の赤い石板にブレスレットを押し付けた。


 彼女は堂々たる態度で、扉を開け――


 アリスは彼女のために集い、長いあいだ敬意を持って彼女に尽くして来た護衛騎士たちに告げた。


「――全員進め。速やかに」


 素晴らしい毛並みの馬。豪華絢爛な馬車。装具。アリスのための衣装。化粧品。食料。彼女に仕える下々の者たち。


 皆が部屋の中に進んで行く。護衛隊全員が中に呑み込まれた。


 ――扉のこちら側には、聖女のほかに、枢機卿を始めとした少数の側近が残っていた。


 彼女は彼らに目配せをしてから、表情を殺したまま、扉を閉めてしまった。自身は決して中に入ろうとせずに。


 その途端、扉の向こうから、この世のものとは思えない阿鼻叫喚が響いて来た。それはしばらくのあいだ断続的に続いた。


 彼女は扉の取っ手を右手で掴んだまま、疲れたように息を吐き、赤い扉に寄りかかった。瞳から感情は窺えない。


 ――彼女はこの瞬間、多くの護衛を失ったわけだが、それでいてなお、静かに佇んでいた。



***



 枢機卿とオズボーンはしばらくのあいだ遺跡内に留まっていた。今この場にいるのは、二人きりだった。


「面白くなって来ましたね」


「面白い? どこがだ?」


 枢機卿の正常な感覚では、この事態を楽しむことなど到底不可能だった。混沌としていたし、事態をコントロールできていないように感じられる。


「とりあえずカナンでは、どちらの聖女も死にません」


「本当に問題はないのか?」


「大ありでしょうね。聖典はおそらくカンカンだ」


「あれに感情はあるのか」


「肉体がないぶん、我々よりもよほど大人げないと思いますよ」


 枢機卿は罪人を眺めるような目付きで、オズボーンの中性的な面差しを流し見た。こんな口をきいて、よく罰せられないものだと思ったからだ。


「……大人げないなら、なぜ祐奈をすぐに殺さない?」


「祐奈がローダーで鳥の精霊から加護を受けてしまったのでね。……あれでは殺したくても殺せない」


「あの加護はカナンで、聖女の身を護るためのものだからな」


 本来、カナンからローダーに逆転移するというルートは存在しなかった。つまりカナンルートの聖女が鳥の聖具から加護を得ることはありえないことなのだ。


「それからもう一人、異世界よりゲストが来てしまったことも影響している」


「それは重要人物か?」


「いいえ」


 オズボーンの双眸が怜悧に光を反射する。ぞっとするほど酷薄な瞳だった。


「誰が来たかよりも、世界に穴が開いたことのほうが問題なんです。これにより、聖女は二人共ウトナに辿り着かなければならなくなった」


「なぜ?」


「より多くの、強大な魔法を習得させるためです」


「どうせ殺すのに、魔法を習得させる意味があるのか?」


「贄(にえ)、ですよ。世界の均衡が崩れかけている。崩壊へのカウントダウンが始まってしまった。状況が非常にまずくなっているので、より多くの犠牲が必要になりました。アリス隊の護衛たちは当座の穴埋めですね。――しかしまだ全然足りない」


「均衡を取り戻すためには、やはり祐奈の命が必要か」


「こうなったら強いほうが残る。聖女はどうしても一人死なねばならないので」


「しかし祐奈に勝ち目はないだろう?」


 枢機卿はそう問いながら、否定してくれることを期待しているような目付きになっていた。がっかりしたくないから、希望的観測は口にしたくないのだ。


 対し、オズボーンはフラットだった。どちらが残っても構わないというように。


「依然として、祐奈には絶望的な状況ですね。聖典はすでに祐奈の死を望んでいる」


「祐奈が力を見せれば、状況は変わるのでは?」


「まさか。強ければ強いほど、聖典はその者を殺し、力を吸収したいと考えるでしょう。我々人間とは感覚が違うんです。聖典にとって自らが与える死とは、ある種のえこひいきといえるのかもしれません。取り込み、一体となるのですから。――聖典は祐奈を見放しているというよりも、視点を変えてみれば、むしろ――執着しているのかもしれません」





 9.姫の兵隊たち(終)


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