第76話 出発
夜、ラング准将はハッチの部屋を訪ねていた。側付きを外させ、サシで話をしたいと告げる。
――ラング准将を迎え入れたハッチはヘコヘコしながらソファを勧め、一番高い酒を振舞った。
愛想笑いを浮かべて、『どうか面倒な話ではありませんように』と神に祈ってみたのだが、結局、その願いが叶えられることはなかった。というのもラング准将が持ち込んできたのは、とびきりの厄介事だったからだ。
「――アリスが私を護衛に戻したがっている」
なんと……ハッチは息を呑む。
ではチェンジか? いや、待て。アリスがラング准将を望んだとしても、ハッチが祐奈に付かないで済む方法もあるかもしれない。
たとえばNO.3を祐奈のほうにやるとか、あるいはリスキンドに特例で権限を与え、繰り上がりで隊長にしてしまうとか。
とにかくはっきりしているのは、アリス姫がそう望んだならば、ハッチに拒否権はないということだ。
「では、そのとおりにしなければ」
「逆だ」
「は? 今なんと」
「アリスが私を戻したがっても、お前が妨害するんだ」
「そんなのできるわけがない」
「いいや、やってもらう――借りを返してもらうぞ、ハッチ」
ラング准将の琥珀色の瞳が真っ直ぐにこちらを射抜く。彼の目を見て、本気なのだと悟った。
確かにラング准将には助けてもらった恩がある。しかしできることと、できないことがある。
「それはでも、無理ですよ、ラング准将」
「盗賊におびやかされてロジャース家で縮こまっていた件を忘れたのか。お前を助けてやったのは誰だ。しっかり思い出せ」
「しかしアリスに逆らったりすれば、私がサンダースに殺されてしまう」
「なぜ私の口から、お前に話を通していると思う」
「どういうことです?」
「アリスの要望は、サンダースを外して、私を戻すことだ。それを私が撥ねつけたから、次はお前に話を持ちかけてくる可能性が高い。枢機卿には話を通せない、込み入った事情があるようだからな」
「え……それじゃあアリスは、サンダースを嫌っている?」
「驚いたことに、そのとおりだ」
なんてこった……ハッチはソファの背に体を預けた。意図せず口元が緩む。
なんだよ、そうだったのか? ざまぁみろ、くそサンダースめ!
「サンダースを外す件、それは願ったり叶ったりですよ。大体、あいつ、偉そうに――」
「しかしお前が中央に話を通し、サンダースを外せば、あいつはお前を殺すぞ」
「えっ、どうしてですか? ひどいです、それはアリスの希望なのに!」
「サンダースには関係ない。お前が協力しなければ外されなかったと、怒り狂うはずだ。旅が終わったあと、やつに寝首をかかれるかもしれないと、ずっと怯えながら暮らすのは嫌だろう」
ハッチはぶるりと震えた。
確かに、サンダースは恐ろしい。ああいう手合いが恨みを抱いたら、命ある限りそれを忘れはしないだろう。
あんなイカレたやつに終生付き纏われるなんて、冗談じゃなかった。それでは苦労して護衛隊に志願した意味がない。王都帰還後、ハッチには薔薇色の人生が待っているのだから。
「それに私がこちらに戻るなら、お前はアリス隊から抜けなければならない」
「祐奈隊の指揮は、別の人間でもいいのでは?」
「だめだ。王都で二隊に分離した際、私とお前が別れて治めるという前例を作った。それは今回も適用される。お前の勝手な都合でルールを捻じ曲げれば、国王陛下の不興を買うぞ」
ハッチはよく考えてみた……確かに、ラング准将の言うことは筋が通っている。
NO.1のラング准将と、NO.2のハッチ――これが祐奈隊、アリス隊を、現状別れて指揮している。その初めの決定は、国王陛下のお膝元で行われた。
ここでアリスがラング准将を呼び戻した場合、当然、ハッチが代わりに祐奈隊に行くという話になる。それを突っ撥ねるのは、我儘を言って隊の運営を乱していると取られかねない。
ならば大人しく異動の辞令に従うか? ――いや、それはだめだ。ハッチは祐奈隊の指揮をするのなんて、死んでもごめんだった。
「ハッチ。私がアリス隊に異動になれば、お前に未来はない」
「ラング准将……」
「キャリアアップの計画もご破算だ――さぁどうする」
「私は具体的にどうすればいいですか」
「アリスはお前に、中央とのパイプ役になれと要求してくるはずだ。彼女は国王陛下の命でサンダースを王都に戻す形にしたいらしい。――お前はアリスから話を持ちかけられたら、言うことを聞くふりをして、時間を稼ぐんだ」
「国王陛下にお願いしているところだから、決定が下されるまで待つようにと、嘘をつくのですか?」
「そうだ」
「いつまで? 無理だ! 進捗を訊かれるだろうし、ずっととぼけているわけにはいかない」
「国境を越えてしまえばなんとでもなる。国外に出てしまえば、中央の影響力はほぼなくなるから、あとはアリスが泣こうが喚こうが知ったこっちゃない。手に負えなくなりそうだったら、裏切りをサンダースにバラすと言って脅しをかけろ」
「旅が終わったあと、アリスから報復されませんか」
「ウトナ到着後は、聖女の影響力も薄れる。単なる名誉職に成り下がるから、恐れることはない。それでも糾弾されるようなら、私が護ってやる」
「しかし……国境を越える前に、アリスに嘘がバレたら?」
「はぐらかすのは得意だろう。あとは頭を使ってなんとかしろ」
「私は怖い」
「いいか――アリスの言うことを聞けば、お前は出世の望みも失い、その上で私のことも敵に回すことになる。これはお願いではない、お前にはこの仕事を必ずやり遂げてもらう」
ハッチの覚悟がようやく決まった。どのみちラング准将を目の前にして、彼に逆らうという答えは出なかった。
「分かりました。やります」
* * *
翌日。
大聖堂側からの見送りの儀式もなく、祐奈たちは静かにレップを旅立つこととなった。魔法取得をしないと決めたので、退去はスムーズに進んだ。
今、馬車にはラング准将、祐奈、そして番犬のルークだけが乗っている。
カルメリータは御者と少しお喋りしたいとのことで、外の御者席にいるから今は不在である。たぶん次の休憩地点で車内に戻ってくるだろう。
リスキンドはいつもどおり馬で追走している。
――祐奈はラング准将がこちらの護衛に残ってくれて、ほっとしていた。
レップにいるあいだにアリスが手を回して、ラング准将を取り上げてしまうのではないかと恐れていたのだ。とりあえずはなんとかしのげたらしい。
馬車に揺られながら、祐奈はここ最近感じていなかった安らぎを覚えていた。
祐奈は斜向かいの席に腰かけているラング准将のほうを見遣った。ヴェール越しでも視線を感じたのか、彼の瞳がこちらを向く。
穏やかで、成熟しているのに、どこか以前と違うようにも感じられた。
少し気だるげなような――それでいて、視線が交わると、祐奈のすべてを絡め取っていくような。
彼の気分ひとつで、こちらはどうとでもされてしまうに違いない、そんな予感に囚われるのは、なぜだろう。
祐奈は思い切って、彼に告げてみた。
「――ありがとうございます。いつも」
すると、ラング准将の口角が微かに上がった。
「――いいえ。こちらこそ」
それだけで胸が温かくなる。祐奈はそっと喜びを噛みしめた。
そしてヴェール越しに、外の景色を眺めるのだった。
* * *
枢機卿は罪悪感にさいなまれていた。
膝を折り、頭を垂れながらも、目の前の人物に対してではなく、もうひとりの聖女のことを思い浮かべてしまう。ついに耐えきれなくなり、心の澱を吐き出した。
「ヴェールの聖女は噂とはまるで違いました。醜さとは無縁の人物だった。それなのに理不尽な目に遭っている。このまま死のルートを進ませるのは、あまりに気の毒だ。なにか回避させてやる方法がないものか」
「やむをえない」
それはあまりに冷淡な返答だった。
「しかし」
「ヴェールの聖女こそ、恵まれすぎているのではなくて? 最強の護衛に護られ、大切に扱われている。こちらの世界に来てすぐ、のうのうと保護された身で、それでも苦労をしてきたと言えるの? あんなもの、私が味わわされた苦渋に比べれば、たいしたことではない。ほんの少しショーに嫌味を言われた程度ではね」
耳を傾けながら、枢機卿は祐奈と初めて会った時のことを思い起こしていた。
彼女はひとりぼっちで、不安そうだった。この世界に来たばかりで生活の基盤も整っていない中、性的嫌がらせをしたと一方的に糾弾されたのだ。
相当な屈辱だっただろうし、誰も味方がいないと孤独を感じたことだろう。平静に振舞おうとしていたようだが、彼女は追い詰められていた。
所詮、人の苦労というものは、他人が正しく理解することはできない。――簡単に『その程度で』と言えてしまうのは、結局のところ他人事だから。同じことが我が身に起きてみなければ、本当の意味で痛みなど分からない。
今身廊にいる人間の中で、枢機卿だけが膝を折っていた。
本来格下であるはずのキング・サンダースが、少し離れた場所に傲然と佇み、こちらを睥睨している。
枢機卿は奥歯を噛みしめた。
――こんな連中と組むくらいなら、祐奈を引き立てておくのだった。
彼女は正しい人間だ。自分が追い求めていた、理想的な聖女像であると言える。
王都にいた時ならば、まだ軌道修正は可能だっただろう。祐奈と組んでいれば、このような屈辱は味わわずに済んだのに。
しかし今さら悔やんでみたところで、もうどうにもならない。
祐奈はカナンで死ぬ。これは避けられないことなのだ。
7.白黒(終)
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