第79話 赤い扉


 遺跡への入口に至る道は、モーセ十戒の海割りを思わせた。海が割れ、そこに道が現れたかのように、そそり立つ壁面に挟まれた圧迫感のある道が続く。


 通路の突き当り、最奥の壁には尖塔アーチの大きな開口部があった。そこには頑丈そうな鉄扉が付けられている。彩色されていないので、オズボーンが言っていた『赤い扉』ではない。


 それをリスキンドが大きく開け放った。ちなみに彼が引いていた馬の手綱は、今はカルメリータに預けられている。


 一行は遺跡の中に足を踏み入れた。


 開け放たれた背後の扉から陽光が射し込んでくるものの、やはり薄暗い。


 横長にぽっかりと開けた空間で、そう広くもなかった。映画館のロビーに感じが似ている。


 十メートルほど奥に深い赤色の大扉があった。――あれが、オズボーンの言っていた例の扉だろう。


 祐奈は赤い扉を一人で通過しないといけない。あの奥が呪術的空間になっているということは、遠い果ての地にある聖典が支配していることになる。


 祐奈はこの場所にそう嫌な感情は抱かなかった。


 しかしラング准将とリスキンドの両名は、遺跡に足を踏み入れた瞬間から、皮膚に静電気が走ったような、異常な空気を読み取っていた。――互いに視線を交わす。普段お気楽なリスキンドが、口元を微かに引き攣らせていた。


 ――ラング准将は静かに祐奈に向き直り、彼女を眺めおろした。


「先ほどオズボーンと何を話しましたか」


 尋ねられた祐奈は『困ったことになった』と考えていた。ヴェールがあってまだ良かった。目を見てラング准将に嘘をつきとおせる自信がない。


 ――それに聡い彼のことだ。中途半端にごまかしても、声の些細な乱れなどから、すぐに嘘だと見抜いてしまうだろう。


 そこでおおむね本当のことを話そうと決めた。都合の悪い部分には触れなければよい。それが一番上手く切り抜けられそうな方法だった。


「ええと……ラング准将のことを」


「私のことですか?」


「オズボーンさんは……ラング准将のことが、その……お嫌いだそうです」


 ラング准将は顔色一つ変えずに、祐奈がした間抜けな打ち明け話を聞いていた。


 リスキンドがなんともいえぬ表情で眉根を寄せ、腕組みをしながらちらちらとラング准将の様子を窺っている。


 ルークはお利口にお座りして、話の相槌を打つように、咳払いのような音を喉から漏らした。


 カルメリータは心配そうに祐奈を見守っている。


 しばしの沈黙のあと、ラング准将が冷静に促した。


「他には?」


「あとはカナン遺跡内でのルールを」


「どんなことですか?」


「赤い扉を初めに通過するのは、私一人で、と」


「なぜ?」


「ええと……それは聖典が定めたルールだから」


 祐奈の声が小さくなる。実際は聖典が定めたルールなどではない。オズボーンの要望と、祐奈の希望がマッチしただけだ。――祐奈は赤い扉を一人でくぐらなければならない。誰も巻き込まないために。


「――ラング准将」リスキンドが口を挟む。彼らしくない生真面目な調子だった。「自分が先に通ります。扉を開けたまま通過するので、何が起こるか外から確認してください」


 リスキンドはすでに、この尋常ならざる圧は、あの赤い扉の向こうから来ているであろうことを悟っていた。それはラング准将も同様だろう。


 ――祐奈を単独で行かせるだって? ありえない、とリスキンドは考えていた。一番に通過する自分はおそらく無事では済まないだろうが、外部から現象を確認してもらえれば、打開策は見つけられるかもしれない。


 しかし――


「駄目だ」


 ラング准将はリスキンドの申し出を却下した。声を荒げてもいないのに、抗えない何かがそこにはあった。


「ですが、ラング准将」


「俺が行く」


「それこそありえない! あなたは指揮官ですよ」


「お前を犬死にさせるわけにはいかない」


「あなたこそ、でしょう」


「この中で問題に対処できそうなのは俺だけだ」


「とはいえ、あなたは魔法使いじゃない。聖典が支配する空間で、勝ち目はありませんよ」


 リスキンドは感情的になっていた。対し、ラング准将はあくまでも冷静だった。彼は薄く笑み、信頼を寄せている部下を見遣った。


「万が一のことがあったら、お前は祐奈とカルメリータ、ルークを連れて逃げろ。俺を助けようとは考えるな。カナン以外から国境を越えて、国外に出るんだ。これは命令だ」


 リスキンドは息を詰めてラング准将の怜悧な瞳を見つめ返していた。納得はいっていない。どうしても賛成はできなかった。


 彼の指示を『くそくらえだ』と思ったのは、おそらくこれが初めてのことだった。


「あの、待ってください! 扉は私が一人で通過しないといけません」


 祐奈は蚊帳の外に置かれて、ひどく焦っていた。


 ――どうしてなの? どうして二人とも、赤い扉の向こうが危険だと気付いてしまったの? 祐奈にはまるで見当もつかない。


 祐奈がオズボーンの話を、おおむね正直に話してしまったから? ああ――こんなことなら、隙をみて、さっと扉を開けて通ってしまえば良かった! 儀式的な問題なのだと仄めかせば、ラング准将も退くと思ったのに。


 ラング准将が微かに瞳を細めてこちらを流し見る。


「祐奈は何も感じませんか?」


「え? ええと、はい……」


「なぜだろう」


 ラング准将は違和感を探るように視線を巡らせる。そしてカルメリータを眺めた。


「カルメリータは?」


「あの……私もあんまり……」


 カルメリータはなんだかシュンとしながら、申し訳なさそうにそう告げた。役に立てなくてすみませんと、顔に書いてある。ラング准将のほうに責める気はないようで、彼は少し考え込んでしまった。


「うーん、でも、カルメリータはなぁ」


 リスキンドがフワフワした赤毛をかき混ぜながら、頼まれもしないのに余計なことを言う。


「わりと鈍感じゃん? だから、なんも感じてなくても不思議はないかも。世界が滅亡する当日でも、鼻歌歌ってそうだもん」


「……リスキンドさん。ぶっとばしますよ」


 よほどカチンときたのか、カルメリータが目を据わらせている。リスキンドはぎょっとして、慌てて姿勢を正して、口を閉ざした。


 本気で怒られるまで気づかないあたりは、リスキンドらしいといえばリスキンドらしい。彼はすごく聡い時と、反対にお馬鹿な時があると祐奈は思った。もしかすると、気を許している相手には、デリカシーが欠如してしまう傾向にあるのかもしれない。


「でも祐奈はセンシティブだから……」


 ラング准将が呟きを漏らしながら、祐奈の手を取り、


「――失礼」


 と断ってから、ブレスレットを手首から抜き取ってしまう。


 スタート地点であるシルヴァース大聖堂にて枢機卿から渡された、聖女のリングだ。聖典と深い繋がりがあるもので、これに魔法をインストールしてきている。これは魔法の原理が詰まった、脳味噌みたいなものだ。


 ――祐奈はラング准将がブレスレットを引き抜いた瞬間、肩がずっしりと重くなるのを感じ、驚きのあまりハッと息を呑んでいた。


「これ、って……」


「赤い扉のほうを見て」


 言われたとおりにする。


「一歩近寄ってみてください」


 足を進めると、さらに倦怠感がひどくなった。祐奈に霊感のたぐいはないけれど、『見える人』がいわくつきの場所に行った時は、こんな感覚に囚われるのかもしれないと思った。


 理屈では説明できない、嫌な感じがする。


 祐奈は絶望を感じた。


 これは駄目だ。隠しおおせられるわけがない。祐奈が何を取り繕おうが、どんなに巧みに嘘をつこうが、これではどのみち赤い扉の秘密は、ラング准将にバレてしまっただろう。


 彼がスマートな手付きでブレスレットを嵌めてくれた。――それで嫌な感覚が嘘のように消失する。


「……どうしてですか? 全然違う」


「おそらくブレスレットが阻害装置になっています。聖典はあなたを招き入れたがっている。怖気付かれると困るので、感覚を遮断しているのでしょう」


 まるで食虫植物のモウセンゴケみたいだなと祐奈は考えていた。――モウセンゴケはしゃもじのような形の葉に、腺毛(せんもう)がびっしり生えていて、そこから甘い粘液を出して昆虫をおびき寄せる植物だ。昆虫はからめ取られるまで、まるで命の危険を感じないわけである。


 祐奈は聖典のやり口を恨めしく思った。せめてもっと上手く――殺気(?)を抑えるよう、努力して欲しかった。これじゃあ台無しだ。


 ラング准将ほどのやり手がこれほど赤い扉を警戒していては、のろまな祐奈が彼を出し抜いて通り抜けられるはずもない。


 どうしよう……どうしたら? この場で解決するのは難しそうだった。では……一度宿に戻り、夜になったら、こっそり抜け出して一人でここへ来る?


 ――チラリとラング准将のほうを見上げると、彼が鋭い視線でこちらを見据えていることに気付いた。


 普段の優しさは皆無で、底知れぬ何かを感じた。祐奈はヴェールを剥ぎ取られたかのような心細さを覚えた。こんな薄布一枚では、彼の前から何も隠すことはできない。これが『格の差』というやつかもしれない。


 祐奈は後ろめたさからビクリと肩を揺らしていた。


 ば……ばれている。こちらの浅い考えなど、全て彼にはお見通しだ!


 祐奈が『扉は私が一人で通過しないといけません』と強固に主張したのは、今になってみると非常にマズかった。あれでラング准将にはこちらの意図が筒抜けになってしまったのだろう。


 後悔しても遅いが、とにかく失敗した。何もかもを間違ってしまった気がする。


 一度ここから退去したとしても、ラング准将は祐奈を絶対に一人で行動させはしないだろう。祐奈にはそれが分かった。


 ヴェールの下で祐奈がほとんど半べそ状態になっていると、その気配を感じ取ったのか(?)、ルークがトコトコと歩いて赤扉の前まで進んだ。そうしてクルリと反転し、扉をバックにしてお座りする。彼は眠そうな半目のまま、じっと祐奈のほうを見つめてきた。


 ――落ち着けよ、お嬢ちゃん――なんだかそんなふうに語りかけられているみたい。しばらくのあいだルークは祐奈の瞳をじっと見上げ、そのままでいた。


 祐奈は微かに眉を顰めて、ルーク、その背後の扉、壁面を眺めていた。それであることに気付いた。


 ――扉横の壁面に、約三十センチ四方の正方形の石板が埋め込まれている。色は扉と同じ赤。血のように深い赤だ。石板の上には金属プレートが掲げられており、そこには見たことがない文字が刻印されている。


 この世界に来てから、聖典の恩恵で祐奈は文字の読み書きができるようになっていた。しかしそれでも読めないということは、あれは今の言語ではないということだろうか。


 失われし古代文字――それは元居た世界での象形文字に極めて近い形だった。


 読み取れないので、当然メッセージの内容は分からない。しかし祐奈はふと、石板を見て、あるものを連想していた。


 あれって……ICカードチェッカーみたいだな、と。扉横のセキュリティ・システム。レッドランプ、グリーンランプがついていればそのままではないか。


 赤い扉の向こうが呪術的な空間だとすると、不特定多数の人間に踏み荒らされるのを、聖典はよしとしないだろう。おそらくロックをかけているはずだ。


 ――あの石板に聖女のブレスレットを当てることで、解錠できる仕組みなのではないだろうか? 施錠されていないか行って確かめてみる気はしないけれど……(扉がロックされていなくて、解放したことで強制的に死刑執行が始まってしまうと、皆を巻き込んでしまいそうで怖いから、簡単にテストしてみることはできないが)……おそらく間違いないと思う。


 そうなると良い点もあった。ラング准将を一人で行かせないで済む。


 祐奈はブレスレットを死守すればよい。――彼にはこれを渡さないし、扉を開けさせない。


 祐奈もラング准将の目を盗んで開けることはできないので、完全に膠着状態なわけだが、彼一人を行かせるよりもよほどマシである。


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