第86話 なんでも捧げます


 鉄の扉を開けると、通路が前方に真っ直ぐに伸びていた。


 まるで地下通路のように窓がない。数メートル置きに頑健な柱と、それにより作られた尖塔アーチが配置されていた。それが幾重にも重ねられた鳥居のように見え、宗教的な効果を生み出しているように感じられた。


 辺りはひっそりと静まり返っている。


「……水の匂いがします」


 どこからだろう。通路を歩きながら祐奈は視線を巡らせていた。


「ここは地下水路の一部なのかもしれませんね。近くを水が流れているから、どうしても湿っぽくなるのかも」


 確かに壁の石材もしっとりとして見える。彼は右手の壁面を眺めながら語っていたので、壁を挟んだ向こうに水路があるのだろうかと祐奈は思った。


 祐奈の凡庸な聴覚では聞き取ることができないけれど、ラング准将には水音も聞こえているのかもしれない。


「綺麗な水なのでしょうね。嫌な匂いがしないから……」


「そうですね。ローダー遺跡内は神域に当たるので、清涼なものだと思います」


 思い返してみると、北の国境カナンは乾燥していた。――同じ国でも北と南、東と西でずいぶん違いがあるものだと思った。


 十メートルほど進んだあたりで、ラング准将が不意に祐奈の腕を取った。


「――誰か来ます」


 真っ直ぐに伸びた通路には見たところ人影はなく、祐奈は接近してくる誰かの足音や気配を一切感じ取ることができなかった。一般人からすると彼のこういうところは、ほとんど超能力のように感じられる。


「隠れましょう」


 ラング准将の判断は迅速だった。


 危険な気配を感じ取ったのか、あるいは近付いてくる人間に心当たりがあり、避けておいたほうが賢明だと考えたのか。


 祐奈のほうに案はなく、彼を信用しているので素直に従うことにした。


「こちらへ」


 通路は直進だけではなく、横道も設けられている。数メートル手前に右手に伸びる小道があったので、ラング准将はそちらに祐奈を誘導した。もしかすると水路に通ずる道なのかもしれない。


 祐奈は足音を立てないことだけ気をつけて、小走りに駆けた。彼が手を引いてくれる。


 切羽詰まった状況であるのに、ラング准将がそばにいてくれるだけで、きっと大丈夫だと思えるのが不思議だった。


 小道の先は鉄柵で塞がれているようだ。だからそのまま進んでも袋小路でどこにも出られない。しかし石柱やアーチが多用されている空間なので、意外に死角が多いことに気付いた。これならば隠れ場所には困らない。


 ラング准将にいざなわれ大柱の陰に引き込まれる。――彼はピタリと柱に背をつけ、祐奈をすっぽりと抱え込んでしまった。彼の長い腕に閉じ込められてしまうと、祐奈はあたたかいブランケットにくるまれているようだと感じた。


 この時には祐奈の耳でも複数の足音を拾うことができた。かなりの大人数だ。


 ――それで気付いた。やって来たのはアリス隊の面々ではないだろうか。


 そうなると絶対に見つかるわけにはいかない。祐奈はレップ大聖堂でアリスから攻撃を受けている。こんなところで対面したら何をされるか分かったものではなかった。


 おまけに彼女はラング准将に執着しているようだから、どんな行動に出てくるか……。レップ大聖堂では彼が上手くやり込めたものの、今回もそのようにできるとは限らない。


 祐奈は恐怖を覚えて、ぎゅっと彼にしがみついてしまった。


「力を抜いて」


 彼の指がポンポンとあやすように、ヴェール越しに祐奈の頭を撫でる。祐奈は小さく何度も頷いてみせた。


 沢山の足音、馬の蹄の音、そして車輪が石床の上を回転するガラガラという雑多な音が響いて来る。馬や馬車も遺跡内に一斉に入って来ているのだろう。


 予定では、アリス隊はこのまま直進してホールに入り、その先の赤い扉を越えるはずだった。しかし最奥の扉は閉ざされているので、果たしてどうなるのか……


 音がかなり近い。もうそこまで来ている。


 ラング准将に抱きしめられながら、祐奈は通りのほうをそっと見遣った。


 アリス隊の行列は圧巻の一言だった。――立派な馬車、馬、身なりの良い騎士たち。それらがゾロゾロと列をなして続いている。まるで大名行列のようだ。


 祐奈は怖くなり、ふたたび安全なラング准将の懐の中に戻った。目を瞑り、じっとする。彼は祐奈をかばいながらも、行列の様子を時々観察しているようだった。


 アリス隊が早く通過するように祈り、祐奈はずっと緊張していた。


 どうか見つかりませんように。ラング准将が無事ここを出られますように……


 ――ところが彼らに何かが起きたのか、列の歩みがピタリと止まってしまったのだ。祐奈は見つかってしまったのかと、背筋が凍るような気分を味わうこととなった。


 ラング准将が少しかがみ、耳元で囁きを落とす。


「列が止まったのは、アリスの指示だと思います」


「……なぜですか?」


「もしかすると――鳥のせいかな」


 ラング准将は祐奈に説明するというより、ほとんど独り言のようにそんな呟きを漏らした。祐奈は彼の思考回路がどうなって『鳥』に行き着いたのか、まるで見当もつかなかった。


 しかし数メートル向こうの通路にはアリス隊の護衛騎士たちが大勢いる。あれこれ尋ねるのは危険だった。それで護衛隊に見つからないよう、より一層ラング准将に密着して、小さくなるしか祐奈にやれることはなかった。


 ――とてつもなく長い時間が流れた。


 ラング准将はそれなりに気を張っているのだろうけれど、いざという時にスムーズに動けるようにするためか、ずいぶんとリラックスしているように感じられた。


 戦いの場面では、体に力が入っていて良いことは一つもないだろうから、あえて力まないようにしているのだろう。


 ところが祐奈は素人なので、どうしてもガチガチに緊張してしまう。


 ラング准将は時折、不安がっている祐奈の背をあやすように、ポンポンと優しく叩いてくれる余裕まであった。その動きはとても穏やかで優しく、まるで赤子をあやすような手付きだった。


 そうされると祐奈は、浅くなっていた呼吸が落ち着き、平静を保つことができたのだった。


 永遠に思えるような長い長い時間が経過したあとに、やっと行列が進み始めた。


 隊の最後尾が去った瞬間、祐奈は心の中で何度も彼にお礼を言っていた。


 ――ここに居てくれてありがとう――あなたが居てくれて良かった――ありがとう――……


 何百回、何千回、感謝の言葉を繰り返しても、まだ足りないと思った。


 どうやったらお返しができるだろう? 祐奈にできることならなんでもしたいけれど、残念なことに、自分には捧げられるものが何もない。


 侯爵家出身で職場でも出世している彼はお金持ちであるのに、祐奈のほうは一文なしだ。


 ……では内面に何か価値はあるだろうか? いいや、それもどうだろう。祐奈はトークの達人でもないし、気の利いた会話で彼を楽しませるというのも、難しい。


「もう大丈夫です。……祐奈?」


 彼の穏やかな声。祐奈はぎこちなく顔を上げ、彼の端正な顔を見上げた。とても近い距離だった。


 まだ彼に抱きしめれていたから、ヴェールをあいだに挟んでいるものの、ほとんど恋人同士の距離感であるといえた。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 彼が微かに笑んだように見えた。よくよく観察しないと分からないくらいの、それは淡い変化だった。


「私、あなたに借りを返したいです。――考えてみると、助けていただいてばかりなので」


「……悩むな」


 祐奈は恩返ししたい気持ちでいっぱいだったけれど、彼のこの返しに『あれ?』と目を見張ってしまった。……てっきり、『お礼は結構です。仕事ですので』と辞退されるかと思っていたのだ。


「あの……何が悩ましいのですか?」


「受け入れるのは人としてどうかと思う部分もありますが、せっかくあなたがそう言ってくれているので、素直に便乗してもいいかなと心が揺れまして」


 こんな状況なのに、祐奈はついくすりと笑ってしまった。


「便乗していいに決まっています。ラング准将はちょっと高潔すぎると思います」


「そんなことはないのですが」


「そんなことあります。私にもっと恩を着せて、権利を行使してもいいんですよ?」


「私には権利があると?」


「ええ、もちろん」


「どんな権利ですか?」


「あなたが望むことなら、私はなんでも――」


「たとえば?」


「ええと……ちょっとすぐにはコレというものが思いつかないですが、そうですね……たとえば『三回まわってワンと言え』と命じられたら、従いますし」


「なんですか、それは」


 ラング准将が口元に拳を当てて笑いをこらえている。


「とにかくなんでもラング准将の希望を叶えますってことです」


「いいのですか? そんなふうに安請け合いをして」


「安請け合いではありません。ラング准将になら、私はなんでも捧げます」


「祐奈……」


 なぜだろう。ラング准将が不憫な子を眺めるような視線を向けてくる。


 『どうせ何も返せないくせに』と彼も気付いているからだろうか? 祐奈は誠意がいまひとつ伝わっていないのかと焦り、少し背伸びをして彼に縋った。そして必死に言い募った。


「――私が大金持ちだったらいいのに。そうしたら、ありったけ払います」


「でも祐奈にはお金がない」


「そうはっきり言わなくても……」


「お金がないなら、別のものを貰うしかないですね」


「なんでもおっしゃってください」


「今はまだリクエストはしません。来るべき時が来たら、たっぷり返していただくので」


 借金だと利息が膨らんでいくものだが、この場合はどうなのだろう。けれどまぁ、祐奈は利息分も払えるものなら、払いたい所存だった。


「その時は、延滞分の利息つきで、誠心誠意あなたに尽くします」


 彼のほうにリクエストがありそうなので、祐奈はほっとしていた。自分では思いつかないけれど、彼が考えてくれるなら、こちらは従えばよいだけだから、頭を悩ませないで済む。


 もしかすると魔法関連かなとも思った。祐奈が無から有を生み出せるとしたら、そのくらいしか考えられない。


 祐奈が安心しきって彼を見上げているので、ラング准将はそっとため息をついていた。


「なんだろう……自分が極悪人に成り下がったような気分です」


 どうして彼が少し後ろめたそうなのか、祐奈にはまるで見当もつかないのだった。





 8.ボーダー(終)


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