第80話 びっくり仰天!


 祐奈は少しだけホッとできたので、ホール内を確認する余裕が出てきた。


 正面の赤扉と、背面の出口(先ほど入って来た扉)以外に開口部はない。ホールは長方形のシンプルな形状なので、少し意外に感じた。ここに入る前に、そそり立つ壁面のあいだを通って来たのだが、あの部分は部屋になってはいないのだろうか? いわゆる城壁のようなもので、石が積まれていただけなのだろうか。もしも部屋があるなら、背面が凹型に伸びていないとおかしい。あるいはこのホールとはスペースが区切られているとしても、そちらのほうに続く扉がないと。


 祐奈はふと不思議なものがあることに気付いた。ホールの左壁面に――方角的にいうと南向きになるのだろうか――もう一つ石板が埋め込まれている。そばに扉はないのにも関わらず、なぜか同じような正方形の石板があるのだ。


 そちらの石板は深い青色をしていた。正面の石板は赤なので、機能的に異なるのだろうか。二つの石板は大きさこそ同じであるのだが、青いほうには波紋のような文様が刻まれていた。


 よくよく観察してみれば、同心円状に凸凹ができているのが確認できた。そして石板の上にはやはり、読めない文字が刻まれた、金属プレートがあった。


「――青い石板のところには、扉がないですね」


 壁面に突然、三十センチ四方の鮮やかな青石板が埋め込まれているさまは、少し異様に感じられた。


 祐奈がラング准将に話しかけると、彼は少しだけ空気を和らげてくれた。


「石板の上に、銅板の説明書きがありますね」


「はい」


「赤い石板の上に掲げてあるものとは、内容が違うようです」


 彼がそう言うので、祐奈はびっくりしてしまった。


「ラング准将はあの文字が読めるのですか?」


「いいえ。書かれている文字列がそれぞれ異なるので」


 ラング准将はチラっとしか室内に視線を走らせていないようだったのに、細かい点をよく見ているものだと祐奈は感心してしまった。


 祐奈は凡人なので、両方を忙しく視線で行き来して、一つずつ文字を比べていかないと違いが分からない。意味もよく分からない記号の羅列なのに、どんな順番で並んでいるかなんて、覚えられるわけがないと思うのだ。


「すごい! CIAの人みたい」


「CIAとはなんですか?」


「……ごめんなさい。なんでもないです」


 やはりうっかり気を抜くと駄目だ。混線してしまう。


 二人は話しながら、青い石板のほうに近寄って行った。近くで見ると惹きこまれるような不思議な感覚に囚われた。ただの石板のはずなのに、歪み、たゆたっているような感じがする。平衡感覚が失われていくような……


「――割れている」


 ラング准将が呟きを漏らし、石板の隅に指を触れた。祐奈は気付かなかったのだが、右隅のところに微かに亀裂が入っていたらしい。


 祐奈はラング准将が石板に容易く触れたので、そのことに度肝を抜かれてしまった。


 何かあったら大変! と思ったからだ。しかし彼が触れたのは、そうしても問題なさそうだと判断したからだろう。赤い扉のほうには最大限の警戒を払っていた彼だが、こちらの青い石板に対しては自然体で向き合っている。


 ――接触と同時に角がポロリと取れた。零れ落ちたのは、小指の先くらいの小さな欠片で、それを器用に指で摘まんだラング准将は、仔細確認してから呟きを漏らした。


「綺麗な青だ」


「そうですね。なんだか不思議な色味……」


「あとでよく調べてみましょう」


 接着剤もないし、どちらにせよもとの場所には戻せない。――ラング准将は欠片をポケットにしまった。


 祐奈も安心して手を伸ばして石板にペタリと触れてみた。するとラング准将がすぐに祐奈の腰を抱え、彼女の手を掴んだ。乱暴ではなかったけれど、それは性急な仕草だった。


「祐奈、いけません。不用意に触れては」


「ラング准将が触れても問題なかったでしょう?」


「あなたは聖女のブレスレットを着けています。私とは異なった反応が起こるかもしれない」


 先ほどラング准将が一瞬だけブレスレットを抜き取ったが、すぐに戻してくれたので、今は祐奈の手首にちゃんと嵌まっている。となると……


「ブレスレットには反応しませんでしたね。上の銅板に書かれているメッセージは、もしかすると『接触しても何も起こりません』とかでしょうか」


「かもしれませんね。――あるいは魔法を流すと何かが起こるという警告とか?」


「……それも違うみたいです」


 祐奈は少しだけバツの悪い思いをすることとなった。今となっては、接触してから祐奈の取った行動は、不用意だったと感じられたからだ。


「――祐奈?」


 ラング准将が珍しくお小言モードな顔付きになっているので、祐奈は体を縮こませて謝った。


「ごめんなさい。接触しても変化なしだったから、試しに軽く雷撃を使ってみたんです。でも何も起こらなかった……」


 雷撃といっても放電程度の軽いものである。そして祐奈が接触して魔法行使する前から石板はすでに欠けていたので、破壊は祐奈のせいではない。


 しかしラング准将が少し怒っているのは、遺跡を破壊したかどうかではなく、純粋に祐奈を心配してのことだろう。何かあったらどうするんだと、彼の瞳はほんの少し責めるように、こちらに注がれているのだった。


 祐奈はふと――この現状について、ラング准将に囚われてしまったみたいだと考えていた。


 彼の左手はウエストのあたりに添えられていて、祐奈の手首は彼の右手に包み込まれている。これまであまり感じたことはなかったけれど、男性の手に押さえられていると、自分の手首がいかに華奢であるかに気付かされた。


 じわりと体温が上がってきた。ヴェールがあって本当に良かった。たぶん今、顔がひどいことになっている……。


「脈が速い」


 ラング准将が呟きを漏らした。その声音は飾り気がなく、なんだか感心しているようでもあったので、祐奈はますます動転してしまった。


「……あの、恥ずかしいです」


「指先まで赤い」


「ラング准将」


 これはなんの拷問なのだろう。許して欲しくてチラチラと彼の端正な顔を見上げてみるのだが、ラング准将は視線を伏せたまま何事か考え込んでいて、心ここにあらずという様子だった。


「……そうか」


 彼が夢から覚めたかのように祐奈を眺めおろす。祐奈はマイペースなラング准将を少し恨めしく感じてしまった。


「あの、何か?」


「魔法行使の際、あんなに静かなものですか?」


「え?」


 意味が分からなかった。


「あなたが石板に触れた瞬間、私はすぐにあなたの手首を掴みました。その後魔法を行使したのですね?」


「ええ」


「でも私はなんの痕跡も感じ取れなかった。――それは普段からそうなのか、あるいはあなたがこの石板に触れていたせいなのか」


「どうでしょうか。私にはよく分かりません」


「石板から手を離した状態で、雷撃を使ってみてもらえませんか? 何か感じ取れるか確認したい」


「今? ここで?」


「お願いします」


 祐奈の手首は相変わらずラング准将に拘束されたままである。彼が一歩下がり、祐奈を引き寄せたので、二人は石板から少し離れることとなった。


 放電程度なら呪文を唱えなくても難なく行使できる。意識を集中させると、指先に小さな火花が散った。それは線香花火くらいの小さな光だった。


 放電の瞬間、普段滅多に動揺しないラング准将が、微かに身じろぎしたのが祐奈にも伝わって来た。


 ……なんだろう、これ……


 祐奈は呆気に取られてしまった。誰かが素肌に触れている状態で初めて魔法を使ったのだが、なんというか、こう……とんでもないことをしてしまったという心地になった。確実に一線を越えたのが分かった。


 彼が触れている手首から何かがせり上がってくる。振動、熱、――そして衝動めいた何か。体の深い部分で互いが共鳴したような、不思議な感覚に襲われた。


 ――二人はしばし無言で視線を交わしていた。祐奈はヴェールを着けていたけれど、衣服を剥ぎ取られ、彼の前で丸裸にされたような心地だった。彼の美しいアンバーの瞳は、ヴェールの奥を見透かしそうなほどに深みがあった。


「……過去、他の誰かと同じことをしましたか?」


 ラング准将は、祐奈が魔法行使の最中、地肌を誰かに触らせたことがあるかと尋ねている。祐奈は正直に答えた。


「いいえ」


「では今後、絶対にしないでください」


 冷静に考えてみると、彼のこの要求は、護衛としての領分から逸脱しているのかもしれなかった。けれど祐奈は他の人と、さっきのあれをすることは到底考えられなかったし、それをすることでラング准将を失望させてしまうのは嫌だと感じた。


「はい。……ラング准将以外とは、しません」


 小声でそう告げるのがやっとだ。見上げた先にある彼の瞳は、なんとも謎めいて見えた。


 秋の日差しのように穏やかにも感じられたし、春先に吹く強い風のように、こちらを悪戯に翻弄しているようでもあった。


 祐奈は頭の片隅で次のようなことを考えていた。だけど……他の人と同じことをしたとしても、今と同じ結果になったかどうかは分からない……と。


 こんなふうになったのは、相手がラング准将だからだと思うのだ。他の人に触れられていて、魔法を使ったとしても、たぶんこんなふうにはならなかったのではないか。


 ……彼の目を見て約束をしたから、絶対に他の人とはするつもりもないので、確認のしようもないけれど。


 ――ところでこの時、少し離れた場所に佇んでいたリスキンドは、ニヤニヤ笑いをしながら二人の様子を眺めていた。


 彼は命の危険がある現場に何度も出ているので、スイッチの切り替えどころを心得ている。常にピリピリした状態でいると、実力の半分も出せなくなるので、あえてこんなふうに息抜きする癖がついているのだ。彼は緊迫した状況の合間でも、平気で冗談を口にできるし、リラックスした状態に持っていくことができる。


 そんなリスキンドにとって、祐奈とラング准将のやり取りは、よい気晴らしだった。


 そしてリスキンドの隣にいたカルメリータは、瞳をキラキラさせながら二人を眺めていた。彼女の丸みを帯びた頬は赤く上気している。


 カルメリータはカルメリータで肝の据わったところがあるので、危険を伴う場面ではプロ(ラング准将とリスキンド)に任せることにして、あれこれ悩むのをやめていた。


 この時、彼女もまた傍観者に徹していた。そんなカルメリータにとって、祐奈とラング准将の一連のやり取りは、やはりよい気晴らしに他ならなかった。


 ルークだけが我関せずだった。初めこそ賢者のように訳知り顔をしていたものだが、今ではぺたりと床にお腹をつけ、そのうちに顎もつけて寝そべってしまっていた。



***



「あの、ラング准将」祐奈はおずおずと申し出てみた。「もう一度、石板に触れてみていいですか?」


「どうぞ」


 ただし彼は祐奈の自由にはさせなかった。手首を包み込んだままだったし、彼の左手はまだウエストに添えられたままだった。祐奈は石板の冷たい肌触りを感じながら、彼のほうを振り返った。


「……回復魔法を試してみても?」


「それはやめたほうがいい」


「なぜですか?」


「レップ大聖堂で、オズボーンが回復魔法の危険性について話していたでしょう。普段使いならともかく、呪術的な空間では避けたほうが賢明だ」


「そう……ですか」


 祐奈は少し残念に感じた。


 ――その瞬間、指先が沈む感触がして、はっとして視線を石板に戻した。ところが視覚的には何も変化はない。指は石の中に吸い込まれてもいなかったし、石板自体がうねっているわけでもなかった。


 ――けれど何かがおかしい。祐奈の指先は異変を訴え続けている。


 ラング准将も異変を察知したようだった。彼が慌てて祐奈の手を石板から離そうとするのだが、石から発せられた強い引力によりそれは阻まれた。


「ああ、どうしよう、引っ張られる――」


「祐奈、回復魔法を使いましたか?」


「いえ、使ったつもりはないのです。でも頭に思い浮かべたせいで、勝手に引き出されたのかも」


 こうなるともう鶏が先か、卵が先か、だった。祐奈は行使するつもりがなかったのだが、初手はやはり祐奈だったのだろうか。


 無意識に回復魔法を流し込んでしまったのか――あるいはやはり強制的にそれが引き出され、祐奈に非はなく始まってしまったのか。とにかく一度回路が開いてしまえば、もう抗えない。


 祐奈は大波に呑まれたような心地だった。全てが引っ張られる。


 防衛反応により、魔力を全力で注ぎこんだ。初めて石板に雷撃を使用した際はなんの反応もなかったのに、今は違った。『魔法を出力している』という感覚が確かにある。


 回復魔法、雷撃、それらを交互にスイッチしながら出力する。やがて雷撃の主筋に回復魔法が絡みつき、螺旋状に回転しつつ、波動のように石板に吸収され始めた。


 祐奈にできることといえば、ラング准将に危害が加わらないよう、方向性をコントロールすることだけ。とはいえ強制的に引き出されてしまうので、被害が出ない一方向――石板に流し込む以外は方法もなかったのだが。


 とてつもない魔力が流れ込んでいるはずなのに、石板にダメージはない。呑み込まれる。


「祐奈、自力で止められますか」


「無理です。ラング准将、ごめ――」


 んなさい、と最後まで言うのは無理だった。祐奈はひときわ強い力で引っ張られ、視界が反転した。


 異変が起きてから収束するまではあっという間だった。


 ――その場から祐奈、ラング准将、両名の姿が忽然とかき消えたため、リスキンドは呆気に取られてしまった。人体消失を目の当たりにして、カルメリータが「ひっ」と息を呑む。


 ――黒い立方体が中空から落ちて転がり、壁にぶつかって止まった。


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