第82話 ほっと一息
浮遊感ののちに安静がやって来た。
この体験は祐奈にとってはとんでもなく衝撃だった。一度宇宙の果てに飛ばされて、また戻って来たかのような、途方もない感じ。
まだ耳がおかしい。ぐわんぐわんと耳鳴りがしていたし、三半規管が一時的にイカレてしまったのか、目も回っていた。
そんな最悪な状態の中でも、祐奈は一人ではなかった。――彼女は温かくて安心できるものに包まれていた。
必死でそれに縋る。祐奈は顔を伏せ、額を押し付けていた。何がなんだか分かっておらず、しばらくそのままでいた。
今、私は、何に縋りついているのだろう……? ふと違和感に襲われ、閉じていた瞳をそっと開く。
すぐ目の前に見慣れた騎士服。祐奈はそれをぎゅっと掴んでいた。恐る恐る顔を上げると、ラング准将のアンバーの瞳がじっとこちらを見おろしていた。
「ラング准将……」
呟きが漏れる。祐奈の言葉は朴訥としていて、ひどく頼りなかった。そして彼は彼で常ならざる感じであった。
「祐奈。大丈夫ですか?」
彼の低くて心地良い声が心に沁みる。祐奈は小さく頷いてみせた。
そうしたら彼が少しだけほっとして力を抜いたように感じられた。ラング准将に肩と腰のあたりを抱え込まれている。
天使の羽に護られているみたい……祐奈はぼんやりとそう考えていた。
「ここは安全なはずです」
状況は何も分からなかったが、彼がそう言うなら信じられる。これまで無意識に浅い呼吸を繰り返していた祐奈は、やっといくらかまともに息を吸えるようになってきた。
「何が……起きたの?」
「おそらく我々は強制的に転送されました」
「どこへ?」
ラング准将は壁に寄りかかって立っていて、祐奈は彼に包み込まれていたので、自分が今どこにいるのか、どんな状態でいるのか、まるで分かっていなかった。
確認しようと身じろぎしようとしたところで、彼にぎゅっと抱きしめられる。それは祐奈の存在を改めて確認しているような、性急な仕草だった。
祐奈は驚き、声を漏らしそうになって――衝動的に背伸びをして、彼の首に腕を回していた。
――どうしてそんなことをしたのかよく分からない。
けれど一度始めてしまえば感情には抗えなかった。それがきっかけとなって、ぎゅっと抱き着いてしまう。先程までの無自覚に包まれていた状態とは違って、自分から恋人のように抱き着いていた。
――とても怖かった。自分の体がバラバラに砕けて、なくなってしまうかと思った。
おそらく時間にしたら一瞬のあいだの出来事だったのだろう。けれど永遠にも感じられた。――寄る辺なくて。ただただ恐ろしかった。
それでも、永遠にも似たあの時間、傍らには彼がいてくれた。何も見えなかったけれど、彼に抱きしめられていて、ずっと護られていたことだけは分かっていた。あの感触だけが頼りだった。
祐奈はたぶん――禁忌を犯したのだ。
絶対にやってはいけない手順で魔法を行使したことで、我が身にとんでもないことが起きたのだと理解できた。ラング准将は祐奈に触れていたので巻き添えをくった形だ。祐奈の魔力が暴走し、石板が阻止するはずが、なんらかの事故で、空隙を縫って世界にダメージを与えてしまった。
だからあれだけ振り回されたのだ。
彼がいてくれなかったら、どうなっていたか分からない。自我を保っていられなかったかもしれない。祐奈にはそこまでの精神の強靭さはなかったから。
魔法空間では全てが剥き出しになる。本人が弱ければ、滅多打ちにされる。
祐奈はカナンまで長い旅をしてきて、ほんの少し成長できたかもしれないと感じていたけれど、やはり根源的には弱さを抱えている。それは人間としての本質、上限のようなもので、努力ではどうにも変えようのないものだ。
ラング准将が繋ぎとめてくれなければ、一瞬でバラバラに砕けていただろう。あの荒波のような凄まじいエネルギーの中を突っ切っている最中、彼が自我を保てていたことが祐奈からすると信じられない。……どうしてあのような芸当が、彼にはできてしまえるのだろう?
「一緒に来てくれて、ありがとう」
震える声でラング准将に告げると、彼が囁きを落とす。
「君を失わずに済んで良かった」
彼のこんなに切羽詰まった言葉は初めて聞いたかもしれない。だから祐奈の心の鎧もさらに剥がされて。何も取り繕えなくなってしまった。
「怖かった。すごく」
「……たぶん俺も」
「ラング准将も?」
怖かった、というの? ありえない話を聞いたと思う。これは祐奈を慰めるための台詞?
祐奈が彼の顔を確認しようと腕を外そうとしたら、いっそうきつく抱きしめられた。それで祐奈はおずおずとまた彼の首に手を回し直した。
「君を一人で行かせていたら、取り残された俺は、死にたくなっていたと思う」
彼が祐奈を抱きしめていた拘束をそっと緩めた。――そして左手を上げ、壊れ物に触れるかのように、祐奈の頬に当てる。
ヴェール越しに彼の手のぬくもりが伝わってきた。火傷しそうなほどに、祐奈は体に熱がこもっているのを感じた。
――この上なく幸福だと感じられるのに、衝動めいた何かに溺れそうになる。
目の前にいる彼の瞳は綺麗に澄んでいて、穏やかであったから、祐奈は受け入れられていると感じた。――それなのに、かき乱されてしまう。
安心できるのにドキドキして気が狂いそうになるという、相反する感情を持て余していた。
どうしよう……訳が分からない。ジェットコースターに乗っている時だって、もっとマシな状態だ。こんなに乱高下しない。
「あなたがいてくれて、良かった。――最後の瞬間は、あなたといたいと思ったの」
祐奈はもう何を口走っているのか自覚がなかった。ただ心の中にあるものを、そのまま吐き出していただけ。
普段、言葉を発する前にあれこれ考えてしまう彼女なら、絶対に口にしないであろう、血迷った台詞をそのまま出していた。
……祐奈が平常心を取り戻すまで、このあと、五分以上……
二人は静かに抱き合ったままでいた。
***
「ごめんなさい」
そっと彼の首に回していた腕を下ろす。我に返った瞬間、祐奈はなんてことをしてしまったのだろうと頭を抱えたくなってしまった。
いくらなんでもこれは……という気がした。心細さを言い訳にして、やりすぎてしまったのではないだろうか?
「ホッとして、甘えすぎてしまいました」
動揺のあまり余計なことを口走ってしまう。それに対し彼は、落ち着いた声音で答えた。
「それは私も同じです」
「え……ラング准将?」
「私も甘えすぎていたと思います」
飴色の瞳が優しく細められ、悪戯な口調で彼がそんなことを言う。
祐奈は『そんな馬鹿な!』と返しそうになり、すんでのところでこらえた。
祐奈も薄々気付き始めていたのかもしれない。祐奈が気を遣うと、ラング准将がそれを咎める意図なのか(?)、こちらを途方に暮れさせるような甘い台詞と態度で返してくるから、抵抗してはいけないのだということに……。
恐ろしいことにラング准将は、祐奈が気弱になったとしても、それ以上に後退させない方法を、いつの間にか完璧に習得していたのである。
祐奈は気力を総動員して気を強く保たねばならなかった。ロボットのようにぎこちなく彼からそっと距離を取り、周囲に視線を走らせる。
少し下がってみると、ラング准将が寄りかかっていた壁面に、『緑の石板』が埋め込まれていることに気付いた。先ほど祐奈が引っ張り込まれたのは『青い石板』だった。――ここにあるのは形状こそ同じであるのだが、色違いで、別物のようである。
ラング准将は『強制的に転送されました』と言っていたし、やはりここはカナン遺跡とは別の場所なのだろう。こちらの緑の石板上にも、前と同じく、金属プレートが掲げられ、そこにも古代文字が刻まれていた。
「これ……なんて書かれているのでしょうか」
祐奈が尋ねると、ラング准将が壁から背を離して金属プレートを眺めた。
「カナン遺跡の『赤い石板』の上に書かれていたのと同じ文字列ですね」
なんてことない様子で彼がそう言うので、祐奈は驚いてしまった。
……この奇怪な文字列を記憶しているの? 言語として認識できていないのに、記号をありのまま順番も完璧に覚えるって、相当難しいと思うのだけれど。しかも転移により嵐の中を潜り抜けていたようなあとだから、少し時間もたっているのに……。
「やっぱりCIAの人だ……」
「さっきから、なんですそれ」
「すごい人ってことです」
「私はただの護衛ですよ」
「ただの、じゃありません。すごい護衛です。私にとっては世界一なんです」
「……ありがとうございます」
ラング准将が微かに瞳を伏せ、はにかんだような笑みを浮かべたので、祐奈は『彼でも照れることがあるのね』と衝撃を受けていた。
――生まれてこのかた、ずっと他人から褒められ続けてきた人生でしょうに!
普段の大人っぽい彼も素敵だけれど、こういう可愛らしい面を見せてくるのは、ほとんど反則じゃないかと思った。
ラング准将は私をどうしたいのだろうか……この時、祐奈はちょっとした戦慄を覚えていた。
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