第81話 世界に穴が開いた
【前書き】
【前回まで】
≪『3.あやまちに気付く時』-『ハリントン神父と枢機卿』より抜粋≫
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ダリル・オズボーンはリベカ教会の宝物庫で、この世界で最も神秘的な聖具『キューブ』に向き合っていた。
どこか中性的な彼の整った面差しに、うっとりと夢見るような熱が浮かんでいる。
「……素晴らしい」
オズボーンの華奢な指先が、『キューブ』の側面に触れた。
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≪『7.白黒』-『オズボーンの忠告』より抜粋≫
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「さて最後に一つ、アドバイスだ。ここでは魔法を習得『しない』ほうがいい」
『習得する』ほうが、ではなく、『習得しない』ほうがいいの?
「というか、そもそも……レップの聖具は一つきりですよね?」
「うん」
「それなのにアリスさんと私、二人共、習得することが可能なのでしょうか」
「ここでは可能だ。駄目な聖具が多いけれど、レップならばね。でも君は辞退したほうがいい」
「どうして?」
「詳しくは言えないが、このアドバイスはただの気まぐれ。……僕を信じる?」
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≪『7.白黒』-『ありのまま』より抜粋≫
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「従兄にはいつも『祐奈は地味で目立たない、冴えない』と言われていました」
「本当にそんなことを言ったのなら、従兄は眼科に行くべきですね」
眼科ということは……
「目が悪い?」
ふふ、と笑ってしまう。ラング准将はヴェールに遮られて、こちらの顔も知らないはずなのに。
可愛い女の子に言うような台詞を口にするものだから……。
「もしくは頭が悪いのかな」
「知らなかった。ラング准将は案外口が悪いのですね」
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≪国内地図≫
※■:カナンルート
※□:ローダールート
※この縦のラインが国境線
↓
┬────────────────────
カナン
■
│
ローダー ベイヴィア
□ □ □ ■←交差地点:レップ
│ バノン
│
│ ③ソーヤ ガーナー
│ ■ □
│
│ ②ポッパーウェル リベカ
│ ■ ☆ □
│ 王都:シルヴァース
│
│ ■
│ ①モレット
└────────────────────
【本文】
祐奈、ラング准将の両名が消え去ってから、リスキンドは素早く周囲をあらためた。彼は手順に従い、すべきことをした。……しかしどうにもならなかった。
「お二人はどこへ消えたのでしょう?」
カルメリータはすっかり青ざめている。
「……分からない」
リスキンドに答えられることはなかった。事態は彼の理解が及ぶ範囲を超えている。魔法の領域は専門外だった。
カルメリータがゴクリと唾を呑み、少し前のめりになって尋ねてきた。
「もしかして、あの赤い扉の向こうに連れて行かれたのでしょうか?」
カルメリータは奥の間に続く、恐怖の象徴でもある扉を指して訴えるのだが、リスキンドは懐疑的だった。
「そうは思えない」
「どうしてですか?」
「二人が呑み込まれても、圧が減っていない。もしも聖典が、祐奈っちを中に呼び込んだのなら、満足して空気が変わるはずだろ?」
「でも……呑み込まれた先で、お二人が戦っているのかも」
「それは分からないな」
「じゃあ私が開けてみます」
「カルメリータ?」
リスキンドは正気を疑うというように、カルメリータのふくよかな顔を見つめる。急に何を言い出すんだ、この人は。
「リスキンドさんは打開策を考えてください。私、赤い扉の中に入ってみます」
「だめだ」
「でも急がないと、時間がないかも」
「入るなら俺が」
「それでリスキンドさんが瞬殺されたら、私はもうお手上げです。何もできません」
「絶対駄目。行かせられない」
悶着を起こしていると、
「――どのみちカルメリータには、赤い扉を開けることはできないよ。あれってロックされているから、聖女のブレスレットをかざさないと解錠できないからね」
別の声が割って入った。音源は、開け放たれていた入口扉のほうからだった。屋外の光をバックに、遺跡に足を踏み入れて来たのは、誰あろう――
「オズボーン……」
リスキンドの顔が歪む。
こいつが全部仕組んだんじゃあるまいな? リスキンドの堪忍袋の緒も切れかかっていた。思わず一歩踏み出すと、オズボーンが右手を上げて、どうどう……というように制してくる。
――そしてオズボーンのあとから枢機卿までもが入って来た。
「枢機卿もいたのかよ」
リスキンドは最低限の敬意さえも失いつつあった。――なぜ枢機卿がカナンに来ている? 聖女アリスについて、ローダールートを辿っているのではなかったのか?
全てが策略めいて感じられ、不快だった。
しかしここでリスキンドは枢機卿の厳めしい顔付きを眺め、違和感を覚えた。枢機卿は混乱しきっているように見えた。瞳が揺れ、彼の精悍な顎が微かに震えている。
枢機卿は傍らに佇む小柄なオズボーンを見おろし、強張った低い声で尋ねた。とても早口だった。
「何が起きた」
「困ったことが起きました」
「祐奈はどこへ行ったんだ? 死んだのか?」
「死んではいないはず……」
「では赤い扉の向こうに連れて行かれた? 聖典の力で?」
「違いますね」
「違う? どういうことだ?」
ほとんど罪人に対するように、枢機卿がオズボーンの首根っこを引っ掴む。オズボーンは少し迷惑そうに枢機卿の大きな拳を指で払った。
「放してください。――今回は異例ずくめです。こんなこともあります」
「こんなこともあります、だと!? それで済むと?」
「僕だって想定外ですよ。こんなのは。青い石板は『接触無効』、『魔法無効』です。あれは精密な装置で、ただの受け手でしかない。自主的に何か行動を起こすなんて、プログラム上ありえないんだ。――リスキンド――祐奈は消失の直前、青い石板に触れていた?」
「ああ、そうだ」
「具体的に何をした?」
「初めに雷撃を軽く流してみたが、無反応だったそうだ。それでもう一度彼女が石板に触れて、『今度は回復魔法を試してもいいか』とラング准将に尋ねた」
「ラング准将はなんと?」
「やめておいたほうがいいと止めていた」
「祐奈はそれを聞かなかった?」
「いや、それで思い止まったようだ。けれど石板に触れていた手に違和感があったらしく、慌て始めた。祐奈に接触していたラング准将も何かを感じていたようだ。二人が消えたのはそのすぐあとで、あっという間の出来事だった」
「なるほど……」
オズボーンは腕組みをして考えを巡らせてから、はぁとため息を吐いた。
「――おそらく、二人は転送された」
どこへ、とリスキンドが尋ねようとしたところで、混乱しきりの枢機卿が割って入った。
「馬鹿な、ありえない!」
「そう……ありえない」
「大体、なぜ祐奈は青い石板に触れた? ちゃんと書いてあるだろう、『接触無効』、『魔法無効』と」
「いや、読めませんでしたよ」リスキンドが訝し気に口を挟む。「だいたいこれ、何語です? 学者じゃあるまいし、読めるわけがない」
「しかしレップ大聖堂で古語解析を習得していれば、読めたはずだ」
リスキンドは咄嗟にオズボーンを見遣っていた。
――これか――このためにオズボーンはレップ大聖堂で、祐奈に魔法習得をさせなかったのか? しかしなぜ? どこまでがオズボーンの手のひらの上なんだ?
やつに踊らされているような気がして面白くないが、祐奈が消失した件について、遺跡に入って来たオズボーンは本心から驚いているように見えたから、完全に計画通りということでもないのか……?
あの時オズボーンの瞳には『ありえない』という驚愕の色が浮かんでいた。
一体何が起きている? リスキンドはオズボーンの顔を見つめ、ヒントを探そうとしたが、彼はすでによそ行きの顔をしていて、感情を読み取らせはしなかった。
「まぁとにかく」オズボーンは軽く肩を竦めてみせる。「青い石板は本来、魔法を流し込まれても、それを無効化するような仕組みになっていました。聖典の力が及んでいるから、これは絶対なはずなんだ。魔法が作用したというなら、祐奈の放った力が、聖典の意表を突いたということでしょうね」
「万能の存在が裏をかかれるなど、ありえない」
「ありえないけれど、実際にありえた」
二人の聖職者はどこか刺々しい空気で視線を交わしている。枢機卿は取り乱していたし、オズボーンも平静に見せてはいるものの、実は感情を乱しているのかもしれなかった。
「リバース……なぜそれが起こりえた?」
オズボーンが呟きを漏らす。不可解そうな顔付きだった。
それでリスキンドは思ったのだ――オズボーンも全てに精通しているわけではないのだな、と。
彼がしているのは夢見のようなもので、漠然としたイメージが与えられるだけで、事態が進展するまで、本当の意味は掴めていないのかもしれない。
祐奈にレップ大聖堂で『魔法習得するな』とアドバイスしたのも、そうするとどうなるか、効果を正確には理解していなかったのか? しかしそれにより何かが起こる可能性は把握していた。
――彼はたぶん賭けに出たのだ。それは祐奈に対して慈悲の心が芽生えたからなのか、あるいはただの気まぐれだったのか。それはリスキンドには分かりようもなかったのだけれど。
オズボーンが続ける。
「反転だ。……祐奈の魔法は確かにその性質を有しているが、このケースでそれを起こすのは、魔術理論上、不可能なんだ。しかし現象的には間違いなくそうだ」
「意味が分からない」
リスキンドが咎めると、オズボーンは機嫌が悪そうに小さく舌打ちを漏らした。
「君に分かるようには説明していない。分からせる義理もないしね」
「このクソ野郎が」
リスキンドは苛立ち、オズボーンから視線を逸らす。見ていると苛つくだけだと思ったのだ。
気を静めるように、手の中の立方体を眺めおろした。――二人が消えた際に、床に落ちて転がった、謎の物体。
「おや」
オズボーンが小鳥を見付けた猫みたいに瞳を輝かせて、飛ぶような勢いで近寄って来た。そうして無遠慮にリスキンドの手から黒い立方体を奪い取ってしまった。
「おい、何するんだよ」
「キューブが弾かれたか! そうか、そうか」
「なんだそれ」
「神秘の聖具キューブだよ。お馬鹿さん」
オズボーンが口の端を上げて笑う。
「そうかよ、このド変態野郎」
「そんなに持ち上げられちゃ、テレるなぁ……」
オズボーンはキューブを持ち上げて、瞳を眇めながら中を覗き込んでいる。
「キューブと石板はここまで相性が悪いのかぁ……意外だな……」
「どういうことだ?」
リスキンドだけでなく、枢機卿もやはり苛々している。というか皆、オズボーンに対し苛立っていた。なんだかルークですらご機嫌斜めで、鼻の上に皴を寄せて、どことなし白黒の毛を逆立ててオズボーンを見上げていた。
「猫が毛玉を吐くのと一緒だね。受け付けられなくて、これだけ吐き出した」
「なぜ祐奈がキューブを持っていた?」
「それはぁ――さっき僕が祐奈のポッケに放り込んだから」
「なんだと?」
枢機卿の顔は怒りのあまり赤らんでいる。
「実験ですよ、実験。……しかしよく分からんなぁ……理論上、キューブが加わったとしても、石板と回復魔法の組み合わせでは、こんな現象は起きるはずもないんだが……」
「しかしお前は以前、回復魔法は危険だと言っていなかったか。現象が逆行するのだ、と。それが原因では?」
「ヤバいとはいえ、限度がありますよ。この現象はちょっと……筋が通らない。石板は聖典の分身のような存在で、魔術的に非常に強固な代物なんです。本来ならば逆行をかけても弾かれたはずだし、大体、逆行したとて、ワームホールを維持できるエネルギーが存在しないから、こんなことは起こりえないはずなんだが……」
解せないというようにキューブを眺め回していたオズボーンは、ふと眉根を寄せて素っ頓狂な声を上げた。
「あ! 嘘だろう?」
「今度は何だ!」
そろそろ枢機卿の手が出るかもしれない。端で聞いていたリスキンドは、堪忍袋の緒が切れた枢機卿が、オズボーンを思い切りぶん殴ってくれないだろうかと期待していた。
「祐奈が飛ばされたせいで、バランスが崩れたのかな? 世界に穴が開きました」
「なんだって?」
「もう一人、お客さんがやって来ましたよ。聖典はバランスを取り戻すために、客人を招くしかなかった。――異世界からもう一人、やって来た」
枢機卿の口がポカンと開いた。やがて彼の口から発せられた「どこへ?」という台詞は、ひどく掠れていた。
***
ローダー近くの農村に迷い人が現れた。
その人物は三人目の聖女なのだろうか? ――いや、どうやら違うようである。その人物は男性だった。
迷い込んだ彼はすぐに異変に気付いた。大学から家に向かっていたはずが、目の前には見たこともない景色が広がっている。白昼夢を見ているかのようだった。微かに顎を上げ、そして理解した。
――彼女はここにいる。
彼にはそれがすぐに分かった。数か月前、忽然と姿を消した彼女。自主的に失踪したわけがなかった。彼女は保守的な性格で、そんなことをするはずもなかったから。
犯罪に巻き込まれたのかもしれないと彼は考えていた。そしてそんなことは許容できないと強く思った。許さない。絶対に見つけ出してみせる、と。
彼――若槻陽介はゆっくりと口角を上げていた。
彼女よりは二学年上であるが、歳は一つ上の彼。十二月生まれの陽介はまだ誕生日が来ていないので、年齢は二十歳である。
若槻陽介の面差しはとてもハンサムではあるのだが、薄い唇は酷薄な印象を見た者に与える。神経質そうな気性が目元のあたりにも出ていた。腺病質で、何事においても潔癖な感じがする青年だった。
「祐奈……必ず見つけ出す」
彼女を失ってから、笑ったのはこれが初めてかもしれない。どうやらツキが回ってきた。
――次に会ったなら、あの子をがんじがらめに縛り付けて、どこかへ隠してしまおう。もう誰の目にも触れないように。好き勝手に連れ去られてしまわないように……
日本に居た時、少し自由にさせすぎたことを、彼はずっと後悔していた。ちゃんと拘束しておかなかったから、こんなふうに見失ってしまったのだ。
以前から彼女の耳に毒を注ぎ続けて、洗脳しようとしたけれど、どうにも上手くいかなくて、結局中途半端なままになっていた。
――なぜ心を折ることができなかったのか? それは日本にいた時は、彼女には彼女自身の生活があり、友達もいて、逃げ場もちゃんとあったからだ。
しかしこの場所なら、きっと上手くいく。同じことをしたとしても、強い効果が出るはずだ。
――まずは彼女を孤立させる。精神的に痛めつけて、もう立ち上がれないと思わせる。
誰にも相談できず、痛みをその身に抱え込み、病んでしまえばいい。
以前の彼女は気弱なほうであったから、そうすることで、意のままに操れるはずだ。すでに下地は作ってある。昔から、『君に価値はない』と囁き続けた。環境が変わり、追い詰めてやれば、あれが効いてくるはずだ。彼女は自信を失う。一度折ってしまえば、あとは簡単に手に入る。
だって彼女は、僕のものだから。ずっと僕のものだった――若槻陽介は夢見るような笑みを浮かべた。
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