8.ボーダー

第77話 あなたを失えない


 国境の町、カナンに到着した。


 この辺りは空気がからりと乾燥している。黄色がかった石と日干しレンガでできた建物群はなんだか遺跡めいて見えて、質素であるのに、目を惹かれるような不思議な魅力があった。


 夕日が沈む前にこの町に着いたので、リスキンドは番犬ルークを連れて、町の探索に出かけるとのこと。


「――カナンの裏の顔も知っておかないとね」


 なんて言っていたので、帰りはかなり遅くなるだろう。もしかすると朝帰りになるかもしれない。内面はダンディなルークも、粋な遊び方を心得ていそうだ。


 そして陽気なカルメリータは宿で夕食を一緒に取ったあと、好奇心に瞳を輝かせて、


「お散歩してきてもいいですか?」


 と尋ねてきたので、祐奈は「ごゆっくり」と言って送り出した。


 たまにはのんびりと息抜きして欲しい。カルメリータの仕事は休みがなくて申し訳ないと感じていたので、彼女からそう言ってもらえるとホッとする。


 祐奈が「ちゃんと休日を決めましょう」と提案しても、カルメリータ自身が「はい」と頷かないので、どうしたものかと気になっていたのだ。


 ――夜になり、宿には祐奈とラング准将だけが残った。


 いつものように大きな部屋を押さえてあったので、広いリビングが中心にあり、寝室がいくつかついているタイプである。ふたりはリビングでローテーブルを挟み、対面する形でソファに腰かけていた。


「――明日、国境を越えますね」


 静かな夜だった。


 ラング准将の姿を眺めるうちに、祐奈は胸がキュッと引き絞られるように痛むのを感じた。


「そうですね」


 彼の声を聞くのが好きだった。心がとても落ち着く。


 自分にはあとどのくらい時間が残されているのだろう……祐奈は考えを巡らせる。果たして先があるのだろうか。明後日も生きていられるのか。


「ラング准将には、いつも親切にしていただいて感謝しています」


「急にどうしたのですか」


「節目なので、言っておきたかったんです。私はずっと勇気が出せなくて、臆病だった。でもあなたはいつもだめな私を許してくれた」


 この時、祐奈はどういうわけか『ヴェールを取ってみてもいいかもしれない』と考えていた。


 抵抗はさして感じていなかったし、怖さもあまりなかった。これが最後かもしれないから、後悔しないように……そう思ったりもして。


 でも、なぜだろう。太腿の上に重ねている手を持ち上げようという気にはなれなかった。……簡単なはずなのに。ヴェールを掴んで、下に落とす。ただそれだけ。


 もしかするとこの空気が祐奈にとって完璧すぎるから、このままでいたいと望んでしまったのかもしれない。


 とても穏やかな気持ちだった。国境を越えるのが怖くて仕方ないはずなのに、今は近くに彼がいて、満たされている。


「――あなたは強い人だと思います」


 ラング准将の語り口は穏やかで、彼の飴色の綺麗な瞳で見つめられると、受け入れられているという安心感を覚える。


 彼が静かに続けた。


「理不尽な目に遭った時、誰かに当たり散らすこともできたはず。けれどあなたはそうしなかった」


 言われたことをよく考えてみる。彼はお世辞を言うような人じゃない。だから本心から言ってくれているのだろう。嬉しいと素直に感じるよりも、ちょっとしたバツの悪さを感じてしまった。


「それはラング准将に嫌われたくないから、良い子のフリをしていたのかもしれません」


 自分でもその辺はよく分からない。ちゃんと自覚していなくても、無意識のうちにそうしていた、というのはありえるかも。


 けれどラング准将がそれを否定する。


「いいえ。カルメリータに接する態度を見ていれば、分かります。あなたは目下の者に優しい。それから店に立ち寄った時も、店員に対してとても礼儀正しく接するでしょう? 私は旅が始まったばかりの頃から、ずっとそのことに感心していました。あなたは上辺だけでなく、心から相手に敬意を払っていた。――そういうところに出るのだと思います、その人の本性が。あなたは他人の立場になって考えられる人だ」


「あり……がとうございます」


 自覚していなかったことを手放しに褒められ、少しまごついてしまった。


 彼は不思議な人だと思う。たぶんラング准将はお人好しではない。それでもこんなふうに他者に対しておおらかに接することができるし、相手の良い点もちゃんと見つけてくれる。


 ――これは彼の善良性を示しているのだろうか? そうでもあるし、本質的には少し違うのかもしれない。いい人だから親切にできるというような、単純な話でもないのかなと祐奈は思った。


 彼は他者との距離の取り方が上手いのではないだろうか。もしかするとその辺は、武道の心得と通ずるものがあるのかもしれない。調和が取れている状態に持っていくのが上手いけれど、相手に委ねて妥協しているわけでもない。


 自分自身が心地良いと感じられる適切な距離感で、相対するようにしているのだろう。


 少し距離を置いているから、肯定的に相手を受け入れることができる。人間として成熟しているからこそ、のめり込み過ぎずに相手をフラットに見ることができる。


 でもやっぱり、ラング准将はとびきり私に甘い気がする……祐奈はこっそりとそう考えていた。


 なんとなくではあるけれど、十以上も年の離れた幼い妹に接しているみたいな感じがするというか。ご飯を食べただけでも『偉いね』と頭を撫でてくれるような、穏やかな無償の愛に似通っている気がして。……だけどそれって、考えすぎかな?


 祐奈が戸惑っているのをヴェール越しでも感じたのか、ラング准将が微かに笑みを漏らした。この時の彼は顔を顰めていたわけではないのだけれど、少し苦笑めいた笑い方のようにも見えた。


「あなたのそういう公正なところは好きですが、いつでもそうである必要はないと思いますよ。――だめなところがあってもいい。そんな自分を許すべきだ」


「だめなところを許す、ですか」


「時には混乱して感情的になったっていい。人間なのだから、醜態を晒すのは当たり前のことです。あなたはそういった負の感情を恥じる傾向にあるけれど、そんな必要はないと私は思います。みっともない瞬間があったっていい。特にあなたの場合、つらい時に弱者に八つ当たりしなかっただけでも立派なのだから、それ以外はもっと適当でいいのではないですか? 最低限のルールさえ守っていれば、いくらだってネガティブな面を出してもいい。負けるのは恥じゃない。つらかったら逃げてもいい。我儘を言ってもいい。甘えていいんです。――そのために私がいます」


 泣きたいような気持ちになった。この世界に来てから、『自分ってだめなやつ』と思うことが増えた。他者から軽く扱われると、自己肯定感がどんどん下がっていくような感じがして。勝てない自分がどうしようもなく感じられて、つらかった。


 でもラング准将は負けるのは恥じゃないと言う。つらい時に取り乱しても、みっともなく醜態をさらしても、当たり前なのだと。人間なのだから。


 そのアドバイスは『負けないように頑張ろう。前向きに生きよう。後ろ向きなのはよくない。常に成長しよう。好きになれる自分でいよう』と自己啓発めいたことを言われるよりも、ストンと胸に刺さった。


 だめなところを肯定すればいい――それはうんと心が楽になる、魔法の台詞だと思った。『皆、なんだかんだ言ったって、同じようにだめなんだから、ありのまま、それでいいんだよ。人間なんて元々みっともない生きものなのだから』というのは、これまでの祐奈にはなかった視点だ。


 それでふと思ったのだ。……でも、あなたは?


 完全無欠なラング准将――あなたは負けることがあるの? 醜態を晒しているところを見たことがないけれど、つらい時はどうしているの?


「ラング准将は誰に甘えるのですか? 私はあなたが我儘を言っているのを見たことがありません」


「――では、あなたに」


 冗談めかした口調であるのに、祐奈はドキリとさせられた。


 彼は時折こんなふうに困った人になる。悪戯めかした態度で、祐奈をひどく戸惑わせるのだから。


 彼は弓の名手みたいだ。思いがけないタイミングで、胸を射抜いてくる。


「困った時、私はあなたに甘えることにします。ですがあなたが先に甘えてくれないと、私もそうすることができない。私はあなたに仕える立場ですから」


 それならば少しだけ……勇気を出して、踏み込んでみようか。彼はきっと、嫌だったら嫌だと言う人だ。どう返されるかを考えるのではなくて、とりあえず、衝動で馬鹿げたことを言ってみてもいいかもしれない。


「あの、お願いがあるのですが」


「どうぞ」


「ハグしてもらってもいいですか? カナンを越えるのが怖いんです。あなたにそうしてもらえたら……よく眠れる気がします」


「喜んで」


 彼が対面のソファから立ち上がり、歩み寄ってくる。スマートに手を差し出され、祐奈はそっと右手を伸ばして彼の手に重ねた。


 窓辺に誘われ、向かい合って立つ。


 彼はとても優しかった。纏う空気が。瞳の色が。


 ふたつのシルエットが溶けるようにひとつに重なった。彼の腕に包み込まれながら、祐奈は気負いや恐怖が抜け落ちて行くのを感じていた。


 ――あなたがここにいる。月だけがふたりを見ている。


 やっぱり彼を失えない、と祐奈は思った。明日自分の人生が終わるとしても、それでも彼には生きていて欲しい。


 ラング准将が立派な人だからとか、もっと多くのことを成し遂げるに違いない人だからとか、そういうことで彼に生き延びて欲しいと考えているわけではない。


 エゴかもしれないけれど、彼が自分にとって大切な人だから、死なないでほしい。


 これまでずっと親切にしてくれて、感謝している。彼の瞳がこちらに向くのが好きだった。まるで時間が止まったみたいに感じられて。


 自分がこの世界から消えたとしても、彼が元気でいてくれるなら、なんだか救われるような気がしていた。


 どうか生きて――幸せに暮らして欲しい。そこに祐奈がいなくても。彼にはただ生きていてほしかった。


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