第78話 生存確率1%未満


 ――翌朝。一行は宿を出て、徒歩でカナン遺跡に向かった。馬車二台が後ろをついて来る。


 遺跡を抜けると国境を越えられるのだが、ちなみに普段、ここは封鎖されているそうだ。聖女来訪時だけに開放される、特別な拠点であるらしい。


 遺跡内は馬車でそのまま通過することができるが、閉鎖された場所を車中で移動するのは危険だとして、祐奈たちは徒歩で国境を抜ける算段になっている。


 徒歩組のあとを、御者が操る馬車がついてくる形だ。ちなみにリスキンドも徒歩で移動している。彼はいつも乗っている馬の手綱を引きながら同行していた。


 カナン遺跡は黄色がかった石材でできた堅牢な建造物だった。まだ遺跡の入口にも到達していないのだが、そこに至るアプローチが、なんというか迷路のような複雑さだった。


 ――標識を頼りに正面口目指して進んで行くと、角を曲がったところで、意外な人物と遭遇することとなった。待ち伏せしていた人物は壁面に寄りかかっていた。


「なんだあいつ、ストーカーかよ……」


 げんなりしながら呟きを漏らしたのはリスキンドである。リスキンドは彼のことが本当に嫌いらしいと祐奈は思った。……まぁ確かにあの人は、アクが強いから……。


「やっほー、皆さん! お元気ー?」


 この人はいつでもどこでも基本こんな調子だ。そう――毎度おなじみ、ダリル・オズボーン君である。


 壁から背中を剥がし、おーいと気さくに手を振ってくる。なんというか、邪気の欠片もない満面の笑みというのが、こちらからするとそこはかとなく恐ろしく感じられた。


 元気な時の犬の尻尾の動きみたいに、ブンブン手を振っている。……どうして朝からあんなにハイなのだろうか。遠足当日の小学生でも、もうちょっとクールだと思う。


 祐奈たちは誰も手を振り返さなかった。陽気なカルメリータでさえ、凍えそうな冷たい目でオズボーンを眺めているだけだった。白黒毛並みのルークは半目になり、普段よりもさらに仏頂面になって、後ろ足で耳の裏を掻き始める始末だった。


 しかしオズボーンは鋼のメンタルをお持ちなので、こちらがどんなにドン引いていようが、お構いなしであった。


「ちょっと僕、祐奈に言い忘れていたことがあってさぁ。ちょいちょい、来て来て」


 彼が手招きするので、祐奈は一瞬ためらったものの、聞いておいたほうがいいかと判断した。彼はイカレているが、有益な情報を持っていることだけは間違いがない。


 ただ、こちらをペテンにかけるつもりであるかもしれないので、仕入れたあとの情報をどう扱うかは、注意しなければならないところであるが……。


 祐奈が一度止めた足を進めようとしたところで、ラング准将がそれを手で制した。


「――話なら私が聞く」


 ラング准将がオズボーンにそう告げる。鋭利な視線は前方のオズボーンに向けられており、祐奈は彼の背中を眺めて、当たり前のようにかばわれているこの現状に、少し動揺してしまった。


 『枢機卿の側近であるオズボーンと話をしようとしている』という今の場面では、護衛が気を配る必要は本来なく、先の制止は、ラング准将の職務から外れているような気がしたからだ。


 ラング准将がそのまま進もうとしたので、オズボーンが大声を出す。


「ちょっと、ストーップ! ダメだよ、ラング准将はダメ。ノー・モア・ラング准将! こっち来ないで」


「お前は何を言っているんだ。枢機卿の側近だから、私に手を出されることはないと高(たか)を括っているなら、それは大間違いだぞ」


 ラング准将から割と本気っぽい脅し文句が発せられたので、聞いていた祐奈は冷や汗をかきそうになった。端正な佇まいなのに、なんだろう……『いい加減、コロス』という明確なメッセージが、偉大なラング准将の全身から発せられているのが読み取れた。


「ラング准将が来るなら、僕は話さないからね」


「口を割らせる方法はいくらでもある」


「この人、超ヤバイ!」


 オズボーンの返しは大袈裟だったけれど、彼の右頬が引き攣っていたので、実は本気で怯えていたのかもしれない。ラング准将もオズボーンにだけは『ヤバイ』なんて言われたくないはずだ。


 ――祐奈は覚悟を決めて、ラング准将の腕にそっと触れた。彼がこちらを眺めおろす。視線が和らぎ、アンバーの瞳に温かみが戻った。


「あの、ラング准将。私、話を聞いて来ます」


「承諾しかねます」


「でもオズボーンさんは頑固なので、私が一人で行かないと、必要なことを話さない気がするんです」


「……毎回このパターンですね」


 ラング准将が微かに小首を傾げたように見えた。物思う視線というか、少し呆れ交じりというか……。『ままならない』と彼の顔に書いてあった。


「どういう意味でしょう?」


「祐奈はちゃんと鳥籠に入っていてくれない」


 これにはちょっと笑ってしまった。ラング准将でも真顔でジョークとか言うのね、という新しい発見もあった。


「私は小鳥ですか?」


「かもしれない」


「もしそうだとして……ラング准将に飼ってもらえたら、とても幸せでしょうね」


 本当に幸せだろうなと思って、また笑みを漏らしてしまった。こらえきれずに、ふふ……と声に出して。


 祐奈が呑気に笑っているので、ラング准将は『やれやれ』という顔をしている。


 それで祐奈はこの時なんだか……前と少し変わったかもしれないと思ったのだ。


 上手くいえないけれど、彼のほうに遠慮がなくなったように感じられて。二人の関係が形を変えつつあるような……。


「――気をつけて」


 ラング准将に改まった口調で告げられ、祐奈は「はい」としっかり返事をしてから、足を前に進めた。



***



 オズボーンの前まで辿り着くと、彼が奇妙な指図をしてきた。


「祐奈。ポジション・チェンジしよう」


「え?」


「こっち側に来て」


 オズボーンがくるりと背を向け、ジェスチャーで祐奈に『向こうへ回れ』と告げる。――彼が入口のほうを向き、祐奈がそれに背を向ける形だ。逆らうのも面倒なので言うとおりにしたものの、不思議ではあった。


「どうしてこんなことを?」


「ラング准将に唇の動きを読まれそうだからさ」


「え? まさか」


 オズボーンはラング准将に背中を向けておきたかったのか……。だから祐奈を奥側に回り込ませ、自身は反転した。しかしこんなに離れているのに、唇の動きを読むだなんて、そんなの……と祐奈は小首を傾げかけて、はたと動きを止めた。


「あ、でも……ラング准将なら、そのくらいの芸当はできるのかな?」


「できると思うよ。いとも容易く。――ていうか祐奈、ラング准将を侮り過ぎじゃない?」


「そういうわけではないんですが。でもオズボーンさんが、急に変なことを言うから」


「そうかな? 彼は凡人が想定している千倍はヤバイと思っておいたほうがいい。……正直な話、僕がこの世界で最も警戒しているのが、彼なんだ。二人の聖女よりも、よほどね」


「ラング准将が本気を出したら、魔法を使えるということですか?」


「そうじゃなくて。魔法を使わなくても、彼自身の潜在能力で、越えられるはずもないラインを越えてくるかもしれない。――そのほうがよほど怖くないか? たかが人間風情の知恵と能力で、聖典と渡り合えるはずもないのに、それでも彼には不可能を可能に変えそうな何かがある。まったく、気分が悪くなるよ。……僕は彼が、怖い」


 オズボーンは本当に嫌そうな顔をしていた。それは虫歯を痛がっているような顰めつらだった。


 彼がこんなふうに恐怖や嫌悪の感情をダイレクトに表すのは、非情に珍しい気がした。ラング准将の持つ何かが、オズボーンの完璧な内面世界を破壊してしまったのだろうか。


「――怖い、はある意味、褒め言葉ですよね」


「あのねぇ、祐奈って馬鹿なの? さっきの口調のどこに好意があったって言うんだよ。僕は彼が『嫌いだ』つってんの」


 祐奈からすると、やっぱり真逆に聞こえる。しかしオズボーンはやはり顰めつらのままだったので、もしかすると自覚がないのかもしれなかった。


 これ以上突っ込むとオズボーンの機嫌を損ねてしまうかもしれず、何をしてくるか分からないので、祐奈は少し話題を逸らすことにした。


「ええと、そう……確かにラング准将って、たまに凄すぎて、忍者みたいだなと思う時ありますもんね」


「忍者って何?」


「あ……いえ、なんでもないです」


 ずっとこんなことはなかったのだが、混線したのか、言語が混ざってしまった。


 それで――『忍者』が通じなかったのは当たり前のことなのだけれど、それでも祐奈はこの時ちょっとした驚きを覚えていたのだ。なんとなく、『オズボーンにならなんでも通じるんじゃないか』と思っていたせいだろう。彼の得体の知れなさにすっかり慣れてしまったというか……。


「それで、私に伝えたかった話とは?」


「前に僕が言ったこと、覚えている? 死のルート」


「はい。……とりあえず、ここまでは無事でした。問題は国境を越える時ですか?」


「そうだ。遺跡に入ったあと、赤い扉がある。奥の間に通じる扉だ。――あれを開けたあと、君一人で通過して欲しい」


「え?」


 びっくりしてオズボーンの綺麗な顔を見つめる。彼は珍しく真顔だった。ラング准将を警戒しているのか、祐奈だけに聞こえるように、囁くような声音で告げる。


「ラング准将を死なせると、政治的にマズイのよ。彼、侯爵家の中でも指折りの名家出身だからね。君は……そうだな。運が良ければ、切り抜けられる」


「扉を開けた私が生きていられる確率は?」


「1%未満。ほぼゼロだね。でも君の賭けに、ラング准将を巻き込むことはないだろ?」


「――私が逃げ出すとは考えないのですか? あなた方にそこまで尽くす義理はないのでは?」


 自分が逃げてしまえば、旅の仲間だって死なずに済む。


「君はまだ異邦人の感覚でいるんだね。まぁ確かに死にたくないから回避したいと考えるのは自然なことだよ。――でもラング准将やリスキンド、カルメリータはそういうわけにもいかないんだ。だってこの世界の人間だから」


 辛辣な物言いではあったが、彼の整った面差しには、少しだけ同情も見て取れた。……けれどまぁこれすらも演技かもしれないけれど。


「君が逃げれば、ラング准将は職務を全うできなかったことになる。その結果、彼は全てを失うだろう」


「罪に……問われる?」


「ラング准将が君に献身的に仕えていたのは、大勢が知っている。意図的に君を逃がしたとして、国家反逆罪に問われるだろうね。ラング准将本人だけではなく、一族郎党が辛酸をなめることになる」


 ラング准将は自身が危険にさらされる可能性があったとしても、敵前逃亡なんてしないだろう。――そんな崇高な彼が、祐奈が逃げることで、とばっちりのように汚名を着せられてしまう。


 彼は祐奈の身を護っているが、その真の目的は『聖女をウトナまで送り届ける』ことなのだ。祐奈が職務を放棄すれば、皆が巻き添えになる。


 名家のラング准将が負うダメージが一番大きいだろうが、他のメンバーだって大なり小なり似たようなことになる。リスキンド、カルメリータが罪を問われることになれば、その家族もつらい目に遭うだろう。


 オズボーンのやり口は少し卑怯だった。もしも旅が始まる前に『途中で逃げたら、護衛役は国家反逆罪に問われる』という話をされていたら、他者を巻き込む前にと、祐奈は王都シルヴァースで逃げ出していたかもしれない。


 ――旅の前に『死のルート』の話をされたけれど、あの時はまだ現実味がなかった。まだ何も始まっていなかったし、逃げ出して野垂れ死にするよりは、とりあえずやってみようという気持ちになっていた。状況がはっきりしていないのに、闇雲に逃げ出すのは、愚かに思えたから。この世界の常識やルールも分かっていないし、お金も持っていないのに、それでも一人で暮らしていけるだろうという楽観的な気持ちには到底なれなかった。だからウトナへの旅に出ることにした。


 ――けれどこうなってはもう、皆を裏切れない。だからこそオズボーンはこのタイミングで、この話をしたのだ。


 オズボーンが旅の前に『死のルート』のことを仄めかしておいたのは、今この時、祐奈の覚悟を決めさせるためだろう。


 あれは長い時間をかけてボディブローのように効いてきた。突拍子もない話ほど、下地をちゃんと作っておく必要がある。オズボーンの意識操作は実に巧みだった。


 祐奈は死の運命をいつもどこかで意識し続けていた。


 そしていざ――もうここが決定の最終ラインというところになって、彼は選択肢を突きつけてきた。ラング准将を罪人にしてよいのか、と。――いいわけない。そんなことはできない。


 しかしオズボーンにも良い所はあった。それはこうしてはっきり言ってくれたところだ。彼の話で分かったことも多い。赤い扉が境界になるということ。それならば、扉以前の場所なら、安全は保証されるということなのだろう。


 オズボーンは『君一人で通過して欲しい』と言った。つまり、赤い扉を一人でくぐりさえすれば――扉をそのあとに閉めてしまえば――ラング准将(そして旅の仲間たち)に危険は及ばないということになる。


 なんとかラング准将の裏をかいて進めたとしても、彼は優秀な護衛だから、きっとすぐに祐奈のあとを追ってくるだろうと、それが怖かった。けれど魔法が支配している空間なら、扉を閉めることで封印されて、ラング准将をそのまま外に留め置けるのかもしれない。


 ――とにかく彼は助かる。それで少しホッとすることができた。彼が生存できるルートが残されていると知れたから。


 オズボーンに言われる前から、どうせ犠牲が出るなら、せめて自分一人で済ませたいと思っていた。それがこうして具体的なやり方を聞けたのだ。神様も『そうしなさい』と言っているのかな……と祐奈は平静に受け止めることができた。オズボーンと話せて良かったと思う。


「じゃあ、頑張ってねー」


 話は終わったらしい。祐奈はコクリと頷いてみせ、彼のそばを通り抜けて皆のほうに戻ろうとした。


 ――その瞬間、オズボーンが不意に手を伸ばして来て、左手でこちらの肩を抱き込んできた。それは半身のままでの乱暴なハグで、相変わらずの遠慮のなさだった。


 親愛の情の表れというよりも、強盗犯が人質を取る時のやり口に近い。


 五メートル以上は離れていたはずなのに、オズボーンが行動を起こす前から不穏なものを感じていたのか、抱きしめられた次の瞬間にはラング准将がすぐそこまで来ていた。ほぼ同時にリスキンドも。


 ――ラング准将にお腹のあたりを抱えられて、彼のほうに引き寄せられる。


 ラング准将にかかれば、祐奈の体など、意思のないマリオネットのように容易く動かされてしまう。彼に抱えられると、自分の体重がほとんどなくなったかのように感じられた。まるで羽一枚に変化したみたいに。


 彼の手付きはまったく乱暴ではないのに、意のままに操られてしまうのだから、祐奈としてはものすごく不可思議なのだった。


 ――背中が彼の胸板にぴったりとくっついてしまい、そのことにものすごく動揺して足元がフラついた。転びたくなくて無様に彼の手にしがみついてしまう。


 体勢が安定したところでハタと我に返り、祐奈は自身の慌てぶりがなんだか恥ずかしくなってきた。


「ご、ごめんなさい」


 俯きながら慌てて詫びを入れると、


「大丈夫ですか?」


 彼の綺麗な声が斜め上から降ってくる。


 祐奈は赤面しながらこくこくと何度も頷いてみせるのがやっとだった。――もう大丈夫なのに、ラング准将からするとまだ危なっかしく感じられるのか、彼は手を離そうとしない。


 祐奈はふと自身の不適切な接触に気付いた。意図せず、彼の手の甲に自分の手を重ねてしまっている。それが妙に恥ずかしくなってきて、重ねていた手をそっと離してオロオロと中空を彷徨わせた。


 それでも状況が変わらなかったので、両手を胸の前で組み合わせ、指をもじもじと動かす。


 リスキンドはオズボーンの首根っこを押さえていた。しかしオズボーン自身はニヤニヤ笑いを浮かべていて、まったくこりていないようで、


「――なんだい、リスキンド。情熱的なアプローチだなぁ。お別れのチューをして欲しいのか?」


 なんてからかう余裕すらあった。猫の子みたいに掴まれていて、よくああも憎まれ口が叩けるものだ。


 ――オズボーンはそのあとあっさりとその場を去ったのだが、一行の負った精神的ダメージはかなりのものだった。ラング准将とリスキンドが特に、ぐったりと疲れているように見えた。


 祐奈は祐奈で、解放されたあとも、ラング准将に抱っこされた件が尾を引いていた。


 ところで、さっきオズボーンがハグをした瞬間、祐奈のドレスのポケットに黒い立方体の聖具『キューブ』を放り込んでいたのだが……それに気付けた者は誰もいなかった。


 オズボーンは実に巧みに、それをやってのけた。体の向きを反転しながら、ラング准将の死角を見事に取ったのだ。


 祐奈の命運を左右するかもしれない、リベカ教会秘蔵の、この世で最も神秘的な聖具キューブ――それは誠に魔訶不可思議な代物で、手のひらに乗る小さな宇宙である。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る